君の遠くに行くはずがない

 ツカサの腕から解放された俺は、素早くベッドから抜け出した。


「祐護さん、行かないで!」


 ツカサは俺の身体を追いかけるように上半身を起こし、俺に手を伸ばしたまましばらく硬直した。瞳孔は開きっぱなしで、やや呼吸が乱れており、興奮しているようにも見受けられる。

 

 状況はあまりよろしくないが、外でアスターを待たせている。気まずくなっている場合ではない。電気をつける。

 

「いきなり起こして悪いけど、聞いてほしい話がある」


 ゆっくりめに、抑揚は少なく。


 努めて冷静に切り出したのが良かったのか、ツカサは硬直をやめてあぐらをかき、手で臑を掴んだ。


「こ、こっちの話もあとでじっくり聞いてくれよな!で、何?」


「単刀直入に言うよ。ここに東京競馬場を建てたい」


 ツカサが目を大きく見開いて人差し指で顎に触り、頭の上にクエスチョンマークを生産し始めた。それはそうだ。結論から話されて簡単に理解できるような話ではない。


「アスターがダービーの会場に連れて行ってくれって。だから森に東京競馬場を建てたいんだけど、ツカサは賛成してくれる?」


 経緯を説明しても、普通に考えれば理解不能な話ではあった。とはいえツカサもすでにアスタリスクここの住人として九年も生活している。頭上のクエスチョンマークはすべて霧散し、代わりにツカサの表情に影が落ち、瞳の色が濁った。


「……あんまり」


 ツカサはあぐらに視線を落として、掴んだ臑をもんだ。それから唇をきゅっと結んで、目を細めて睨むように俺を見上げた。


「でも、一つだけ。一つだけ約束してくれるならいいぜ」


 そこから数秒、無言の時間が続いた。何も言わないツカサの濁った瞳だけが、俺に向けて切実になにかを訴え続けている。


 腕時計の秒針が、二十秒進んだ。


「『ずっとここに、アスタリスクにいる』って、俺に誓って」


 濁った瞳が語り続けていた言葉が、唇からも紡がれた。

 

 一ヶ月ほど前、ツカサは俺がここから出て行かないかについて真剣に悩んでいた。その際は抱きしめて『一緒にいたいのは本当だ』と伝えたのだが、それではツカサの心に届かなかったのだろうか。納得できなかったのだろうか。


 寝言からすると俺がいなくなる夢を見ていたとも推測できるが、それにしたって、情緒が不安定すぎる。


「どうしてそこまで……」


「いいから誓ってくれ!!」


 疑問が、瞳孔の開いたツカサの絶叫に遮られた。あまりの剣幕に脊髄から脳天まで痺れが走り、背筋に冷たい汗が流れた。


「……驚かせてごめん。でも、誓ってくれれば、耐えるから」


 ツカサの視線が再びあぐらに落ちる。数秒前のツカサと現在のツカサに、触れることを躊躇うほどの落差が発生した。


「わ、わかった。『ずっとここに、アスタリスクにいる』」


 疑問を飲み込んで、仕方なく誓う。


「本当に、本当に守ってくれよ祐護さん。俺も、耐えるから……!」


 申し訳程度の誓いに返ってきたものは、力強くあろうとする、頼りない声だった。ツカサは顔を上げて冷たい指で俺の両手首を掴んだ。濁ったままの瑠璃色の瞳は、ツカサにしか見えない遙か向こうの何かを見つめていた。

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