最も幸運な瞬間に

 玄関に立つ。


 ツカサが持つトレイの上にはティーセットと、リンゴと、オイルランプと、三枚の濡れ布巾が乗っている。


 濡れ布巾はアスターが起こした砂煙で汚れているだろうガーデンテーブルを拭くためのものだ。


「『開け』」


 胸元の鍵に意識を向けて命令すると、緑の光と共に、両開きの玄関ドアがゆっくりと開く。予想通り、ガーデンテーブルは砂を被って茶色に染められていた。


 そして大きなムクロジの木の下に、息を乱したアスターが寝転んでいた。その足下には唾液にまみれたバナナの房部分が転がっている。


 ツカサは砂だらけのガーデンテーブルにトレイを置いてアスターに歩み寄った。俺はトレイを片腕で抱えてガーデンテーブルを拭いていく。


「きいて!いろんなところにバナナを置いてきたんだ。これで兄ちゃんも出てくるかも!」


「アスター、さっきも言ったけど、この世界に馬のお客さんはアスター以外いないよ」


 椅子の座面を拭いながら、疲れているアスターがこれ以上無理をして走ることがないように、もう一度、真実を述べる。


「兄ちゃんはいるよ!こないだいっしょに走ってたんだもん!」


 ここまで疲れていれば素直に聞き入れてくれると思っていたが、アスターからは的外れな反論がきた。


「だから、この世界には……」


「ダービー、嫌だけど走ってたら、兄ちゃんが急に出てきて!兄ちゃんと走れるのが嬉しくって、兄ちゃんを追いかけて……」


 アスターの話はどんどん、現状と関係のない方向へ走っていく。


「追い越せなくって。それなのに一着って言われて、布かけられて」


 けれどアスターの言葉には、俺を黙らせるだけの熱量と疑問点があった。スペースが途中から現れた?追い越せなかったが、一着?


 ガーデンテーブルを拭く手を止めて、アスターを見る。


「兄ちゃん、どうしちゃったんだろ……。おれがもっと本気で走ったら、また兄ちゃんが出てきてくれるのかな!?」


 ツカサも何も言わずに、アスターを見つめていた。


「隣の部屋に兄ちゃんが帰ってくるのかな!?一緒にへーソーしてくれるのかな!?」


 アスターの丸い目から涙がこぼれる。


 俺はこの時初めて、馬が涙を流す生き物だということを知った。


「あいたいよぉ!兄ちゃん!!」


 アスターが泣き叫ぶ。


 ツカサはあやすようにアスターの首を撫でた。


「今日はもう、兄ちゃんのことは考えなくていいから。俺らのリンゴも全部あげるから」


 その声に混じる慈しみだけが、この場における救いだった。

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