君の遠くに行くはずがない
ツカサの腕から解放された俺は、素早くベッドから抜け出した。
「祐護さん、行かないで!」
ツカサは俺の身体を追いかけるように上半身を起こし、俺に手を伸ばしたまましばらく硬直した。瞳孔は開きっぱなしで、やや呼吸が乱れており、興奮しているようにも見受けられる。
状況はあまりよろしくないが、外でアスターを待たせている。気まずくなっている場合ではない。電気をつける。
「いきなり起こして悪いけど、聞いてほしい話がある」
ゆっくりめに、抑揚は少なく。
努めて冷静に切り出したのが良かったのか、ツカサは硬直をやめてあぐらをかき、手で臑を掴んだ。
「こ、こっちの話もあとでじっくり聞いてくれよな!で、何?」
「単刀直入に言うよ。ここに東京競馬場を建てたい」
ツカサが目を大きく見開いて人差し指で顎に触り、頭の上にクエスチョンマークを生産し始めた。それはそうだ。結論から話されて簡単に理解できるような話ではない。
「アスターがダービーの会場に連れて行ってくれって。だから森に東京競馬場を建てたいんだけど、ツカサは賛成してくれる?」
経緯を説明しても、普通に考えれば理解不能な話ではあった。とはいえツカサもすでに
「……あんまり」
ツカサはあぐらに視線を落として、掴んだ臑をもんだ。それから唇をきゅっと結んで、目を細めて睨むように俺を見上げた。
「でも、一つだけ。一つだけ約束してくれるならいいぜ」
そこから数秒、無言の時間が続いた。何も言わないツカサの濁った瞳だけが、俺に向けて切実になにかを訴え続けている。
腕時計の秒針が、二十秒進んだ。
「『ずっとここに、アスタリスクにいる』って、俺に誓って」
濁った瞳が語り続けていた言葉が、唇からも紡がれた。
一ヶ月ほど前、ツカサは俺がここから出て行かないかについて真剣に悩んでいた。その際は抱きしめて『一緒にいたいのは本当だ』と伝えたのだが、それではツカサの心に届かなかったのだろうか。納得できなかったのだろうか。
寝言からすると俺がいなくなる夢を見ていたとも推測できるが、それにしたって、情緒が不安定すぎる。
「どうしてそこまで……」
「いいから誓ってくれ!!」
疑問が、瞳孔の開いたツカサの絶叫に遮られた。あまりの剣幕に脊髄から脳天まで痺れが走り、背筋に冷たい汗が流れた。
「……驚かせてごめん。でも、誓ってくれれば、耐えるから」
ツカサの視線が再びあぐらに落ちる。数秒前のツカサと現在のツカサに、触れることを躊躇うほどの落差が発生した。
「わ、わかった。『ずっとここに、アスタリスクにいる』」
疑問を飲み込んで、仕方なく誓う。
「本当に、本当に守ってくれよ祐護さん。俺も、耐えるから……!」
申し訳程度の誓いに返ってきたものは、力強くあろうとする、頼りない声だった。ツカサは顔を上げて冷たい指で俺の両手首を掴んだ。濁ったままの瑠璃色の瞳は、ツカサにしか見えない遙か向こうの何かを見つめていた。
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