第19話 手術開始

 圭子は、アルバートの後を追った。おそらく手術前に入院患者の巡回検診をするはずだ。アルバートの担当をスマートフォンで調べながら、エスカレーターに乗った。おそらく、四階の病室を回るはずだ。

 圭子は、アルバートを直ぐに見つけることができた。細田高度治療センターでは、すべての患者が個室を使っている。集合タイプの部屋はない。圭子がアルバートを見つけたのは、アルバートが担当する患者の部屋がある区域の最も手前、エスカレーター側の部屋前だった。

「アルバート先生、一緒に回らせてください。私の巡回はその後でも間に合いますから」

「承知しました。圭子先生が一緒なのは心強いですね!」

 圭子は、この言葉にも違和感を覚えた。昨日までのアルバートと何か違う。こんなお愛想を言う男ではないはずだ。

「お世辞を言うのはアルバート先生らしくないですよ」

「お世辞ではありません。圭子先生は優秀なドクターです」

 何時もなら、ひと言やり返すところだが、今日はやり返す気にもならなかった。皮肉で言っているようには見えなかったからだ。

 それから、1時間半ほどで20名の患者を診た。最後の患者は三浦真理子という七十五歳の女性だった。昨日の回診のとき、彼女は一晩中汗が出て、眠れなかったと訴えていた。それはアルバートが直接聞いていた。さらに彼女は、今朝も同じように眠ることができなかったと言う。アルバートと圭子は、各バイタルサインをチェックした。脈拍は早い感じだが、血圧はまったく正常で発熱も無かった。

「この女性は、怪我で入院したんでしょう?」

 圭子はカルテを見ながら小声で訊いた。

「そうです、その通りです。ただし怪我の方は手術で足にインプラントを入れました。4日前のことです。あとはリハビリテーションの予定だったのですが、ご覧のとおりです」

「先生、でも咳が止まらないし、寝汗がひどいんです。これじゃリハビリなんてできません、なんて言っていいのか胸も苦しいっていうか、どう言って良いのか分からないんですけど変なんです、こんなの初めてです」

 圭子は、背中を触診したり、喉を診たりしながら首を傾げた。

「なんか変、何かおかしいわ? そう思わない、アルバート先生」

「ですが、どの数値を診ても問題がないのです。やたらと薬を飲ませる訳にはいきません」

「でも、こんなに汗がでて眠ることができないのは普通じゃないわよ!」

 圭子は、ナースセンターへ電話をかけ、この患者を1時間毎にチェックするように命じた。、何かあったらすぐに自分かアルバート先生に連絡するようにとも付け加えた。

 患者には「心配ないと思いますが、念のため看護師さんがちょくちょく来ます。苦しかったり、何か具合が急変したら直ぐに来ますからね! 大丈夫ですよ、心配しないで」と伝えた。

「私もすぐに駆けつけます、安心してください」

 アルバートの意外な言葉に圭子は妙な優しさを感じながら、二人はその場を去った。圭子は時計を見た。11時だった。昼食を抜けば、自分の患者を診てからでも手術までに十分間に合う。あとは、13時からの手術を無事終わらせるだけだ。


 食堂では、柴崎が圭子を待っていた。何度も時計を見ている。手術の開始時間が13時なのは柴崎も知っている。また、圭子は、必ず最も入り口から遠い隅の席に座ることも知っている。しかし、圭子はこなかった。しかたがないので、柴崎は圭子にメールを送った。間もなく、メールが返ってきたが、「時間がないから今日のお昼はダイエット」とあった。昼食抜きで手術に入るようだ。

「仕方がない、あとでゆっくり話そう、慌ててもどうにもならない。午後も忙しそうだし!」

 柴崎も圭子も、病院という人の命を預かる職場で働いている。いざとなるとやはり優先すべきことを優先するように習慣付いていた。頭の中のモヤモヤだったアルバートの正体は一時的に忘れることにした。


 12時42分、圭子が手術室に入ったとき、七名ほどの看護師たちが手術室に入っていた。細かな準備作業をしている者もいたが、ほとんどの準備はもう終わっていた。手術室の時計が12時44分を過ぎたとき、彼女たちは、部屋のドアの前に並んで時計を見だした。圭子は何が始まるのかと尋ねた。

「A・I先生が何秒の誤差で部屋に入るのか見ているんです。今まで最大で二十秒のズレでした」

 圭子は、看護師たちがアルバートの習性を楽しんでいるのかと思って顔がほころんだ。だが、そのあまりの正確さを聞いたとき、一瞬、頭の隅に追いやった「アンドロイド」と言う言葉が、また意識の中に浮かんだ。

 時計が59秒になったときドアが開きアルバートが入ってきた。看護師たちは笑っているだけだ。アルバートは、全員の顔を見ながら、どうしたのか? といった顔で口を開いた。

「時間通りですね。まもなく村松さんが、患者さんをストレッチャーで連れてくるでしょう。準備は良いですね?」

 数分後、ガラガラとストレッチャーの音が聞こえた。

「先生、患者さんいらっしゃいました」

「了解です、皆さんもよろしくお願いいたします」

 名医と触れ込みのあるアルバートの手術に、患者は信頼を置いているのだろう。静かに横になったまま、部屋の中に入ってくる。アルバートは、すでに患者の名前、性別など、もろもろの基本情報は院内ネットワークからアクセスしてダウンロード済みである。アルバート自身もデータと本人を確認した。

「本日手術を担当するアルバート・伊東です。あなたの病気は私が必ず治します。安心してください、足立さん」

「アルバート先生、どうかよろしくお願いいたします」

 麻酔が開始され、室内が動き出す。アルバートは周囲を見渡した。今日は、何時もと違うメンバーの圭子もいる。

 次第に眠りの淵へ落ちていく患者を見つめながら、アルバートは今までにない感覚を覚えていた。データ的なものではない、いや、データ的なものにしか過ぎないのだが、そうではない感覚がそこにある。

 それがなんなのか、アルバートにも分からなかった。

「先生」

「はい、始めましょう」

 静かに頷き、アルバートは手を差し出した。

「メス」

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