第三章 人狼の幼女と人斬りの過去 Ⅰ
東京の都心部にある、とあるホテル。
そこに
それなりに高級なホテルで、西洋式の調度品や設備が整えられている。
善弥たちが滞在している部屋は、二人用の部屋でベッドが二つ並んでいる。その片方には、件の幼女が静かな寝息を立てて眠っていた。
「今は身を隠す事を優先しましょう」
そう善弥が提案したのだ。
リゼと善弥の顔は既に割れている。あまり工場から近いところに身を寄せれば、すぐに気付かれてしまうと考えたのだ。
そこで二人は幼女を抱えたまま都心部を目指し、このホテルを見つけた。
近くに外国人居留地もあり、このホテルを利用する西洋人も少ないながらにいる。ここならリゼも目立つことなく紛れるだろう。
このホテルにたどり着くまでは大変だった。
隠し通路の出口は工場から500メートルほど離れた山林の中にあり、そこから夜通し歩いてこのホテルまで来たのだ。とても大変な行軍だったが、その甲斐あってか工場に忍び込んだ夜から三日が経った今も、追跡者が現れた様子はない。
ここまで逃げて来たのは、正解だったようだ。
善弥は目の前のベッドに横たわる幼女を見る。
服を取り替え、リゼが薬と栄養剤を注射して休ませている。まだ意識を取り戻していないが、以前よりは肌つやが良くなって、回復しているのが見てとれる。
部屋のドアが開いた。
「ただいま」
そう言ってリゼが入ってくる。
「お帰りなさい」
答える善弥。まだ数日であるが、何だか所帯じみてきたなと善弥は思った。
「どうでしたか」
「ダメね」
善弥の問いに端的に答えるリゼ。
リゼはこのところ、蒸気式コンピュータを使ってW&S社について調べていたのだが。
「情報が全然出てこないわ」
現在日本でも急速に出来上がりつつある通信網。
それらを介して、正規の手段とは違う経路で、様々な情報を覗き見ることが出来る――とリゼは言っていた。
「ハッキングでしたっけ、上手くいかなかったんですか?」
「ええ……」
とリゼは肩をすくめた。
「前回忍び込んだ事を受けて、警備が厳重になってる。物理的にも電子的にも。
「専門的な事はよく分かりませんが、ともかくコンピュータによるハッキングで『手記』の情報を得るのは無理――という理解でいいですか?」
「……そうね」
歯切れ悪くリゼが言う。
正確に言えば、無理ではない。
リーゼリット・アークライトが『電脳』を使えば、W&S社の用意した電子防壁であろうと突破できる。それだけの力を彼女は持っている。
しかしその力を使いたくない――善弥に『電脳』の事を知られたくない。そうリゼは思っていた。
そんなリゼの気持ちを知らず、善弥は腕を組む。
「となると、やはりこの子の――」
「――ん」
善弥でもリゼでもない声が、部屋に響く。
二人は同時に視線をベッドに向ける。
幼女のまぶたがゆっくりと開く。眼を覚ました幼女は、ゆっくりと周囲を見回し、手足をぎこちなく動かす。
「ここは……?」
「目が覚めたのね」
リゼが声をかけた。
幼女がビクッと肩を震わせる。
「え、え――あ、だ、誰⁉」
幼女は
深い恐怖を植え付けられた者の眼だ。
維新の動乱の最中、善弥は似た目を何度もみた事がある。
「驚かせてごめんなさい」
リゼは静かに謝った。
言い聞かせるような、ゆったりとした口調で続ける。
「ここはホテルのお部屋で、今ここにいるのは私たちとあなただけ。誰もあなたに酷いことはしないわ、本当よ」
「…………」
幼女は無言でじっとリゼを見ている。
まだ警戒の色はあるものの、態度が少しだけ軟化したように見える。
声に慈愛が含まれているのかと思うほど、リゼの言葉はどこまでも優しく、裏表がない。それが伝わるのだろうか。
「
あなたはとても弱っていて、ずっと眠っていたの。どこか具合の悪いところはない?」
「ない……です。ただ……」
幼女はポツリと呟く。
「ただ何?」
「……お腹が空きました」
タイミングを見計らったかのように、幼女の腹が鳴った。
幼女は恥ずかしそうに顔を赤らめて俯く。
それを見てリゼは笑った。振り向いて善弥に言う。
「この子、初めて会った時の善弥みたい」
「……ですね」
善弥も苦笑した。
リゼは優しく笑いながら幼女に言う。
「食欲があるのはいいことよ。何かご飯を持ってくるわね」
ホテルのルームサービスを使って軽食を用意させた。
出て来たのは簡単なサンドウィッチだったが、幼女はそれを貪るように食べた。
「そんなに慌てなくても大丈夫だから」
そう言うリゼの声は聞こえていないようだった。
よほどお腹が空いていたのだろう。サンドウィッチを全て食べ、温めのお茶を飲み、ようやく幼女は
落ち着いたところを見計らって、リゼが口を開く。
「お腹いっぱいになったかしら?」
「……はい」
幼女は頷く。
「そう、良かった」
「その……ありがとうございます。ええと――」
「私はリーゼリット・アークライト。リゼで良いわ。こっちは善弥、
「あ、ありがとうございました。リゼさん、善弥さん」
幼女は頭を下げた。
