Heavenly Romance

 牽引車の台上から、アスターがスターティングゲートの四番に入ったことを確認する。ツカサが後扉から離れて、怯えた目をしたまま俺を見上げて手を振った。準備完了のサインだ。

 

 俺は台上の旗を引き抜き数回振ってから、スターターレバーを取り出して引いた。

 

 パァン!

 

 前扉が開くとほぼ同時に、二度目のダービーに挑むキャロルアスターはスターティングゲートから飛び出した。

 

 ツカサがスターティングゲートから離れて外ラチ側に逃げはじめた。俺は旗とスターターレバーを元に戻して台を駆け下り、牽引車の運転席へ乗り込んだ。

 

(ツカサ、いつだったか車に轢かれたときのこと、ちょっとだけ話してくれたよな)


 その時の心底怯えた様子を思い出して、首を横に振る。今は過去を回想している場合ではない。

 

 エンジンを入れて、慎重にアクセルを踏み、ハンドルを切る。背後を振り返り、スターティングゲートがダートコースに収まったのを確認してから、エンジンを停止した。

 

 牽引車から降り、スターティングゲートを通すためにどかしてあった内ラチをツカサと二人がかりで持ち上げて移動する。アスターはおそらく最後の直線を内ラチ沿いに走るだろう。俺は青白い顔をしたツカサを背負い、極力平らな足場を選びながら外ラチ側へ走った。


 背中で震えるツカサが俺の首に抱き着いて、耳元で「ありがとう。祐護さん、大好き」と囁いた。全力で走る競走馬がいるコース上だ、今は心を揺さぶられている場合ではない。ツカサに気を取られて転んでしまったら、二人揃って最悪なことになる可能性だってなくもない。俺は背筋に走った痺れに耐えながら、安全な道の選定に集中した。

 

 

 

 俺たちがゴール板の向かい側に付く頃には、アスターは最終直線に入っていた。背からツカサをおろし、加速し続けるアスターの走りを眺める。蹄鉄で芝が抉れ、後方に跳ねて消えた。


 黒色の尻尾をなびかせ光の中を飛ぶように走るアスターの姿には、美しさと力強さが見事なバランスで存在している。

 

「すごい……!」

 

 スタンドのライトを受けて輝く青鹿毛の馬体が、愛するものを追いかけるように飛ぶ。感嘆の言葉しか出せない、神々しい光景だった。アスターのためだけのダービーから目を離せずにいる俺の腕に、ツカサが弱々しく抱きつく。

 

「……アスターには見えてるのかな、キャロルスペースが」


 今のツカサはアスターの全力が紡ぐ神話に恐怖しているのかもしれないと思えた。俺の脚だってわずかに震えている。


 すべてを圧倒するほどの気迫が、烈風を伴ってゴール板を駆け抜けたダービー馬キャロルアスターにみなぎっていた。

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