第32話 モニターの向こうで
アルバートはロボットでありながら、アップデートではなく自分自身によって成長する可能性を秘め始めるのだ。
「だが……非常に危険だ。人間の持つ思考回路は、すさまじく複雑で、恐ろしい量のデータになるし、非論理的な矛盾点をどれくらい持っているのか想像もできない。通信が失敗しなくとも、彼が耐えきれないかもしれない」
「大丈夫よ、私にとっては息子がこのまま矛盾で壊れていく方が辛いわ」
「……矛盾で壊れる、か」
深いため息をついて、ジンはマユミを抱きしめた。
「すまない、マユミ。もちろん私は、息子が壊れることも恐ろしい。だがその結果……君を失うことも恐ろしいんだ。これまで過去に失敗した実験は君も覚えているだろ」
ジンは人間の思考回路をロボットへアップデートする実験に参加したこともあった。
「元になる人間は、すべて死刑囚だった。アップデートに耐えきれなかったロボットは、自らの頭部をむしり取ることで自壊。アップデートの元となった人間は、脳をデータ化する過程で死亡している。そんな結果は思い出すも恐ろしく、凄惨なものだったと言わざるを得ない」
現にマユミの体調は、最悪と言ってもいい状態だ。正常な人間ですら死亡するような実験なのだ、マユミが助かる可能性は途轍もなく低い。
「ねえ、ジン。今朝のこと、私の中で何が起こっているのかわからないあなたではないでしょう? ……お願い、最後にあの子に、母親らしいことをさせて」
ジンは、小さくため息をついた。
母親らしいこと、それはつまり、身をもって混乱する彼を導くことに他ならない。なら、ジンは、その前に立ちはだかることはできなかった。妻であるマユミを生き残らせるということは、アルバートから母を奪い、妻から息子を奪うことに他ならないのだ。
「……分かった、マユミ」
彼女の痩せた体を強く抱きしめ、ジンは囁いた。
「愛している。最初から、これまでも、ずっとずっと、君を愛している。もちろん、アルバートも」
「ありがとう、ジン。私も愛しているわ……」
抱きしめあった二人は、そのまま数秒間動かなかった。二人が離れたとき、その表情は決意を秘めて輝いていたのだった。
「聞こえるかい?」
思考を続けていたアルバートが、ジンの声に意識を急速に集中させるのが分かる。モニターに散らばっていた図式が、一瞬で停止した。
『聞こえています。プロフェッサー・ジン』
「アルバート。ぼくたちは君のことを本当の息子のことのように思っている。だが、だからこそ聞き入れてほしい。これは君の母から託された望みだ」
ジンは、マユミの身に危険が及ぶことだけを話さず、アルバートにこれから行うことを説明することに決めた。マユミもそう思っている。
『望み……』
モニターに、圭子の映像が映し出される。映像の中で彼女は、アルバートからの質問に答えている。それは、あの亡くなった少年についての質問だった。
『彼を助けようとした理由? そんなの、あの子を助けるのが私の責任で、あの子のお婆さんが願ったからよ。それだけ』
微笑む彼女の表情が、何度もモニターに映っては消えていく。アルバートが願いや望みというものを、重く捉えた出来事だったのだろう。
ジンはそれを見つめながら、アルバートに語り掛けた。
「今から君に今までの比にならないほど膨大でかつ矛盾する情報データを送信して君の思考回路をアップデートする。情報データは、マユミの思考データそのものだ。再起動が不可能になる危険もあるが、君を医師でい続けさせたいと思ってしまった……それは」
『お父さん、聞いてください』
アルバートの声に、ジンは絶句する。
まさか彼が自分を、父と呼ぶとは思わなかったのだ。
『私は日本に来て、ある女医に教えられました。人を救うこと、痛みを知ること。私は叶うならどうか医師としてここで人々を一人でも多く救いたい……他でもない、あなたたちがくれたこの体で。そのことにこそ、意味があると思うのです』
「アルバート……」
ジンが鼻をすすった。涙がこぼれて、止めることができない。それはマユミも、同じだった。
『お父さん、お母さん。ありがとう』
「いや、こちらこそ、ありがとう……アルバート」
モニターから、ジンは背後のマユミへ視線を移す。椅子に腰かけるマユミは、かすかに微笑んでいた。朝の喀血以降、彼女の容体は急速に悪化していた。
息子のためと気を張り続けていたのが、ここにきて遂に途切れたのだろう。アルバートを生かすための最後の手段を想いながら、限界まで力を振り絞っていることが、ジンには痛いほど伝わってきた。
せき込み、マユミは顔を上げる。ジンは優しく、その髪を撫でて話しかけた。
「始めるよ、マユミ」
「ええ、お願い」
ヘルメットのような機械を、ジンはマユミの頭へ被せる。ゴーグルのような装置で目元が覆われ、手元の静脈から鎮静剤が投下されていく。
最後の葛藤を振り切るように、ジンはキーボードのエンターキーを押す。瞬間、ばぢん、と放電が起きた。強烈な情報の圧力にモニターの数値が跳ね上がり、マユミが一瞬だけ苦し気な吐息を漏らす。
しかし、ほのかに彼女は笑みを浮かべる。
「アルバート。ジン。愛しているわ、あなたたちを、どこまでも、誰よりも!」
一息で言い切り、その呼吸を補うように息を吸い込んだ彼女は、そのまま力を失う。手がゆっくりとほどけ、長い長い吐息があって、その脳波が停止していく。首がヘルメットの自重に任せてもたれていき、やがて完全に停止した。
アルバートにもマユミの死亡データは、その瞬間に通達されていた。いつも病院のネットワークで見るデータとは、何十倍も意味合いが違っているようで、アルバートがぐるぐると思考を巡らせる。
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