口遊

武蔵山水

口遊

  一


 朝。まだ日が明け切らぬ内に目覚めた俺はスマフォを確認した。スマフォには通知が十件ほどきていた。全て同一人物からであった。俺の女より電話が十件も来ていたのである。時刻は深夜0時前後である。馬鹿野郎、寝てるに決まってんだろう。俺は電話をかけよかとも思ったが未だ日が明けていない時刻である。どうせこの時間に電話してもでまい。俺はスマフォを放り投げもう一眠りすることにした。瞼の内の暗澹に女の事が浮かんできた。

 女は己の裡でも下らない流行歌を口ずさんでいた。俺が如何にその姿を冷たい目で見てようが女は決してやめず楽しそうに歌うのである。俺はその様子を伺い鬱陶しくも思いつつ愛らしく思うのである。

 次いで目覚めたのは大分朝日が上りきった頃であった。女からの通知はさらに増していた。良い加減にしてくれよ全く。何か用があるならメッセージでもなんでも送れば良いのに。俺はようやく女に電話する気になった。女はすぐに出た。

 「何?夜に電話してきても出れる訳ないじゃん」

 「別れて」

  女は食い気味に言った。俺は女の発した言葉の意味は理解できたもののそれが何故唐突に彼女の口より発せられたのかは理解が及ばなかったなぜなら俺たちは一昨日も同様に渋谷あたりをデートしそして豪華とは言い難いレストランで食事した後、円山町のラブホテルでいつも通りセックスをしたからである。女は俺の愛撫にいつもと同様に愛の快感を感じていたはずだ。もっともそれが元より演技であるならば話は大きく変わってくるがしかし、女に俺を欺けるという能の持ち合わせていなければまた俺を欺ける必要だってないのだ。俺は女に対し立腹した。大きな謎が俺を苛立たせた。しかしながら俺は怒りを抑え努めて冷静にしていた。

 「どうしたの?この前はあんなに楽しかったじゃん」

 とセックスの記憶を呼び覚ましつつ俺は言ってみた。その言説には些かの悪意もまた卑猥な心持ちもないのである。ただ純粋に女に対する疑問を投げかけたのみである。

 「とにかくお前とはもう一緒にいたくない」

 女は急に大きな声でそう言った。俺は驚きそして女の声が耳を劈いた刹那、些かの恐怖を感じた。そして恐怖は俺が抑えていた怒りの堤防を決壊させるに至った。

 「うるせぇよ。急に大きい声出すなよ」

 俺は静かにそう言うのみで終わらせようと思ったがその言葉か俺の怒りをさらに増大させた。

 「だいたいテメェよ、おいクソが、黙って優しく言ってりゃよ、訳のわかんねぇ事をぐちぐちナメクジみてぇに言いやがって、ふざけんじゃねぇ。一体、どういう訳あって別れんのかってその理由を教えろって言ってるだけじゃねぇかよ低脳が。そんなことも理解できねぇのかよ」

 俺の怒りは収まらなかった。そして女は泣いた。俺は一方的に電話を切った。そして怒りに任せてスマフォを床に叩きつけた。何やら良く分からない部品たちが四方に散らばった。俺はそれにさえも腹立ちを覚えどうにかしてこの憤慨より逃れる方法はないだろうかと考え冷蔵庫に常備してある酒を流し込み、腕をカッターで切り寝た。


  二


 目覚めたのは入日の頃であった。俺は眠り入る前に起こった一連の出来事は全て俺が創り出した幻影ではないのかと訝しんでみたがどうやらそうではならしい。あれはまぎれもなく現実と連続した出来事であるということは覚醒にしたがって明瞭にわかってきた。そして何よりも血の滲んだ腕そして血のついたシーツが証拠であった。なるほど、俺はもうあの女の物ではなくなったみたいである。然し些か展開は急である。果たしてこの結末は一体どのようなものであるのかどうしてもわからない。そんなものは初めからわからないのであるが今回は展開を通過した現在であるので展開というものに執着する意識と相まってさらにわからなくなっている。どうすれば良いのか。これは俺が死に晒されればそれで満足なのだろうか。アルコールは俺を助けてはくれないのだろうか。

 俺はベッドの上でこの上なく空虚な部屋を眺め見たが虚しくなるだけなのでやめて立ちあがった。

 俺は外へ出た。 

 外はもう、暗かった。それは夜とまでは言い難いが朝とは、昼とは決して言い難い時間である。ほの暗い空は徐々に紫に変わり闇の到来を刻々と告げているその空を見ながら歩く。遠くのビル群の光はより明瞭に映る。俺はゆく当てなんぞは無いが現実から逃れるためにこうやって歩いているのかもしれない。俺は往来を歩き続けてすれ違うコンビニに入り売っている酒を買った。そしてそれを飲んではまた新たな酒を胃に流し込んだ。幻を見るために。

