コインの裏と表、夢を見ているのはどっち?

 八月六日。その日、大和ケンは一人でふらりと散歩をしていた。外がアホみたいに暑いことは分かっているのに、それでもなんとなく落ち着かなくて家の中でじぃっと過ごしていることが出来なかった。

 きちんと自分の中の感情と向き合って折り合いを付けるということは今はまだ難しくて、そわそわとした何かの正体も分からないまま、ただ目的もなく辺りをぶらりと歩いて回る。


「あー、やっぱりあっづぃ……」


 家の冷凍庫から持ち出してきた凍ったペットボトルを首筋に当てながらゾンビのようにうめき声を上げながらたどり着いた場所はあの神社だった。

 別にそこに行こうと思って歩いていたわけでもないけれど、自然と足がそっちの方へと向かっていたらしい。


「アレは……、夕洲さん?」


 そしていつも通りに、神社の裏手側にある何にもない広場で少し木かげに入ろうかと思ったのだが、先客がいた。


「うん、うん。そうなんだ。でもそれって、むらさき色と何が違うの?」


 ハッキリとした声が聞こえてくる。


「むらさき色とは違う? でも話を聞く限りではどう考えてもむらさき色のことだよ?」

 だれかと話をしているみたいだった。


「むらさき色なんて言うなって? そんなに嫌いなの?」


 でも、その場所にはサラしかいない。


「でもよく見たら、きっと気に入るむらさき色もあるかもしれないよ?」


 本当に、本当の本当に、彼女一人きりしかいないのだ。


「どうしてもダメなの?」


 だのに彼女は、夕洲サラは間違いなくだれかと話をしていた。


「そこまで拒否するなら、仕方ないわね」


 いや、むしろサラの話し相手が見えていない自分の方こそがおかしいんじゃないかというカン違いをしそうになるほど、それは真に迫っていた。


「でも、なんてそこまで嫌いなの?」


 だれのためにそんなことをしているのか、何のためにそんなことをしているのか。もしかしたら何か演技の練習でもしているのかもしれない。


「ん? あっ、ケン君奇遇だね、こんなところで会うなんて」


 不意に流れたサラの視線にケンが見つかった。

 それは昨日と何にも変わらない夕洲サラだった。

 演技の練習をしているところを見られたら、多分普通は少し照れたり、はずかしがったりするものだけれど、そんなことは一切なかった。


「えぇと、うんそうだね、こんにちは。ところで誰と話してるの……?」

「えっ、だれって……」


 それでも、だからといって無視を決め込むことも出来ない。

 だって、もし何かあるのならば力になってあげたいから。せっかく仲良くなったのに、他人のふりをするみたいなことはしたくなかったから。


「そっか、ケン君には見えてないんだね……」


 そしてサラはそう言った。

 一番わけがわからない言葉だった。あるいはケンが一番聞きたくなかった言葉かもしれない。


「えっ……? そこにだれかいるの?」


 見えないものを見ているのか、存在しないものを見ているのか、あるいは本来はいるはずのものを見えなくしてしまっているのか、彼女の言葉に嘘がないとするならば考えられるのはその三つだ。

 そしてそれがどれだったとしても、きっと今まで通りでなんていられるはずがない、そんな気がした。


「わたしの見えてるモノ、ケン君にも見て欲しいな……」


 そう言ったサラの表情はのっぺりとしていた。初めて会ったときの超然とした感じとも、昨日の少しひかえめだけれど年相応に笑ってくれる感じとも違う、もっと色のない、自分のない表情。

 サラの姿形をした目の前の女の子が本当に夕洲サラであるのかどうか、自信がなくなる。

 そのくらい、違う表情だった。


「えっ、な、なに??」


 そして夕洲サラという存在に圧倒されている間に彼女はいつの間にやら目の前まで近づいてきていて、ぎゅぅっとケンの手を握りしめている。


 突然のことに頭が混乱する。

 なんで急に手を握られているのかも分からないし、なんでこんなに女の子の顔が近いのかもわからない。知っているはずの女の子なのに、本人かどうか自信がなくなることも分からないし、何より夕洲サラという女の子の言っている言葉の意味が分からなかった。


 じっとりと肌を汗ばませる夏の日差しはいつの間にか消えていた。

 それは太陽が雲にかくれたから、という理由では全くない。

 太陽は相変わらず輝いている。ただ、輝き方がおかしかった。いや、おかしいのは太陽だけではない。足元の地面も、風に揺れる葉桜も、そこから延びるかげも、何もかもがおかしかった。


