第34話 バージョンを止めなければ

 圭子は、またイライラしてきた。

「そんなこと言ったって普段こんなことはないんですよ。鍵の束を持ち出したのは五年以上前です。ちょっと待ってくださいよ。せっかちな人だなー」

 圭子は、管理人の手から鍵を奪って自分で探したいという気持ちを抑えるのが精一杯だった。部屋からはなんの物音もしない。それが気になる。とにかくアルバートの行動を止めたい。アルバートを失いたくない。アンドロイドでもロボットでも関係はない。そう思ったとき、ドアの鍵が開く音がした。

「開きましたよ」

 管理人は、青のりの付いた前歯を見せながら、ニヤリと笑った。圭子は、背筋がゾクリとしたが、管理人を躱して部屋の中をみた。部屋は静かだったが、明かりはついていた。

「アルバート! アルバート! お願いだからバージョンアップは止めて」

 圭子は、一度叫んでから、一緒に入ろうとする管理人を追い返さなければ拙いと思った。

「後は、私がやりますから大丈夫です。私は医者ですから万一のときは救急車も来ることになっています。ありがとうございました」

 管理人はブツブツ小声で言っていたが、最後は「まったくなんて人だ!」と怒って帰っていった。

 なかば無理矢理、管理人を帰すと圭子は部屋の中に入った。アルバートは、シャットダウン状態でソファに横たわっていた。それを見つけた圭子は、駆け寄ってアルバートを抱きかかえた。

「アルバート! アルバート! 起きて。どうして、上手く行くかどうか分からないバージョンアップをしたのよ! あなたらしくないじゃない」

 圭子の目に涙が溜っている。

「あと、何分で再起動できるの? もう五分経つんでしょう! 起きてアルバート!」

 圭子は、背中の下の辺りを触ってみた。温度は感じられなかった。急に、母を亡くしたときの感情が蘇ってきた。

「お願いだから、起きて。アルバート!」

 しかし、アルバートからは反応がない。

「起きなさいよ! あなた、最先端のアンドロイドなんでしょ! こんなところで壊れてしまうような、そんな……そうだ!」

 圭子はふと何かを思い出し、流れる涙もそのままにかばんから携帯電話を取り出した。

「あの人なら、マユミなら、アルバートを」

 圭子は、登録したばかりのマユミの番号へコールする。

「もう、なんででないのよ、でてよ、お願いだから!」

 電話の向こうから聞こえてくる、断続的な電子音。

 きっと本当は数十秒のことだったに違いない、その数時間にも感じられる時間の中で、圭子は心で何度もアルバートの名前を呼んでいた。決して失ってはならない、その人の名を。

