一人きりの勝負に向かって

 地下の黒板に書いたとおりに、ムクロジの森に東京競馬場が現れた。施設の状態は基本的にダービー直前のままだが、ライトは全部つけ、職員や観客や馬など、命あるものはすべて除くよう、一応指示しておいた。

 

 森に巨大な施設を作ったのは、過去の来訪者に頼まれた車の教習所以来だ。

 

(ツカサはお金と同じくらい車が苦手で、教習所も嫌がってた)


 おそらくこの施設も教習所同様、すぐに消すことになるだろう。アスターの手綱を引くツカサの表情は、大きなお金が動く施設に怯えている。


「この先にダービーがあるの?」


 コースに続く地下馬道の手前で、アスターに確認された。


「あるはずだよ」


 アスターの問いかけには俺だけが反応した。ツカサは正面を向いて黙ったままアスターの手綱を引いている。


「ツカサは!ツカサ、きいてる!?」


 俺とツカサの部屋でのやりとりを知らないアスターが、実に無邪気にツカサに声をかけた。


「……きいてる。あると思うけど」


 ツカサは部屋で俺と会話していたときよりは高めの声で返答した。

 

 

 

 今の不安定なツカサにどう接すべきかを考えている内に、地下馬道を抜けて、スタンドからのライトに照らされた芝のコースに出た。最終ラウンド二つ手前のコースはすでに蹄鉄にえぐられてデコボコになっている。

 

「ダービーのとこだー!兄ちゃん、待ってろ~!」


 『日本ダービー』と書かれたゴールを板を認識して、アスターが大きく前脚をあげる。前脚をおろした途端、足取りも軽やかにゲートに向かい始めた。ツカサはコースの窪みに足を取られかけては体勢を立て直して、半分引きずられつつもなんとかアスターの手綱を手放さずにいる。


「アスター、落ち着いてくれよ!」


「ツカサ、芝は走るのニガテ?砂がいい?」


「そうじゃなくってさ!」

 

 俺はスターティングゲート牽引車を確認した。ダービーではスタート地点をもう一度通過する。それまでに牽引車を運転してスターティングゲートをコース上から撤去しておかなければいけない。牽引車の台上で行うスタートと、牽引車でスターティングゲートを移動させる役割は俺が担うことになっている。

 

「アスター。ツカサは君みたいに走れるわけじゃないからもっとゆっくり移動してくれ!」


 俺はスターティングゲート内に向かうツカサとアスターに背を向け、足下を注視しながら牽引車に向かう。


「聞いただろアスター。もうちょっと抑えて歩いてくれよ!」


「ツカサ、元気ない?走るのむり?」


「俺は人間だから馬のアスターみたいにこういうとこ走れないんだっての!」


「ならツカサも馬になる!?」


「馬になるって!そういうのはなりたければなれるわけじゃないからな!」


 背中に一人と一頭の笑い混じりのおしゃべりが届いて、ふと思う。


(ツカサは俺といるよりアスターといる方が気が楽で幸せなんじゃないかな)


 その考えを振り切るように、台上へ駆け上がった。

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