君が俺を一人にしてくれない

「そんな、ことは……」


 ツカサの良い兄、良い大人としての自分が、紅茶の海の水面に向かって浮上する。

 

「逆もまた然り、だろ。俺はこの先、祐護さんが必要なくなるなんて全く考えてない」


 浮上した俺の手を二度と離さないのではないかと思うほど力強く、誰かの手が掴む。

 

「俺からすれば、そんなこと考えるような相手じゃないんだよ、祐護さんは!」


 そして誰かは全身全盛を込めて、紅茶の海から俺を引き上げた。暖かな海から引き上げられたのに全身がもっと暖かくなって、とろけるような心地にされてしまった。それなのに、それ以上に暖かい誰かの雨が頬に一粒降ってくる。

 

 こんなに暖かい雨は初めてだから、俺は頬に浴びた瞬間、瞼をあげてしまった。見上げた先には、当然、なんて呼ぶ必要のない相手―――ツカサがいた。


(自分がツカサを必要に思わなくなるなんて、考えてもなかった)


 ツカサがいつかいなくなることをずっとずっと恐れていたのだ。俺の人生にツカサが必要なのは、意識するまでもなく当たり前だった。

 

 そしてそれは、ツカサも同じなのだと、こんなにも力強く、暖かく教えられた。


「馬鹿みたいなこと言ってごめん……」


 目が熱い。充血している。そしてツカサが俺の頬に落としたものと同じものが、俺の目からも溢れた。ツカサがこれまで注いでくれた紅茶想いで暖められた心が痛んでいる。

 

 茜がいなくなって悲しかったんだ。でも、悲しいって気持ちすらずっと隠すしかなかった。兄になったのだから、大人になったのだから、弱いものの悲しさを抱きしめる立場にならなきゃならない。誰も悲しさを抱きしめてくれない。茜は自分の悲しみを見せてはくれなかった。大人だから、を守る立場だからって、ずっと言っていた。俺はそんな茜がかっこいいと思っていた。憧れたから見習った。もしも茜が悲しみを見せてくれたら、俺だって、少しは茜のために……。

 

 心の奥深くに押し込んでいた思いが一気に飛び出して、頭の中はごちゃごちゃだった。それを流し出すように涙は目の端からどんどんこぼれてこめかみを伝って髪の中にとけた。自分のそれは生ぬるくて心地が悪いのに、流さずにいられなかった。そんな俺の頭をツカサは慈しむような手つきで、子供にするみたいに撫でてくれた。


「隠される方が嫌だから全然いいんだけど。っていうか、泣くんなら俺の腕の中とかで良いんだぜ?」


 顔はぼやけて見えないけれど、きっと照れ笑いしながら言っているのだろう。

 

 ツカサにとって、俺は泣いてもいい存在だった。だから今だけは良い兄、良い大人の仮面を外して、涙が涸れるまで泣いた。俺も茜に俺の前では泣いてもいい、悲しんでも良いと伝えていれば少しはなにかが違ったのかもしれない。


 今更でしかない、夢物語だが。

 

 

 

「泣くのを許してくれてありがとう。もう大丈夫だから」


「それは許すも何もねぇから」


 泣き止んでようやく、鼻声で感謝を伝えることができた。ツカサに勧められて何度か鼻をかんだのだけれど、目や鼻のあたりがまだ痛くて重い。そんな俺にツカサはふっと、優しい笑みをこぼした。

 

 泣きすぎた。絶対にひどい顔になっている。あまりツカサに見られたくない。両手で顔を隠したいが、それはそれで恥ずかしい気もする。とにかく顔を洗いたい。果たして風呂場まで移動できるほど体調は回復しているだろうか。

 

 そんなことを考えていたら、ツカサの表情が急に険しくなった。


「それより、祐護さんを泣かせる茜ってヤツのこと、もっと聞いて良いよな」


 言いながら、ツカサが俺の腹にまたがった。ツカサの体重分、ソファがさらに沈む。急激な事態の変化に、さっきまでの思考がすべて吹っ飛んだ。


「なんだよ茜ってヤツ、ムカつく!性別どっちだよ!年齢は!?」


 唾が飛ぶほどツカサが叫ぶ。内容よりも声量に頭がクラクラした。


「そいつ、本当は祐護さんにどんな感情持ってたの!?祐護さんはそいつにどんな感情持ってるの!?」


 身体はまだ思うとおりに動かないし、ツカサの気迫に完全に押されて、暴走を止めることも回答することもできない。


「茜とかいうヤツより絶対俺の方がいいよ!!」


 紅潮したツカサの顔が近づく。全身が熱いなんてものじゃない、直接火に包まれているようだ。逃げ場がない。


「教えてくれよ、祐護さん」


 ツカサは低い声で囁いて、俺の指に灼熱の指を絡めた。

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