第18話 アルバートの変化
翌朝、日本時間8月22日、8時12分。アルバートは、金曜日の交通量予測から、普段とは違うルートを通った。しかし異なるルートにも関わらず、時間通りに病院の職員玄関を通っていた。いつもより早く出勤した柴崎が後方から歩いてきて、アルバートに気が付く。
「やあ、A・I先生。おはようございます」
「おはようございます、柴崎さん」
いつものアルバートなら、それだけで会話が終わっただろう。だが今朝は違っていた。なぜかアルバートは、昨夜の雷のことをデータから拾い出した。落雷回数は記録されているデータによると四十回だが、人間的に言えば「すごい回数」というものにあたるだろう。
そこまでを瞬時に計算して、アルバートは付け加えた。
「昨日は、雷がすごかったですね」
「ああ、先生の家のあたりもそうでしたか? 私の家も娘が怖がっちゃって……」
「私のマンションでは停電があったので驚きました。日本でも、このような天気があるのですね」
「そうか、アメリカだとハリケーンとか竜巻も被害がすごいですもんね」
「竜巻は報道で伝えられるほど酷くはありません。場所や地域も限定されています。自然災害の回数や頻度で言うなら、日本の方が大変です」
「へぇー! そうなんですか? アメリカなんて行ったことがないから映画で見るくらいしか知りませんでした」
柴崎は会話を続けながらも、どこか不思議そうな様子だった。その表情が気になり、アルバートは尋ねる。
「私の顔に、何かついていますか?」
「いや、何でもないですよ。それじゃ、失礼します……アルバート先生」
しばらくぶりに呼ばれた名前に、アルバートはぱちくりと目を瞬かせる。そう言えば、A・I先生という名前が普通になっていた。アルバート先生と呼ばれたのは、日本に来たときだけだった。この一月以内では一回も呼ばれたデータがない。しかし、データベースの検索でも、名前の呼び方が変わるのは良い兆しの一つという意見が多かった。
一方、柴崎はアルバートの態度があまりに変化していたため、一昨日、深夜まで掛かってしらべた新聞記事の話を持ち出すことができなかった。あの記事は本当なのか? 本当だとすればアルバート・マッカーシーは死んでいる。もし、そうなら今、この病院の医師として働いている彼は何者なのか? やはり、自分の推測通りアンドロイドなのか? 柴崎は、それを問い質すつもりが言い出せずに終わった。
「仕方がない、また昼休みに圭子先生と話をしよう」そう考えた。午前中は柴崎にも検査依頼が多数入っていたのだ。
アルバートは自身のデスクにつき、今日の手術予定などをパソコンの画面上に表示させる。ただし、これは一種のカモフラージュ行為だった。外見だけ見れば、今日の予定を確認しているように見える。しかし、実際のアルバートは、病院内のサーバーに直接アクセスすることが可能であり、パソコンの画面を見る必要はない。アルバートはこの瞬間にも、増え続ける病院内のあらゆるデータを分析し必要なデータは取り込んでいる。
今朝の予定は13時から開始される食道癌手術のミーティングだ。圭子も出席することになっている。進行度と範囲から内視鏡では取り除き切れない状態と判断され、開腹が必要な手術だった。患者は六十八歳の男性だ。だが食道癌切除の範囲としては狭いほうであり、難易度も高いとはいえない。手術は二時間もあれば終わると予測できた。アルバートはスタッフとのミーティングへと向かった。
途中、看護師の佐藤麻衣が鼻歌を歌いながら廊下の掃除をしている。
「あっ、A・I先生おはようございます」
「おはようございます、佐藤さん、ご機嫌ですね!」
佐藤は、アルバートの挨拶に驚いた。
「A・I先生こそ、なんか晴れ晴れとしてますよ」
「どうして……? その……廊下の掃除をしてるのですか?」
「いやぁ~、ここ汚れが気になったんでちょっと拭いただけですよ。私、目に付くところのよごれが気になるんです」
「へえ、そうなんですか。それにしても、古い曲を歌っていましたね」
「えー! A・I先生この歌ご存知なんですか? 私や先生が生まれる前に流行った歌ですよ」
「そうですね、1979年、当時西ドイツの音楽グループだったジンギスカンと言うグループが歌って世界的に流行った曲です」
「良く知っていますね。なんか、この曲、乗りが良くて仕事がはかどるんですよ! だから、忙しいときによく歌うんです」
