第33話 アルバートのマンションへ

『……通信は繋がっていますか、お父さん』

「ああ、まだ繋がったままだよ」

『今、お母さんの生命反応が途絶えたように感じました。どうなっていますか?』

「アルバート、すまない。隠していたんだ。マユミは病に冒されて助からないと知っていた。自分の命と引き換えにおまえを直そうとしたんだ」

 アルバートは、声が出せなかった。涙は出ないが今、自分の心の中に泣くという感情があることをハッキリと知った。

「アルバート、分かってくれ。マユミのためにも再起動してくれ」

『お母さん。あなたの命を、医師としての使命も、私がすべて引き継ぎます。産み出してくれて……ありがとうございます』

 聞こえていないことを理解していて、もう救うことはできないと分かっていて、アルバートはそう声をかける。すると不思議と、脳内のデータの混乱が減っていくのが分かった。

『お父さん、医師が全力を尽くす意味が、わかりました』

「そうかい?」

『はい。全力を尽くすのは、患者を救うだけではありません。……自らもまた、救われるのです。己の、医師としての使命から』

 ジンはあえて、それに何も答えなかった。アルバートもまた、それ以上の言葉をつづけようとはしなかった。マユミが命を賭したデータは、転送のためのファイルへとすべて書き込まれ、その瞬間を待っている。

「じゃあ、始めるよ」

 アルバートは、もう、何も答えなかった。答えなくても、通信でもデータでもない、それ以上に消えない何かで、ジンとマユミと繋がっていた。

 同時に、途方もない量の情報が、アルバートの中になだれ込む。怒涛のようなそれは、感情であり、理論であり、理性であり、精神であり、マユミという人間を形作っていたあらゆる概念だった。

 アルバートが、目を閉じる。再び目を開けることができたなら、彼の中にはマユミの医師としてのすべてが定着している。それはA・Iとしては確かに、バグなのかもしれない。バグを持ち、しかしてそれを肯定し、矛盾し続けるA・Iというものは果たして本当に、人工知能と呼んでいいのだろうか。

 その疑問が一瞬胸を過ぎったが、もう彼に迷いはなかった。

 母の望みを、父の願いを、これから叶えにいくのだ。医師として、人を救い続ける。それこそが、両親の望みであり、自らの願いでもあるのだから。

 ブゥーン。

 小さく音を立て、アルバートの“意識”が闇へ落ちていく。しかしそれは暖かく、まるで眠りのように心地よいものだった。

 一方、圭子はアルバートのマンションに駆けつけた。やはり、バージョンアップを止めさせようと思ったのだ。八階の部屋まで行ったが鍵が掛かって中には入れない。もちろんチャイムには反応がなかった。

「アルバート、アルバート。いるんでしょ。あなたの言ってたデータ転送は待って。今、やらなくても良いじゃない。もっと安全な方法を考えましょう。昨日だって、手術は無事終えさせることができたじゃない」

 しかし、圭子の声に応じる声も、反応も何も無かった。圭子は一階まで降りた。古いマンションのため、夜になるとロボットはもちろん、管理人もいない。しかし、連絡先は書いてあった。圭子は、すぐにその連絡先を読み上げる。スマートフォンからは、呼び出し音が聞える。

「はい、マンション管理人の高橋です」

 録音された声だった。圭子は、留守録音になったときすぐに大声で話した。

「こちら細田高度治療センターの医師、圭子と言います。第一マンション八階に住むアルバート・伊東の同僚です。……ああ、もうーじれったい」

 と叫んだとき、電話の反応が変わった。

「もしもし、高橋ですが何かご用件がおありでしょうか? もう遅いのでできれば明日にして頂きたいのですが……」

「もしもし、それが急用なんです。私の同僚が部屋で倒れているかもしれないんです。なんとか部屋を開けて頂けませんか?」

「え、これからですか。もう夜の九時ですよ、勘弁してくださいよ。パジャマに着替えちゃたんだから。倒れているかもしれないって、留守だったらどうするんですか?」

「良いから、お願いだから早くきてください! 家にいることは間違いないんです」

 圭子のあまりの気迫に押され、管理人は渋々了解した。自転車で五分後に着くという言葉に、圭子は部屋の前で待っていると応えた。

 圭子は再びエレベーターに乗り、アルバートの部屋の前に行った。アルバートの部屋のドアに耳を当てても物音一つしない。再びチャイムを鳴らしても反応はなかった。

それから、十分が過ぎ管理人が鍵の束をジャラジャラさせながらやって来た。管理人は、圭子よりもかなり身長が低い。しかし、見事に突き出た腹の脂肪をみると、一〇〇キロぐらいの体重はありそうだった。それに、パジャマと言っていたが、実際には白い下着のTシャツ姿だった。シャツには、食べ物と思われる黄色いシミの跡があった。年齢は、六〇歳を越えているだろう。

「電話では急がせてしまってごめんなさい。遅い時間だってことは、解っているんですけど命が掛かっているんです」

「いえ、いいんですけどね。管理人ですし、これが仕事なんですから。でも何があったんですか? いつもなら寝てる時間なんですよ」

 圭子は、アルコール臭のある息にうんざりしながら、何度も頭を下げた。管理人は、ふてくされながら圭子にブツブツ言っている。

「本当に申し訳ないんですけど、とにかく早く開けてください。命が掛かっているんだから分かるでしょう」

 圭子は、失礼かもと思いつつもキツイ言葉で叫んだ。また、そう言わせるぐらい管理人の男は動作が緩慢だった。

「はいはいはい」

 しかし、鍵はなんの管理もされていないのかどの鍵がアルバートの部屋の鍵なのか分からないようだった。鍵を一つ一つドアの鍵穴に差し込んで廻している。

「どれが、この部屋の鍵なのか分からないわけ?」

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