明日を信じて
「あなたの余命は長くて一ヶ月です。明日の命の保証も出来ない状態です。」
病院の診察室で白衣を纏った、ビーチで真っ黒に日焼けした初老の医者がおっさん野球帽に告知した。
おっさん野球帽は体の異常を感じていなかったが、会社の健康診断の一環で人間ドッグを受診していた。
最近はアルコールの量が増えていたが、まさかこの様な結果になるとは全く予想しておらず、頭が真っ白になった。
「治る見込みは無いのでしょうか。」
震えながら、何とか声を絞り出して医者に尋ねたが、答えは虚しいものであった。
「残念ながら手遅れです。これは医者としてのアドバイスでは無く人生の先輩としてアドバイスとして聞いて下さい。」
一呼吸置いて医者が続けた。
「後悔の無い様に今からでもやり残していた事を思いっ切ってやってみなさい。」
おっさん野球帽はこの理不尽な運命を呪い、涙を流しながら診察室を後にした。
おっさん野球帽は一人で居ると眼前に迫る死の恐怖に耐えられなくなると思い、おっさんチョコレートとおっさん伊達メガネを自宅に招いた。
「お前が家に俺達を呼ぶなんて珍しいな。何かくれんのか?」
おっさん伊達メガネが無邪気に言った。
「そうだな・・・」
おっさん野球帽は俯き、今にも消え入りそうな声で答えた。
「このネギ食べていいか。」
冷蔵庫の中を勝手に漁りながらおっさんチョコレートが言った。
「あぁ、好きにしてくれ。」
おっさん野球帽は普段であればおっさんチョコレートのこの無神経な行動に腹を立て暴力を振るうが、今日ばかりは寛大になれた。
暫くの沈黙の後におっさん野球帽が重い口を開いた。
「実は今日、医者から余命宣告を受けたんだ。」
「お前みたいなしぶとい奴は余命300年だろう。」
おっさん伊達メガネが笑いながら言った。
おっさんチョコレートは賞味期限が20日過ぎたネギを食べるのに必死で二人の会話は上の空であった。
「そうだと良かったんだが。医者が言うには明日の命の保証も出来ないそうなんだ。」
二人もようやく事の重大さを理解した。
おっさんチョコレートは、事の重大さを理解しつつもネギを食べる手を止める事は無かった。
「明日死ぬかもしれないって状況になって初めて人生を振り返ったんだ。
そこで、やり残した事がこんなにも沢山あったんだって事に初めて気付いたんだ。
しかも、その殆どは直ぐにでもやれる事ばかりだったんだ。
もっと早くこの事に気付いて行動に移していれば良かった。
こうなってしまった今からでも遅くないだろうか?」
おっさん野球帽の目には涙が溢れていた。
おっさんチョコレートとおっさん伊達メガネも自分の事の様に泣いた。
おっさん野球帽はさらに続けた。
「時間が経つに連れて知らない場所へ飛び出す事が怖くなって、一度転んでしまったら立ち直れないんじゃないかって思ってた。
最初の一歩が怖くてずっと踏み出せなかったんだ。
今なら、根拠が無くても不思議と何でもやれる気がするんだ。
人は生まれた瞬間から死というゴールに向かって進むんだ。
俺のゴールまでの距離はお前達よりも短かかったってだけだ。
ゴールに着くまでに、お前達と一緒に色んな景色を見られて楽しかったよ。
湿っぽいのは苦手だから、俺がゴールテープを切った時はお前達だけは笑顔でいてくれないか。」
おっさん野球帽は涙声で殆ど何て言っているか分からなかったが、二人は取り敢えず頷いた。
この日は朝まで三人泣きながら飲み明かした。
それから毎日おっさん達は残り僅かな時間を惜しみ、少しでも時間が空けばおっさん野球帽の家に集まり共に過ごす様になった。
死期が迫っている事を感じ、おっさん野球帽は達観し尊い存在へと変化して行った。
毎日朝5時に起床し、お経を唱え、悟りを開いた。
髪型もカリスマ美容師にキリストの写真の切り抜きを見せ、お揃いのセンター分けのロン毛にし、パーマもかけて貰った。
そして、体からは次第に後光が差し始め、見事に聖人へと変貌を遂げた。
そんなある日、二人にそれぞれ宛てた手紙を手渡した。
「私が死んだらこの手紙を読んで下さい。どうかこの恵まれないおっさん二人に神のご加護があります様に。」
おっさん野球帽が祈りを捧げながら言った。
そして、空を見上げながら神と仏の両方からのお告げを聞いた様子でこう言った。
「いよいよ天に召される時がやって来ました。
天国には現世での持ち物は何も持って行けないので、この部屋にある物は全てあなた方二人に差し上げます。」
二人はおっさん野球帽の変化に付いて行けず、自分達が置いて行かれる様な気がした。
それと同時におっさん野球帽がもう既に何処か遠くに行ってしまった気がして寂しくなっていた。
二人はおっさん野球帽が何だか段々怖くなり、部屋にある金目の物を抱えて慌てて出て行った。
それから一ヶ月以上の時が経ったが、一向におっさん野球帽は天に召される気配が無かった。
そして、あるニュースが世間を騒がせた。
おっさん野球帽を診察した初老の医者が実は、医師免許を持たない、中年女性を狙った結婚詐欺師であったのだ。
おっさん野球帽はそのニュースを知るや否や別の病院で再検査を行った。
結果はどこにも異常は見られず、健康そのものであった。
その晩、三人はおっさん野球帽の家に集まりお祝いをする事にした。
「またこうして三人で酒を酌み交わす事が出来るなんて思わなかった。」
おっさん野球帽がしみじみと言った。
「おっさん野球帽から余命を打ち明けられた時は本当に驚いたよ。急に熱い事を言い出すし。」
おっさんチョコレートが言った。
すると、おっさん伊達メガネが何か思い出した様におっさん野球帽に言った。
「そう言えば、これから恐れずに新しい一歩を踏み出すんだったよな。」
「やっぱそれいいわ、この歳で失敗したらカッコ悪いし、
俺ってメンタル弱いじゃん、そうなったら一生立ち直れないだろうし、
今のクレーム処理の仕事だって言う程悪くないし。」
悟りを開き聖人の様だったおっさん野球帽が、いつもの下衆で偉そうなおっさん野球帽に戻っており二人は一安心した。
おっさん野球帽は聖人だった頃の記憶が全く無く、二人からその頃の話を聞き、心底驚いた様子であった。
「それよりもお前達、家にあった枕と布団まで持って行っただろう!
何でも持って行って良いって言われたからって、これから布団の中で安らかな最期を迎えようとしている人間の寝具を持って帰る奴があるか!
首は痛くなるし、寒くてずっと眠れなかったんだぞ!
持って行った物今すぐ全部返しやがれ!」
おっさん野球帽は怒った口調で言ったが、二人の友情を感じていたので実は全く怒っていなかった。
こうして三人は久し振りに笑いながら朝まで酒を飲んだ。
後におっさん野球帽が死ななかった事により、封を切られなかった二人に宛てた手紙が、彼等の内一人の運命を大きく変える事になるとは、この時は誰も知る由もなかった。
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