ピスケスのように心を繋いで

「茜……南樹茜は俺の前にアスタリスクの管理人をやっていた人。ツカサが来る数ヶ月前にアスタリスクからいなくなった」


 夏の入り口が見える頃に似つかわしくない冷たい空気が、部屋中を満たしている。

 

「その茜にちょっと、夢で色々言われて。思い当たることがあったんで、悲しかっただけ」


 頭のてっぺんから足の爪まで冷めた紅茶が行き渡って、どんどん感情が薄らいでゆく。


「現実の茜は、俺がここに迷い込んだ理由を教えたすぐあとにアスタリスクからいなくなったんだ」


 喋れば喋るほど、心が動かないことが当たり前のように思えてくる。


「夢の中の茜は、俺がいらない人間だからそうなったって言ってた」


 夢の中の俺は、なんで泣いていたんだろう。茜がいなくなったあの日だって、泣きもせずに冷めた紅茶を飲みながら、ぼんやりと読書を続けていたくせに。茜を追いかけることすらしようとしなかったくせに。

 

「祐護さん、おかしいよ。そんな風に言われることに思い当たったってことか?」


 目を閉じて、沈黙で肯定する。ツカサの影が俺の顔にかかっているから、瞼の裏は真っ暗だ。


「なんでだよ、祐護さんが自分をどう思おうが、俺には祐護さんが必要だよ!それじゃダメか?それでいいよな!?」


 瞼の向こうでツカサが叫んでる。冷えた空気が震えている。


「祐護さんがそう思うような何かが祐護さんにあるのかもしれないけどさ!?けど、俺は!俺には祐護さんが必要で……」


 身体中を満たす冷めた紅茶に、わずかに熱が混じる。


「今は必要な気がしてても、それが錯覚だと思い直したり、必要なくなることはあるだろ。考え直せよ、ツカサ」


 ツカサに混ぜられたわずかな熱を追い出すための言葉が、自然と口をついた。薄情者に熱なんて今更必要かよ。


「そこまで思うのかよ……」


 ようやく絶句してくれた。そう思った次の瞬間。


「……なぁ、祐護さん。祐護さんはいつか俺が必要なくなるって思ったりするのか?」


 考えたことのなかった言葉が、俺に降り注いだ。ツカサが淹れた紅茶の海に突き落とされたような、苦しくて熱い心地がした。息ができない。


(未だに茜のことだって引きずっているから、冷めた紅茶で身体を満たしているくせに。ツカサがいなくなったら、ツカサが必要なくなる?)


 ツカサの良い兄であろうとしていた、良い大人であろうとしていた俺が、心の中に言葉を放り込んだ。

 

(ツカサが必要だから、ずっとツカサを思っていたから、いなくなることを恐れていたのだって、事実だろ?)


 小中学校の授業の練習。ダービー馬のぬいぐるみ。デコボコになった茶色い布。さっき作ろうとした朝食。全部、誰を想って用意していた?


 事実は、これまで積み重ねたものだけは、なくなりようがない。存在し続けるのだ。

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