 しばらくして俺の記憶は切れ切れになっていった。


  三


 俺は本屋に入っていた。別段買おうとも思わないのであるが仕方がないから見て回った。俺の目についたのは悲劇的な小説ばかりであった。つまらない。全く情けなく思ってきた。しかしながら、かと言ってつまらない喜劇やらハッピーエンドの本を買おうという気なんぞもうとうないし、そんな人間でもないので目に入った葛西善蔵の短編集を購った。しかしよく考えてみたらこの本持ってるぞ。まあ良い。何冊持っててもどうせ読むまねぇ本だってあるからこのまま買っていこう。俺は金を払った。文庫の割には高い。葛西善蔵みてぇな物好きしか読まなぇ小説家の本はもう著作権なんてねぇから安く売ってくれと思うんだが葛西の霊魂に敬意を表して金を払うのであった。

 

  四


  くそゴミが。と俺は路傍のゴミクズを蹴り飛ばした。しかし俺よ、俺は一体何に腹を立ててるというのだい?五体満足では決してありはしないが、だが生きてるじゃねぇのか?なるほど、俺は生きてるから辛いのであるのか。生きてるから苦しいのであるのだな。馬鹿野郎、俺はそんなこと知ってるし俺以外の人間だって同様じゃねぇか。しかし俺と他者は違ぇなんぞ阿呆なこといまだにまたどこかで思い込んでつけあがっていやがるからこんな惨めな思いに晒されるんだろうな。情緒に流れすぎだ。いつか、女は俺に言った。俺はその女と一緒に死ぬつもりだった。そしたらあの女この野郎、俺を捨ててどっかに行きやがった。俺は惨めに泣いたが女なんぞは世界に幾億人もいるんだよ。そうだろ。そうだろう。

 歩いているうちにずいぶんの数の駅を通り過ぎたと思う。気づけば俺は東京の摩天楼を歩いていた。行き交う人間は俺なんぞに目もくれないが俺は行き交う人間を見ている。どうやら比較的、カップルが多いようだ。しかしである。驚くべきことに(というまでもない。俺なんぞはいつも外を歩き回っているからそんなことには薄々もはや気付いていいたのであるがしかしあえて俺の発見を殊更強調するためにこの表現を借用してみよう。)美人の女だって多々すれ違おうのであるがそのつれは決まって醜い男たちなのである。その度に果たしてあれらの女hそれに満足しているのだろうか。或いは制欲を発散させるためであるから誰でも良いのだろかと考えるのである。まあどうでも良いか。そう言やぁ石原慎太郎が「女とは畢竟するに肉体の快楽を提供し子を産みのみである」云々とか言ってたが概ねそんなとこだろう。そんで男っちゅうのは他にできることはない。提供してもらうのは良いが返せる喪男は何もないただ寂しい科学力の進歩と共に不必要になる下らない生き物だ。

 俺はまたコンビニに入って酒を飲んだ。


  五

 

 「ねえ」

 何、と僕は口にだして言おうかとも思ったが結局言わずに遠くの水平線を眺めていた。そしてそれを眺めつつ彼女の肩を抱き寄せた。僕の目線の先にあるものに気づいた彼女は黙って僕の方に体をもたげた。

 「綺麗、こんな景色、ずっと見てたい」

 彼女は静かにささやいた。彼女の言う通り眼前に写っている海は今までにないほど綺麗だった。漆黒の海に星々がかぼそく瞬き遠くには大きな月がぽっかり浮いていた。手が届きそうだった。

「私たちまだ生きてる?」

「どうだろう」

 雨が降ってきた。それは夜の夕立だった。

「私たちまだ生きていけるかな?」

「どうだろう、わからない」

 僕らは雨に濡れ続けた。この海は鎌倉の海である。きっと彼女は泣いていただろう。

 翌週、別れを告げられた。


 六


 何も関係がない。過去の出来事なんて今の俺には全体、何の関係もないのである。

 店に入って酒を飲む酔った俺は店員にそう言った。店員はよく理解していない風だったが俺にはどうでもよかった。店員がどこかに行き、また俺はは一人で酒を飲み続けた。

 (ねぇ、一緒に死んでくれる)

 「もちろんだとも。君のためなら現世なんて捨てたっていいね」

 (ほんと?!優しいのね、あなた)

 「どうやって死ねば良いと思う。銃自殺はできないし首吊りは苦しそうだし、飛び降りは痛そうじゃん」

 (そうね。私もそれは思う。どの死に方も怖くって私、今までしてこなかったの)

