第31話 マユミの吐血

アメリカの日曜日の早朝、マユミは吐血した。

 キッチンにいたジンが駆け付けたときには、すでに寝間着を血で濡らしながら彼女はうずくまっていたのだ。ジンが深くため息をつきながら、告げる。

「マユミ、ああ、もう一度治療を受けるべきだ」

「だめよ、ジン。それは、だめ」

 深刻そうな顔をするマユミに、ジンは辛そうに俯く。マユミが治療も休息も、どちらも頑なに拒否する理由は、アルバートの中に見つかった致命的なバグにあった。

「アルバートのバグは、遠隔操作ではまず修正不可能……でもその代わりに彼は今、A・Iの最後の壁を超えるような発展を見せているわ」

「ああ、その通りだ」

「だけど、そのバグがあるからこそ彼は……これまでにはあり得なかった、医療ミスをする可能性がある。体が動かなくなる可能性もある」

 口を一度水ですすぎ、マユミは鏡を見つめた。ジンと彼女の視線が、鏡の中で交わる。

「そのことを知れば、軍の依頼者たちは必ず……彼を解体処分にする。ねえジン、お願い。今ここで私が足を止めたらそれは……」

 マユミは喉元を抑え、喘ぐような声で激しく囁いた。

「あの子の死を、見逃すようなことなの……」

 それは、ジンも理解していた。アルバートの開発を依頼してきた国防総省の秘密プロジェクトメンバーは、その全貌をA・I研究の権威であるジンにも知らせていなかった。それどころか二人は、この研究施設から外出することさえままならないのだ。そういう条件であるからこそ、今の段階ではまだ許されないレベルの研究を、潤沢な資金を得て行えているという現実があった。

『ドクター・マユミ、プロフェッサー・ジン。聞えますか?』

 と、静まり返っていた部屋に、アルバートの声が響いてきた。いつの間にか、アルバートが回線を繋いでいたらしい。時間帯からして、今日の検査について確認しようとしたのだろう。

 会話を聞かれたのではないか。マユミとジンに、緊張が走る。

『ドクター・マユミ。私はアンドロイドであり、データと技術さえ残れば破棄されようと問題はありません。しかしあなたのそれは、今すぐ病院で適切な治療を受けるべき問題です。……日本で出会った、ある医師より、教えてもらいました。これは私の責任です、医師の責任としてあなたに申し上げます。あなたは治療を受けるべきです、ドクター・マユミ』

 思いがけない言葉に、二人は返事が出来なかった。なおも、アルバートは言葉を重ねる。

『私は自らの原則に基づき、人を救うべく行動を重ねてきました。しかし人を救うことは、私の持つ原則だけでは計り知れないほどの行為であることを学びました。ですがそうであっても、私は医師です。医師は救う側ですが、患者は救われる側にいてよいのです、ドクター・マユミ。あなたは今、患者です。病を患う者です。一刻も早い治療を、どうか』

 アルバートの言葉を最後まで聞き、マユミはかすかに微笑んだ。ジンの手を借りて彼女は立ち上がると、ゆっくりとアルバートと通信するためのモニターの前に座る。かすかな椅子の軋みをマイクで拾ったのか、アルバートが困惑するような声を上げた。

『申し訳ありません。感情論的思考を申し上げたことは、なによりの私のバグの証拠です。本来ならあなたがたが設定した原則に、反したものと言わざるを得ないのです。助けられる命を重視する……その原則に今、私は反しています』

 重ねられる言葉に、ジンは立ち尽くす。マユミはそれを愛し気に聞くだけだが、A・Iの専門家である彼は、壮絶な驚きとかすかな希望に打ちのめされていた。

(過去、このような思考をしたA・Iがいただろうか。医療ミスをさせないために、葛藤することを排除しつくした設計にしてなお、このように葛藤を生み出せる存在が……あっただろうか)

 マユミから反応がないことに、一層の混乱が起きている。そのことは、モニターに映るあらゆるデータから読み取れた。あらゆる情報を検索し、それでも答えが見つからず、それらをこれまでの彼が見聞きした実際の人間のデータから、答えを出そうとしているのだ。

(学習している……子供のように! 人間の、子供のように!)

 ジンは震えた。

「変わったのね……アルバート」

 優しく語り掛けるマユミに、アルバートからとめどない言葉が返答される。

『変わりました、変わっているのです。変化せざるを得ないのです。私は、私は、混乱しています。私は、分からないのです。あなたをいま、救いたいと希望しています。ですがこれは、あきらかに人間で言うと感情です。感情から発せられた言語が、私のデータ領域に広くアウトプットしてきます。……ドクター・マユミ、判断を求めます』

 硬い言葉で彩られた、支離滅裂な発言だった。

 しかしマユミとジンには違って聞こえていた。お願い教えて、と、言われているような気がしたのだ。マユミは尋ねる。

「質問はどんなこと? アルバート」

『私であれば、あのときの少年は救えましたか?』

 怒涛のように映し出される情報を、マユミとジンは見つめる。それはカルテの一部であり、少年の顔であり、実際にアルバートが見た映像であり、さらに新聞の一面であった。それらを見終えて、マユミはゆっくりと答える。

「分からないわ、アルバート。なぜなら彼はもう、この世にいないから。救うことも、殺すことも、もはやあなたの手でさえできないから」

『分からない……。分からないということが、あなたの判断ですか? ドクター・マユミ』

「そうよ、アルバート」

 そこで、アルバートからの音声での通信が途絶えた。送られてくるのは、いくつものメモのようなデータだ。おそらく彼の中に記録されながら、一度も取り上げられなかったデータなのだろう。それらを処理することさえ忘れ、彼は思考を続けている。

「混乱、しているな」

「ええ。でも、0と一の判断による混乱じゃない」

「そうだな……」

 祈りの間のような厳かな一瞬があって、マユミは一度、アルバートへの音声通信を切断する。その後ジンの方を、静かに見つめた。

「私の思考、判断基準……やはり送りましょう、今すぐ。第一、私が死んでしまったらそれもできないのよ。もう早い方が良いわ」

 ジンが複雑そうな表情を浮かべ、考え込む。

 マユミが言うことを、彼は正しく理解していた。マユミの持つ医師としての経験、行動原理などを、完璧にアルバートが所有したとしよう。すると彼は、今起きている混乱をそれらにあてはめ、処理ではなく解決の為に自らの考えを働かせることができるかもしれない。人間の意識やすべての記憶をインターネット上にコピーして体を持たない人間を作るという研究もある。

 成功すれば混乱によるバグは消え、矛盾を抱えながらも学び、進んでいくというまさに、人間の思考ができるのかもしれない。A・Iにとってプログラムでは得難い資質を抱えたまま、さらに成長できるだろう。成長の暁には、国防総省が求める以上の存在になるかもしれない。

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