目覚めたばかりこそ、警戒心むき出しだったが、本来は礼儀正しい子のようだ。
改めて善弥は幼女を見る。
小麦色の肌に栗毛のおかっぱ頭。クリクリとしたつぶらな瞳が特徴的だ。頭部から生えている狼の耳さえなければ、普通の女の子と何も変わらない。
「ねぇ、あなたのお名前を教えてくれない。私たちは貴方のことを、何て呼べばいいかしら?」
「ええと……」
幼女は言いよどみ、身体を震わせた。
その反応に驚くリゼ。
「ごめんなさい! 大丈夫⁉」
「その、すみません」
消え入りそうな声で答える幼女。
「私……自分の名前が分からないんです」
「分からない?」
「思い出せないんです。目が覚める前を思い出そうとすると――」
幼女はガクガクと身体を震わせた。
「身体が震えて……何も、思い出せなくて……」
リゼは我がことのように顔を悲痛に歪めた。
「こっちこそごめんなさい。無理に思い出そうとしなくていいわ……」
リゼが幼女の背をさする。
幼女は自分の身体を抱きしめて、震えを押さえつけていた。
おそらくは心因性の記憶喪失だろう。人はあまりにも大きな心的外傷を受ける時、自らの精神が崩壊するのを防ぐため、心的外傷を受けた記憶そのものを消去するという。
幼女があの工場で受けた仕打ちは、それほどのものだったのだろう。
(この子の記憶を頼りに忍び込むのも、難しそうだなぁ……)
と善弥は思った。
外部からのハッキングでW&S社の情報が入らない以上、もう一度工場に忍び込み、内部から情報を得る他ない。
だが、工場の警備は厳重になっている。
どうにか忍び込む隙がないか――残された手がかりは幼女の記憶だけだったが、当てが外れてしまった。
幼女の身体の震えが少しずつおさまってきた。リゼが優しく促す。
「お腹もいっぱいになったし、まだ体調も良くないでしょう。また眠っていいわ、ゆっくり休んで」
「はい……ありがとうございます」
幼女がベッドでまた毛布にくるまると、すぐにスウスウと可愛らしい寝息が聞こえてきた。
リゼはそんな幼女の様子を愛おしそうに眺めていた。
「何故そんなにも、この子を助けようとするんですか?」
善弥がいつもと変わらぬ口調で尋ねた。
リゼは答える。
「言ったでしょ、こんな小さな子が酷い目にあってるのよ。助けるのは当たり前でしょ」
「その当たり前について、もう少し教えてもらえませんか」
善弥は食い下がる。
「リゼさんは自分の命がかかった状況で、それでもこの子を助けようとした。当たり前? とんでもない。誰にもできる事じゃありませんよ」
「…………」
「だから知りたくなるんです。何故そんなにも、誰かを救おうとするのか。救おうと思えるのか」
本心から純粋な興味を抱いていた。
善弥の脳裏によぎるのは過去の記憶。鷹山善弥は親しい人の死を
この差は何のだろうか。
「善弥だって初めて会った時、私を助けてくれたじゃない」
「あれは善意なんかじゃありませんよ。ただ戦う口実が欲しかっただけです」
終始善弥の口調は変わらない。いつもの穏やかで飄々とした語り口のままだ。
「僕は人と殺し合っている時だけしか、生きている意味を見出せない人でなしですから」
「そんな――」
事はないと、リゼは言うのだろう。だからそれを言う前に、善弥が二の句を継いだ。
「そんな人でなしには、不思議なんですよ。あなたみたいな人は――ね」
「……私は」
リゼはゆっくりと言葉を選ぶ。
「私はただ、自分の信念に従って生きているだけ」
「信念?」
「科学は人を幸福にする為に在る――それが私の信念だから」
それは以前にも言っていたことだ。
「彼女をあんな風にしたのは、W&S社の技術者アルバート・レクター博士。自分の利益のためなら、どんな非人道的行為も辞さない男。そんな男に利用されて犠牲になった人がいるなら――それがあんな小さな子なら、私は自分の信念にかけて、見捨てるわけにはいかない」
善弥はリゼの眼を見た。
彼女の目には一点の曇りもない。かつて、こんな眼を見たことがある。
これは志士の眼だ。
まだ善弥が小さかった幕末の頃。そして二年前のあの時も見た。
自らの理想と信念に燃え、それを貫くためならば、命を懸けることを惜しまない者。それだけの覚悟を持っている者の眼。
眩しい物を見るように、善弥は視線を逸らした。
「――だから、善弥には感謝してるの」
「え?」
善弥は逸らした視線をリゼに戻す。
彼女は真っ直ぐに善弥を見る。
「私の信念に従って――なんて格好付けたけれど、言い換えればただの我儘、自己満足でしかないわ。しかも私にはそれを貫けるだけの力があるわけじゃない」
あの子を助けられたのは善弥のお陰――そう言ってリゼは笑う。
「あなたが優しい人で良かったわ」
「……!」
一瞬だけ善弥の顔に張り付いた笑みがはがれた。
戸惑う感情を抑えきれなかったのだ。
「僕はそんな出来た人間ではありませんよ」
辛うじてそれだけ言い返した。
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