裏切りへの代償

おっさんチョコレートは狭苦しい、息の詰まる夜行バスに揺られていた。

目的地まで8時間以上もこのバスの中で過ごさなければならないと思うとげんなりしてしまう。

しかし、これは大好きなアイドルグループのライブに行くまでの試練だと思い彼女達の為に、自らを奮い立たせた。

おっさんチョコレートの後ろの席は明日はテーマパークに行く予定の一家四人が座っていた。

子供達が靴を脱ごうとして小さな物音が立った。

「うるさいぞ!他の乗客の迷惑だろ!」

おっさんチョコレートはそう言い放ち、持参したポータブルDVDプレーヤーにヘッドホンを繋げ、大音量でアイドルのライブ映像を見ながら、デビュー曲を口ずさみ始めた。

他の乗客は少しも物音を立てる事が許されず、自分は周りに聞こえる声で歌を歌っても許されると思っているおっさんチョコレートのこの矛盾だらけの身勝手な迷惑行為に皆、不満を募らせていた。

しかし、おっさんチョコレートから溢れる、失う物が何も無く、危険思想を持っていそうな雰囲気を感じ取り、

もし注意をすればどの様な報復を受けるか想像するだけでも恐ろしかった。

乗客達は泣き寝入りするしか無かった。

「眠くなってきたし、そろそろ寝るか。」

おっさんチョコレートがDVDプレイヤーを閉じながら呟いた。

それを聞いた他の乗客はやっと静かに寝れると思い安心した。

「ゴォー、ゴォー!」

突然けたたましい轟音が車内に響き渡った。

運転手はバスが故障したと思い驚いて急ブレーキを踏んだ。

音のする方を辿って行くとそれは、おっさんチョコレートのイビキであった。

おっさんチョコレートは昔から赤ん坊並に素晴らしく寝入りが良かった。

やっと静かに寝れると思っていた他の乗客に、僅かでも安息の時を与える事は無かった。


朝になり、目的地に着く頃にはおっさんチョコレート以外の乗客は全員寝不足と極度のストレスでぐったりしていた。

前日にはテーマパークに行くとはしゃいでいた一家四人の子供達もすっかり元気を無くしており、

車窓からテーマパークが見えた時も無反応で死んだ魚の様な目をしてジェットコースターを見つめていた。

「体中痛いし、寝心地の悪いバスだったなぁ。」

おっさんチョコレートはバスを降りる時にも添乗員に聞こえる様にバスへの嫌味を口にした。


ライブ会場は繁華街の地下にあり、収容人数は50名程の小規模なものであった。

中に入ると既に6名の同志が集まっていた。

「遠路はるばるご苦労様です。」

最近同志に加わった20代の若者がおっさんチョコレートの労をねぎらった。

おっさんチョコレートはこのアイドルグループのファンの中では一番の古株でリーダー格であった。

アイドルメンバー全員からも名前を憶えて貰っており、いつもニックネームで呼ばれていた。

「今日のライブは新メンバーも加わって新たな歴史が作られる記念すべき日だから、これまで以上に応援しないとな。」

「そうですね。この新メンバー加入もおっさんチョコレートさんが一人で大量にCDを購入して下さったお陰ですね。」

「その通りだ。そう言えばお前、この間の写真撮影会の時に推しと親し気に話していたな。

俺の様に父親の様な感情で応援するのならいいが、彼女達も今が大事な時期だからくれぐれも分かっているな?」

「はい、僕達は皆、純粋に彼女達を応援したいという気持ちしか無いので、アイドルとファンとの一線を越える事はありませんよ。」

「その気持ちを決して忘れるな。」

本当はおっさんチョコレートには推しに対して、父親が娘を応援する様な感情は一切無く、隙あらば彼女をモノにしたいという邪な独占欲しか無かった。

推しがこのイケメン風の若者と被っていたので、彼女を取られるのでは無いかと焦りを感じていたが、彼の言葉を聞き一先ず安心する事が出来た。


ライブが始まるとおっさんチョコレートは最前列で誰よりも声を出し、誰よりも汗を流した。

息も絶え絶えでラストの曲が終わると同時に膝から崩れ落ちた。

「はぁ、はぁ。今日もいい汗掻いたなぁ。

推しのあいつ、ライブ中はずっと俺の事ばかり見て歌に全然集中してなかったな。いくら俺に気があるからって困ったもんだぜ。」

おっさんチョコレートはライブが始まる前に、会場の物販で購入しておいたタオルで汗を拭いながら言った。

満足気な表情を浮かべ、夢見心地で歩いていると、いつの間にか関係者用通路に入ってしまっていた。

慌てて外に出ようとしたが、ここでおっさんチョコレートの足が止まった。

目の前の扉にはアイドルグループの控室のプレートが貼られていた。