 「じゃあ、どうする」

 俺は考えた。しかし答えは出そうにない。

 「ねぇ、起きてよ」

 俺の体を揺するものがいた。俺は頭を上げた。どうやら寝てしまっていた様だった。

 「あ、うん。ごめん」

 俺は俺を起こした女の方を見た。

 「やっぱり」

 女の声に聞き覚えがあった。それは高校の頃より今日まで会わずにいた女だった。

 「やっぱり、なんか似てる人がいるな、と思ったら」

 女は無遠慮に俺の隣に座ってきた。

 「ああ、ちーちゃんか。久しぶり」

 「何、あんま驚かないの」

 先ほど俺の話を理解してくれなかった店員が戻ってきて女に注文を聞いた。キクはハイボールを注文した。

 「だって、別にお前が死んだわけじゃねぇんだからいつか会えるだろ、って思ってたから」

 「ふーん。よくわかんない」

 俺は先ほどの店員にウイスキーを注文した。

 「学校、途中から来なくなって心配してたんだよ」

 「じゃあ何で連絡してくれなかったの」

 俺がそう言うと会話の腰を折る様に店員がハイボールとウイスキーを運んできた。俺はウイスキーを飲んだ。女も飲んだ。

 「いや、だってなんか気まずいし」

 女は言った。俺は女の手を握った。若く柔らかい彼女の手は彼女に恋していた時分を思い出させた。恋していたというより恋をしていると言う方がより適切である。

 「僕はちーのことが好きなんだ」

 と俺は言った。女はちっとも驚くそぶりを見せずにハイボールを飲んだ。

 「知ってた」

 「知ってたら何で僕と付き合ってくれなかったの」

 「だってあなた私に好きって言わなかったじゃない」

 確かにそうだなと思った。結局自分の気持ちに正直にはなれない。

 「ねぇちーちゃんは僕とセックスできる」

 「何で?」

 「いや、何となく」

 キクはカバンからタバコを取り出し火をつけようとしたが店員に止められた。ここは禁煙らしい。すぐにしまった。

 「できると思う」

 「じゃあしようよ」

 「いいよ」


 七


 俺たちはその酒場からほど近くのラブホテルに入りセックスをした。女の体はあの頃と同じ様に過不足のない体だった。セックスの後、女は裸体のままタバコを吸っていた。

「ねぇタバコ、頂戴」

「いいよ」

 そうしてタバコを一本もらった。わかばだった。しばらく一服の沈黙だけがあった。

 女は一服し終えるとまた俺のことを抱きしめた。俺はそれに応じた。そうやってしばらく時間が経った。俺は今でもやはりこの女のことも好きなのである。

 俺は彼女と共に風呂に入った。


 八


 満点の星空の元にいる俺たちは 

 一人で滅びていく

 

 満点の人生に行き詰まった天才は

 一人で何者でもなくなっていく


 突っ立つ音は

 辺りを軽蔑しながら

 ノイズになって瞬く

 

 首都高を走る

 悪いあんちゃんたちは

 まだあの日かけてくれた

 優しさだけを

 ガソリンにして

 爆走している


 満点の星空の下

 横たわり放浪する

 波は

 死人の心を模している

 

 満点の星空の下

 寄り添う二人は

 一時の感情を

 永久という名の

 有限であることを 

 知らずに

 幸せでいる


 喪だけがある海には

 魚を食べるものはいない

 その事に気づかない

 

 満点の星空はもう死んでいる

 死に続けている


 お前も死んでくれ

 俺も喜んで死ぬから


 九


 いつの間にか寝ていたらしかった。少しづつ鈍い瞼を開けると彼女が哀れそうな目で俺を見つめて頭を撫でていた。

 「おはよ」

 彼女はそう言った。俺は少し微笑んだ。彼女はずっと俺の髪を撫で続けた。そしてしばらく見つめ合いどちらともなくキスをした。

 なぜだか俺は恥ずかしくなった。

 きっと俺は、いや俺だけじゃなく彼女も常に何かから必死に逃げ続けているのだと言うことがはっきりとわかった。


 十


 外は朝だった。一体俺は俺の家から飛び出して何日が経ったのだろうか。そんなことはどうでも良いがなぜだかそのことが気になった。池袋の街道はもう人でいっぱいだった。俺は彼女と共に駅まで歩いた。

 「ねえ、一緒に死なない?」

 俺がそう言うと彼女は矢張り驚くそぶり何ぞは見せなかった。

 「いいよ」

 そしてまたタバコを吸った。

 「でも、まずは逃げない?」

 「どこへ」

 「どこかに」

 きっとそうやって俺は明日も生きてるのだろう。

 俺は誰の曲かもわからねぇ寂しい歌を口ずさんだ。


(了)

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口遊 武蔵山水 @Sansui_Musashi

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