気付きたくない傷の話

 ツカサが俺にマグカップを片方差し出す。涼しい夜にふさわしい、レモンによく似た爽やかな香りが漂ってきた。

 

「ありがとう」


 受け取って、一口いただく。香りのわりに酸味はなく、まろやかな味が喉を通り過ぎた。その暖かさに、身体の余分な力が抜ける。

 

「それがさ、夢の中にアスターが出てきて、何も言わないで俺のパジャマの袖を引っ張ったんだ」


 ツカサはマグカップから立ち上る湯気にフーフーと息を吹きかけてから話を続けた。

 

「で、アスターに連れて行かれた先に、俺に背を向けて俯いて肩をふるわせてる、いたいけでかわいい祐護さんがいて、そこで目が覚めて……」


 夢の内容を聞かされただけなのだが、自分の情けなさを客観的に見せつけられているような気分になった。夢は無意識の産物ともいうが、心の奥ではツカサにそういう人間だと思われているとしたら、余計に情けなくなる。俺の裁縫の腕が悪かったせいでスペースと一緒にさせてもらえなかったアスターぬいぐるみが見せた意地悪な夢なのだということにしたい。純真そのもののアスターをモチーフにした可愛いぬいぐるみに魂があったとして、そんなことをするとも思えないが。


「それでなんか不安になって。祐護さん探したらここにいたから気を利かせたってわけ。でもなんだよ、レモンバームティー座って!」


 ケラケラとツカサが笑う。確かに笑われても仕方のない意味不明な遊びをしていたけれど、実際に笑われとてしまうと恥ずかしい。しかし変な言動を心配するでもなく笑うということは、ツカサから見た俺は夢の中ほど情けない人物でもないのだろう。


 それに少し安心して、二口目のレモンバームティーをいただいた。

 

 

 

 レンガでできた花壇の縁に、空になったマグカップを二つ並べる。


「それにしたって、なんでここにはテーブルセットを置かないんだ?半分、観賞用みたいな場所だし、祐護さんなら真っ先に置いてもおかしくないだろ」


 いつもなら適当にはぐらかす質問だった。その質問に答えるには、隠しておきたい大切なものをつまびらかにしなくてはいけないから。


 けれど風呂でツカサにされた大切な告白を思うと、隠そうとすること自体が情けなく思えた。


「もうこれ以上、ここの景色を変えたくないからだよ」


 俺の頭上で光を放つ月を指さして、作り笑いを浮かべる。そうしていないと泣いてしまいそうで、怖かった。


「ここに朝が来なくなったの、前の管理者の茜がいなくなってからだから。だから必要なければ、これ以上何も変えたくない」


 事実をただの事実として口にする。声は平坦に、心は平常通り。もう二度とツカサの前で泣いたりしない。そういう決意を持って。


「……結局、茜ってヤツは性別年齢その他諸々何なんだよ。っていうか祐護さんの何」


 ツカサが努めて冷静に苛立ちを吐き出す。気を遣ってくれているのもわかるが、茜の謎に気が立っているのは、瞳孔が開いているからわかる。

 

「言っておくけど茜は男で、年齢は親子ほど離れてるからなんにもないよ」


 ツカサの心を落ち着けるべく事実を並べた。けれど「なんにもないよ」とはなんだ。普通に考えて親子に何かあるわけないのに、言い訳めいた言葉を口にした自分に戸惑う。


「実際、保護者みたいなものだったし、ツカサが想像するようなことは一切ないから」


 疑問を抱えたまま、さらに言い訳めいた言葉を重ねる。ツカサが俺と茜の何を想像したっていうんだ。俺の調子がおかしいのは昨日からだけれど、今日はさらにおかしい。


「本当かよ?ソイツのこと話してる祐護さんの目、すっごい潤んでるのに」


 眉尻を下げて、ツカサが俺に顔を近づけた。俺の下瞼を擦ったツカサの指が、濡れる。


 慌てて俯いたら、それと同時に暖かいものがこぼれて、俺の膝に染みた。

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