幸い控え室の鍵は開いており、こっそり中を覗くとまだ彼女達は戻って来ていなかった。

おっさんチョコレートは躊躇う事無く中に侵入し、使いかけの口紅か歯ブラシが無いか私物を物色し始めた。

すると突然外から彼女達の話し声が聞こえた。

おっさんチョコレートは慌ててロッカーの中に隠れ、身を潜めた。


彼女達が扉を開け控え室に入って来た。

おっさんチョコレートはもし見つかれば一貫の終わりだと思い、息を潜め今にも心臓が張り裂けそうであった。

「ねえ見た?」

おっさんチョコレートの推しが他のメンバーに向かって話し始めた。

「あの豚、今日も来てたよ。最前列で汗びっしょりでペンライト振って気持ち悪かった。」

おっさんチョコレートは我が耳を疑った。

これは現実では無く夢で、本当の自分は今布団の中で寝ているのだと必死に現実逃避しようとした。

これは政府か何かの陰謀ではないかとも考えた。

しかし、これが夢でも陰謀でも無い事はおっさんチョコレート自身が一番よく分かっていた。

それからはショックが大き過ぎて、彼女達の会話は何も耳に入って来なかった。


帰り支度が整い、彼女達が控え室を後にするとおっさんチョコレートは隠れていたロッカーから勢い良く飛び出した。

「あの女!俺の心を弄びやがって!」

唇を噛みしめ怒り狂ったおっさんは密かに推しへの復讐を決意した。


それから彼は復讐を実行すべく、急いで夜行バスに乗り込んだ。

ライブに向かっていた頃は、8時間という長い移動時間でさえ楽しい一時であった。

「推しは俺が遥々遠くから駆け付けたと知ったら嬉しくて泣いちゃうんじゃないか。

推しの喜ぶ顔をこれから見られると思うと、想像するだけで幸せな気持ちになれる。」

おっさんチョコレートは行きの道中その事ばかり考えて自然と笑みが溢れていた。

しかし、帰りのバスの8時間は行きとは大きく違い、おっさんチョコレートの復讐心を滾らせる時間として存分に使われた。


家に着くや否や、階段を駆け上がり、おっさんチョコレートは部屋に住み着き長年寄り添ったゴキブリ150匹を素手で捕まえ始めた。

そして、そのゴキブリ達を推しが欲しいと言って誕生日にプレゼントしようと思って準備していたブランド物のバッグの中に押し込んだ。

そして身元が特定されない様に筆跡を変えて手紙と一緒に彼女へ送り付けた。


「これで、彼女は驚き卒倒するだろう。俺を怒られるとどうなるかこれで思い知るだろう。」

おっさんチョコレートは復讐をやり遂げ、心が晴れるだろうと思っていた。

しかし、おっさんチョコレートが思っていた以上に、推しの存在は大きかった。

不意に握手会やライブでおっさんチョコレートに振り撒いてた彼女の天使の様な笑顔が頭を過った。

そして、おっさんチョコレートはようやく気付いた。

心にぽっかり空いたこの余りにも大きな穴は、何をしても一生埋まる事は無いだろうと。


それから数日後、地元のライブ会場で推し達のライブが開催される事となった。

おっさんチョコレートはいつもの習慣で無意識の内にライブ会場の最前列に立っていた。

時計に目を遣るとライブ開始までは、まだまだ時間があった。

すると突然、会場全体の照明が落ちた。


「今日は私達がデビューする前からずっと応援してくれてる大切な人の誕生日です。」

マイクを両手で持ち、推しがステージの真ん中に立ち、そこにスポットライトが当てられた。

後に続いて他のメンバー全員、ステージに並んだ。

そして、会場全体でハッピーバースデイの歌を合唱した。

おっさんチョコレートの目の前にバースデーケーキが運ばれた。

おっさんチョコレートはケーキに立てられたロウソクの火を消そうとするが、感動してワンワン泣いてしまっていたので、火は中々消えなかった。

「こんな俺の為に・・・ありかとう。」

火が消えると会場は暖かい拍手に包まれ、推しからプレゼントが手渡された。

おっさんチョコレートの目は既に涙で一杯で、彼女の姿が全然見えなくなっていたが、きっと推しは今、自分に素敵な笑顔で微笑んでくれているんだと確信していた。


このサプライズは推しがグループのメンバーや劇場のスタッフ、他のファン達に頼み込んで企画してくれた物だった。


ライブが始まると、おっさんチョコレートは嬉しくて嬉しくて、いつも以上に大量の汗と、そしてキレイな涙を撒き散らしながら、ペンライトを一心不乱に振ったのだった。



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