 どんな色のサングラスをかけたってきっとこんな風に世界は見えない。

 太陽は緑色に輝いているし、葉桜の幹は真っ白で葉っぱは真っ黒、土は異様なピンク色をしているし伸びるているかげは勝手に形を変えてネズミになったり槍になったり、クマになったり飛行機になったり、忙しなかった。


「これで見える?」


 そしてさっきまでサラがいた場所のすぐ横には人間くらいの大きさの何かがいた。


「違う、それは人じゃないよ」


 でも一目見ただけで分かる。まず頭がゾウだ、体は確かに人間っぽいけれど、手足はカカシみたいにピンと伸びていて、胴体も針金でぐるぐるまきにされている。

 そんなのが人間なんだとしたら多分不気味な深海魚だって人間に見える。


「でもちゃんとわたしたちと同じ言葉で話してくれるんだよ?」


 サラの言葉に呼応するようにぶるぶるとゾウ頭の何者かがのどを鳴らした。

 だけれどそれは、決して日本語と呼べるようなモノではなかった。


「違う。違うよ、それは日本語なんて話してないよ」


 ジジジ、ジリリリリ、と花火が鳴るような音がひびいている。その音はゾウの頭を持った何者かの腹のあたりから聞こえてきていて、根本的に人間とは違う音の発生のさせ方をしていることは恐らくまず間違いない。


「そんなことないよ。わたしにはハッキリ聞こえるもの」

「ぼくにはミミズの鳴き声みたいなノイズにしか聞こえない」


 分からなかった。ケンにはサラが何を見ていて、何を聞いているのかが、分からなかった。

 突然変わった目の前の景色だって分からないし、自分の足が今本当にちゃんと地面についているのかどうかもやっぱり分からない。

 全部全部悪い夢でただうなされてるだけなんじゃないかと、現実逃避したくなる。


「そっか、眼はわたしといっしょになれても耳まではいっしょになれてないのかな……? それとももう少しこのままでいれば耳もいっしょになるのかな?」

「な、何を言って……?」


 いっしょになる、サラは今そう言った。果たしてそれはどういう意味なのだろうか。同じものが聞こえるということはさっきのノイズのような音が日本語に聞こえるようになるということだろうか。それとももっと別の、例えば今のこの状況が当たり前のように感じられる『心』になるということなのだろうか。

 分からなかった。

 夕洲サラという女の子が定義するいっしょになる、という言葉がどこからどこまでを指し示しているのかが全く分からなかった。


「ほら、いっしょに来て。今ならケン君はわたしとおんなじもの見えるから」


 ケンの混乱や焦燥なんてお構いなしだった。両足が地面についている感覚がない。だというのに、手を引かれて町へと連れていかれる。

 そこは地獄だった。いや、地獄のように見えた。

 まず人がいる。そして人じゃないものがいる。

 例えば今少し先の交差点に頭が少々さびしくなってしまったくたびれたおじさんがいる。その人は少し冴えない感じはするけれどでもきっと立派な大人だし、ケンでは想像もつかないような経験だってしているはずだ。でも、そのおじさんと向かい側からすごい勢いで突っ込んできた人間大のダンゴムシがぴったり重なったら一体どうなってしまうのか?


 その答えは一秒もかからずに実演された。

 イモムシのてっぺんにくたびれてさびしげなおじさんの頭が生えた奇妙な生き物になってしまった。

 多分、存在しないけれど目で見ているものは現実に存在する何かと交わることでその姿を別の何かに変性させるのだろう。

 何が本当で何が嘘なのか、全く信頼のおけない世界だ。

 もしかすると、あのスーツ姿のおじさんも本当はそこにはいないのかもしれない。

 グルグルギュンギュンと頭の中で思考がどんどん飛躍していってしまう。

 想像力が、想像力を呼び覚まして、わけのわからないものがどんどんどん増えていく。


 それが増えるたびに目の前の世界を信じられなくなっていく。

 かげは浮き上がって勝手に走っていくし、空中に浮かんだリンゴから枝と葉っぱが生えてきて、太い幹を作り出す。空を見ているのか、地面を見ているのか、自分が立っているのか座っているのか、手と足がちゃんと股間と肩から生えているのか、もう、何にも信じることが出来なくなる。


