いらっしゃいませ、祐護さん

 夕食も風呂も、ツカサへどういう態度を取るべきかを考えている内に終わってしまった。

 

 今は自分の部屋でシャープペンシルを握って日記に向かっている。今日のページはまっさらだ。アスターのことなど書くべき記録は存在するが、頭の中をツカサに占拠されてなかなか手が動いてくれない。しかし時間が経った分、ツカサとの間に起こったことについてはいくらか冷静に分析できるようになっていた。

 

(「ずっとここにいる」って誓わされたとき、俺はこれまでの人生で初めてツカサに恐怖したんだよな……)


 未だに鮮明に思い出せる恐怖を情報として捉えながら、頭の中を占拠するツカサについて考えをまとめていく。

 

(寝てるときのツカサは、泣きながら俺に「行かないで」って言っていた)


 夢の中の俺がどこかに行きそうで、目が覚めたら俺が目の前にいた。だからあそこまで必死になった。という流れだったなら一応筋は通る。

 

(けれど夢と現実を混同してしまうには、覚醒から時間が経ちすぎている)


 ツカサが脅迫めいた態度を取ったのは東京競馬場の件について説明したあとだ。俺がした滅茶苦茶な説明を理解できる程度には覚醒していた。

 

(夢も原因なのは間違いないだろうけど、それ以外にも何か理由があるんじゃないか……?)


 ただでさえツカサはアスターに強く共感し、心を動かされていたし、どんな些細なことがきっかけになってもおかしくはない。

 

(一緒に寝るかは置いておいて、ツカサの話を聞いた上で、どうしてあそこまで必死に誓わせたのかを今度こそ尋ねよう……)


 一つでも方針が決まれば多少は気が楽になる。そして頭の中を占拠していたツカサの面積も、他のことを考える余裕ができる程度には小さくなる。小さく息を吐いてからシャープペンシルを握り直し、空白のページに今日の記録をつけていく。


『六月五日、競走馬のキャロルアスターがやってきた。馬が迷い込んだのは今回が初めてだ。』


『アスターはいなくなった兄のキャロルスペースを探していた。もしも俺があの人を探していたならとか、今更考えてしまった。』


『あの人はなんでいなくなったんだろうか。もしも、俺が過去の話をしたことが原因じゃなかったら、なにが』


 すらすらと動いていた右手が止まる。


(……こんなの今更、今更だ)


 『あの人』に関連する記述すべてに取り消し線を引いた。何度も何度も、すべて消えて見えなくなるようにシャープペンシルの先を押しつけて、線の下に記録を隠した。


『数時間後にはツカサの誕生日だ。そちらに集中しなくては。』


 ツカサについては今はそれ以上は書かないでおく。この日記において一番大切な項目は、次に書くところだ。


(『今日の紅茶:リンゴの香り』。と)


 お決まりの記録に口角が上がったところで、ドアをノックされた。

 

「祐護さん、入って良い?」


 心臓が跳ね上がり、シャープペンシルを日記に落とす。入って良いよと言うには心の準備が整っていない。静かに深呼吸して心臓を落ち着かせてから口を開く。

 

「すぐにそっちに行くから、部屋で待ってて」


 それでも声がうわずりかけて焦る。ツカサは「絶対に来てくれよ」と言い残して扉の向こうから去っていった。足音が消えてから、もう一度深呼吸をする。まだ心拍数は高い。

 

(今の声も態度も、俺が知ってるいつものツカサだった、よな?)


 日記を閉じて席を立つ。意識せずとも勝手に腹に力が入る。

 

(まだ一緒に寝ると決まったわけじゃない。いざとなったらツカサが納得するまで代替案を立てれば良い、それだけだ)


 いつものツカサなら、文句を言いつつもそれで納得してくれるはずだ。


 汗ばんだ手のひらでドアノブを回して廊下に出る。ツカサの部屋へ向かう自分の足音に緊張と不安を抱く。ツカサの部屋のドアの前には数秒でたどり着いた。ドアノブに手をかける前にドアが開いて反射的に声を上げてしまう。

 

「うわぁ!」


「何驚いてんの、祐護さん」


 ドアの向こうにはいたずらっぽい笑みを浮かべたツカサが待ち受けていた。

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