第16話 幻覚の恐怖

 例えば、の話だけどさ。


 仕事をしているとしよう。デスクに座って、パソコンを弄っている。

 オフィスの入り口に人影。まぁ、そこまでなら誰もおかしいとは思わないだろう。入り口は誰かが通るところだし誰かがトイレに行ったのかもしれない。


 でもそこから首が伸びてきたら? 


 男性とも女性ともつかない細くて真っ白な顔が、ろくろ首みたいににゅっと自分のところに来て耳元でずっと「死ね、死ね」って言ってきたらどう思うだろうか。


 あるいは「家から出られなかったら?」。ドアはある。ノブにも手はつけられる。でも開かないのだ。ドアが壁になっている。ではドアは……? と探すと目の前にドアがある。でもドアは壁になっている。ではドアは……? 


 シンプルに怖かった。フィクションだと思うだろう。フィクションであってほしい。ただ僕はこの頃、鬱病と過眠症とを併発していて、日中に眠り込んでしまうことが多々あった。当然上司に怒られる。だがこちらとしては、やる気がなくて寝ているわけではないのだ。正確な表現を心がければ「意識が落ちる」。強制シャットダウン。


 でも僕は起きていようとした。起きていることが社会人だった。シャットダウンに抗う。夢と現実との間を彷徨う。


 会社で働いているところまでは「現実」だ。でも入り口に人影があってそこから首が伸びてくるのは「夢」。ドアがあるのは「現実」。でも開けようとする動作は「夢」。だから開かない。こんなことがしょっちゅうあった。気づけばオフィスが東京ドームみたいにめちゃくちゃに広い空間になっていたり、寝る前に子守歌みたいに「永遠に目を覚ますな」という趣旨の声が聞こえてきたり、まぁ手を変え品を変え。


 しかしこの頃、何もかもが悪いわけではなかった。面白い人がいた。


「……ったく誰だこの汚いプログラム組んだのは(作成者を見る)……あ、俺か」

 こんな独り言を一日に二回くらいつぶやく上司。


「豚トロ。たくさん。ひっくり返す。焦げない。油落ちる。火が通る。美味しい」

 普段は日本語が上手いのに焼肉になると途端に片言になる中国人の同僚。


「女の子ってさくらんぼの味なのかなぁ」

 女子に意味の分からない幻想を抱いている自称童貞の同僚。


「犬って散歩してると『ついて来てるか?』って振り向くじゃん。……え、犬飼ったことあるか? ないけど?」

 二言目には矛盾することを言ってくる元数学者の先輩社員。


 まぁとにかくバリエーション豊かだった。

 でも僕は業務中に居眠りをする奴で、でも寝落ちるのよりも早く終わる仕事をやらせてみたらそれなりの結果を出してくるので、社長が「ひとつ試しに」と僕を「社運を賭けたプロジェクト」なるものに投入した。


 そこで出会った原田さんという女性と、その下で働いている三木さんという男性が僕の人生を変えた。


「人生は一度しかないんだよ。コンテニューはないの。やりたいことは全部やりなさい」

 原田さん。僕がライターになるきっかけをくれた。


「病気や障害を抱えることは決して恥ずかしいことじゃない。働かないアリ理論ってあるだろ? 二割真面目に働いて、六割そこそこ働いて、二割全く働かないってやつ。あれ、働かない二割はバックアップなんだよ。八割が潰れた時に動き出す連中なんだ。病気や障害で動けなくても、いつかその『働ける二割』になれるかもしれない。だから恥ずかしがらなくていい。君もチームの役に立ってる」

 三木さん。僕に生きる勇気をくれた。


 そういうわけで、僕はこの二人のおかげで自分の人生に向き合う覚悟を決め、ついに人生で初めて精神科に行った。これまで勉強の材料として扱っていた精神病の類に、自分がなる決意を固めた。


 行くなら精神科がいい、という進言は原田さんがしてくれた。心療内科は気軽に受けられる分、本格的な診断はしてくれない場合がある。日常のちょっとした異変ならいいけど、小川さんは業務に差し障りのある症状だ。本格的に診てもらった方がいい。


 精神科で話を聞いてもらうと自分でもびっくりするくらい涙が出た。多分泣き崩れていたと思う。


 病気を理由に会社を辞めることにした。原田さんも三木さんも、僕の背中に手を当ててくれた。

「困ったらいつでも連絡しておいで」

 連絡先を教えてくれた。今でも持っているが、まだ使ってない。大事に取っておきたいから。


 さて、将吾だ。


 僕は横浜で一人暮らしをしていた。将吾も広島から神奈川に帰って来て、東工大の院に通っていた。


 二人で小説を書かなくなってから一年。


「また書いてみようか」


 僕のアパートで酒を飲んでいた時、将吾が言った。

 まるでいたずらの相談をしているかのようだった。

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