「なっ、なん……、これは……、」


 ケンの手をにぎっている声の主がサラのはずだ。だけれど、ぐにゃぐにゃにゆがんでいて、それがサラであると確信出来ない。かといってその手を放す勇気も出ない。


「わたしの世界、わたしたちの世界。これでおそろいでしょ? おんなじ世界がちゃんと見えてるんだもんね」


 声だけははっきりと聞こえた。


「いっ……、」


 そう鮮明にくっきりと声が聞こえたせいで、逆に身の震えが止まらなくなる。

 だってそうだろう、サラはいつもこんな世界に身を置いてあんなに平然としていたんだもの……。


「い、いやだ……、いやだよ。こんな、こんなの……。もどして……、ぼくを元にもどしてよ……」


 考える間もなかった。ただ、助けてほしかった。何もかも曖昧で無くなってしまいそうなところになんて居続けられない。体も心も悲鳴を上げていた。

 どうしようもなく、こわくてこわくてこわくてたまらない。

 本当にもう、何もままならなかった。


「なんで、なんでそんなこと言うの!? わたしは、わたしは……」


 相変わらずサラの声だけはハッキリと聞こえる。見えてるものが本当に見えてるものなのか、本当は見えてないものなのか、全く分からない中で、その声だけはハッキリと理解が出来る。

 だからこそ、逆に分からなかった。

 だって、ぼくをこんな風にしたサラがなんだってそんなふうにとまどっているのさ。


「そっか、やっぱりそうだよね……」


 小さく震える手に無理やり力を入れて、強引に、断ち切る様に、ケンの手を離す。

 相変わらずケンは目の前にいるはずのサラの表情が分からなかった。だけれど、なんとなく泣いているような気がした。泣かせてしまったような気がした。

 でも、分からない。本当のところは分からない。自分が見て感じたものが本物かどうかさえ自信がないのだから。


「……、」


 サラは何かを言おうとして、だけれど、言葉が詰まってしまって何も言えなかった。

 ただ心がぐちゃぐちゃになってしまったケンから逃げるように背を向けて走り出す。


「まっ、待って!!」


 反射的にどこかに行ってしまうと理解して、それを追いかけようとしたけれど、何かにけつまずいて盛大に道路を転がった。

 紛れもない本物の痛みが手足にしっかりと刻み込まれる。小さな擦過傷さっかしょうがちゃんと自分が現実にいることを教えてくれた。

 視界はぐらつくけれど、それでもまだ間に合うとケンの中なの強い部分が、追いかけろと体に命令をして立ち上がろうとする。

 でもダメだった。今度はつまづくとかじゃなくて、膝の力ががっくりと抜けて立っていられなかった。


「待ってよ!!」


 どんなに体に力を入れようとしても全然言うことを聞いてくれなくて、だから去っていく背中を呼び止めるようにさけぶことしか出来なかった。

 タタタタッというサラが走り去っていく足音だけが簡明に聞こえて、耳に残った。

 音が遠ざかっていくにつれて、ぐちゃぐちゃになっていた目の前の景色が少しずつ元にもどっていく。


「えっ、なぁっ!?」


 太陽の光はいつもの自然な輝きを取り戻して、地面もちゃんと舗装された道路に見えるようになる。人は人だし、木は木に見える。もちろんわけのわからない何者かもいないし、手足の感覚だってまともになった。

 わけのわからない世界から抜け出すことは出来たらしい。サラがふだんから見ているかもしれないわけのわからない世界から。


「一体何が起きているやら……」


 結局徹頭徹尾、何にもわからないままだった。

 何とか立ち上がって、呼吸を整えながら改めて改めて手足の感覚を確かめてみる。元にもどってみればなんであんなことになっていたのか、本当にあんな風に世界が見えていたのかさえ疑いたくなるくらいにいつも通りだった。


「それにしてサラはどこに行っちゃったんだろ……」


 探さなければいけないと思った。

 少なくとも多分あんまりまともな精神状態じゃないはずで、だからきっと一人にしておくのは良くないと思える。

 しかし行く当てはなかった。まさかさっきの今でまたあの神社にいるはずもないだろうし……。でもだけれど、他に当てもないので、とりあえずダメ元での精神であの神社へともどってみることにした。それからその場所にいないことを確認して、次のことを考え始めればいいと。

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