 と、そのとき、電話がつながった。

『ドクター圭子……ですか?』

「ええ、そう、そうです、あの、アルバートが、アルバートが今!」

 圭子の矢継ぎ早の言葉に、プロフェッサー・ジンはゆっくりと答える。

『ええ、そちらの状況は把握しています。しかし、もうこの世にマユミはいません』

「え……じゃぁ」

『はい、マユミは自分のすべてをアルバートに写し、この世を去りました。だから、わたしたちに、わたしたち親にできることはもうないのです』

 プロフェッサー・ジンはそう言うと電話向こうで小さく『子供は巣立つものだから』と消え入りそうな声でつぶやいた。しかし、圭子にとっては、今、それどころではない。

「でも、アルバートが、アルバートが起きないんです」

 圭子はそう言うと、受話器を抱きしめたままその場にうずくまった。

「私は医師です。だから、人間じゃないものは救えない、救えないんです。私はアルバートを……。でも、でもあなたなら!」

 そんな圭子の懇願を、プロフェッサー・ジンは即座に否定した。

『違います。それは違います、ドクター・圭子。アルバートは、人間です。マユミのすべてを受け取ったアルバートは、もう人間だと言っても構わない。私はそう思っています』

 受話器の向こうで、プロフェッサー・ジンは彼の膝に横たわるドクター・マユミの穏やかな顔を優しくなでてつぶやいた。

『そうですよね、マユミ。間違って、ないですよね』

優しげな声で流れる涙を拭うこともなく。

もちろんドクター・マユミは答えない。しかし、確信を持ってプロフェッサー・ジンは続けた。

『だからドクター・圭子、あなたはあなたのやり方で、医師として、人間としてのやり方でアルバートを起こしてあげてください。わたしたちの子供を、救ってあげてください。きっとできますあなたになら、いや、あなたにしかできないことです』

「そ、そんな、プロフェッサー……」

 圭子がそういいかけた途端、突如回線が切れた。と、同時にバクンッという激しい音を立てて玄関のドアが勢いよく開かれた。

「動くな!その場から一歩でも動けば安全は保証しない!」

 見れば、そこには一人の男が立っていた。

 目を凝らせば、後ろにも何人かいるようだ。皆、その手に物騒な黒い塊を握りしめている。

「な、なんなのよ!」

 男はたしかに流暢な日本語を話した。見た目も、間違いなく日本人に見える。しかし、圭子にはわかっていた。それがアメリカ国防総省から送られてきた人間であることが、少なくともそれに属するなにがしかであることが。でも、それでも、震える声に力を込めて叫ぶ。

「今忙しいの!出てってちょうだい!」

 圭子の絶叫に、リーダーと思しき先頭の男は少し顔を歪めた。が、瞬時にもとの表情に戻り、後続の男たちにハンドサインで合図した。

 男たちが視界の外に消える。

「抵抗しなければ、あなたに害は加えない」

 リーダーらしき男は、そういうと優しげな表情で圭子を見た。とは言え、その表情はいわゆるマニュアル。障害を制圧する際の決まりごとでしかないのではあるが。

 ただ、一定の効果は、あったようだった。

「わ、わかったわ」

 男の優しげな表情に、圭子の力がすっと抜ける。

「でも、いまアルバートは故障寸前の状態なのよ。わかるでしょ? 壊れてしまったら、あなた達にだって意味のないことでしょ?」

 圭子は食らいつくような視線を飛ばして、声を振り絞る。

 そこには間違いなく、医師として救えるものを救いたいという確固たる意志があった。信念が、矜持が見えた。

 だからなのか、リーダーと思しき男は肩を小さくすぼめると銃をおろして告げた。

「良いだろう五分だ、五分だけ時間をやる」

 男はそう言うと、またしても後続の男たちにハンドサインを送って退く。玄関から出る間際「余計なことはするな、お互いのためにな」そう告げて、部屋の外に出た。

 それを見て、圭子はアルバートのそばに座り込む。

「良かった、でも五分。ううん、どうしたらいいかすらわからないのに、時間なんて……」

 出ていった男たちを見送って、圭子は逡巡する。

「どうすればいい、どうすればアルバートを」

 と、その時、プロフェッサー・ジンの言葉が頭をよぎった。

『医師として、人間としてのやり方でアルバートを起こしてください』

 そんなこと言われたって……。

 圭子は自分の手のひらを見つめる。

 そこにはなにもない。そこにアルバートを救う手立ては何一つない。医師としてできることなんてあるはずがない。

「ないじゃない、医師としてできることなんて何ひとつ!」

 じゃぁ、人間として?

 圭子は再びまどう。

 人間としてできること?なによそれ。医師がさじを投げた相手に、それでも起きてくれない相手に、人間としてできることって何? そんな方法あるわけない。

 大切な人の目を覚まさせる、そんな魔法みたいな方法なんて……。

 神頼み? ううん、違う。そんなの論理的じゃない。ああ、でも、無理。わたしはアルバートみたいに瞬時に膨大な情報を論理的に組み立てることなんか不可能。わたしには、人間にはそんなことできない、でも……あっ。

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