「そうですか、でも楽しく仕事ができるのは良いことです」
「先生も、手術のときにこの歌を歌えば楽しい手術になるかもしれませんよ」
「マスクを付けますから歌は難しいと思います。でも今度考えておきます」
佐藤も、違和感と親しみの両方を覚えているような顔をしたアルバートがミーティングルームへ向かう姿を見送りながら、佐藤は「ジンギスカン」という六十年前の歌を口ずさんでいた。
ミーティングルームでは、数名の看護師達がアルバートを待っていた。廊下も、ミーティングルームも大きなガラス張りのため、かなり遠くからでもアルバートの姿は見えていた。アルバートが近づくにつれて看護師たちが会話をしているのが聞こえてくる。ガラス窓越しであろうと、アルバートの耳には関係がなかった。
「今日は、A・I先生の手術だから、すぐに終わると思うけど」
「そーね! 先生の手術、すぐに終わるから。でも、こっちも用意周到にしないと、ついていけないから」
アルバートが胸の認証カードを当ててドアを開ける。
「おはようございます」
看護師達もそれに答える、圭子の姿はまだ見えない。
いつも通りの挨拶に考え、アルバートは付け加えた。
「本日はよろしくお願いいたします。台風も雷も被害がなくてよかったですね。私のマンションは築36年と古いせいか、数時間の停電になってしまいました。でも、まあ、真っ暗でしたがお化けは出ませんでしたよ」
看護師たちは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐにパッと明るい様子を見せた。アルバートは物腰こそ丁寧だが、そうした世間じみた話をしたことがこれまでなかったのだ。いつも、最低限の挨拶しかしない。それがアルバートの挨拶だった。だが、今日はいつもと違っていた。
「そうですねぇ、本当良かったです」
「先生、この前の手術の時、手袋のサイズ気にされてませんでした? サイズを変更しましょうか?」
麻酔医の大谷と、圭子が遅れているようだ。アルバートが、看護師達と雑談を始めたため、看護師達はまた顔を見合わせた。この病院へアルバートが来て二ヶ月、看護師達は初めてアルバートの口から雑談を聞いたのだ。それは、昨夜の台風に関する話から、日本では1950年代と2020年代に大型の台風が多かったこと、気候変動を原因として集中豪雨の回数は増えたが、年間の降雨量はあまり変わっていないことなど、たわいのない話だった。しかし、降雨量や回数もすべて数値を挙げながらの話だったため、看護師達はここでもまた感心していた。
「A・I先生、ネットで何かを調べる必要ないですね」
「いえ、私は日本の気象庁のサイトでこれを調べたんですよ」
「どうしてそんなこと、全部覚えているんですか?」
看護師達は、医学知識だけでなく気象情報や降雨被害にまで詳しいアルバートを賞賛していた。心なしかアルバートが照れているように見えてそこが全員の笑いを誘った。
数分後、圭子と大谷が急ぎ足でやってきた。
「ごめんなさい、4分遅刻しました。もう始めてた?」
「いえ、圭子先生がくるまで、A・I先生から面白いお話を伺っていました」
部屋の雰囲気が和んでいる、圭子はそう感じた。
「なんか、いい話でもあったの? 楽しそうね!」
看護師達は、お互いに顔を見合わせながら、アルバートの博識ぶりを話した。しかし、ここでアルバートは雑談を止め、いつもの事務的な話に戻った。
「それでは、主要なメンバーが揃ったので手術前のミーティングを始めます。ミーティングは、細田高度治療センターの癌手術ガイドラインに沿って行います。皆さん、ガイドラインとチェックリストを確認してください」
圭子がアルバートの手術前ミーティングに出るのは初めてだった。それが、あまりに教科書通りなので驚いた。ここに集まっているメンバーは皆、ベテランのスタッフだ。入って二~三年のものはいない。まるで、新人を相手にするようなミーティングである。いつもこうなのだろうか?
「アルバート先生、失礼かもしれないですがそんなに初歩的なところからやらなくてもいいんじゃないですか? 村松さんも、福田さんも、松原さんも皆さん二十年以上のベテランですよ」
「あっ、圭子先生。A・I先生はいつもこうなんですよ、大谷先生はご存知ですよね?」
突然話を振られた大谷更生という男は、これもベテランの麻酔医だった。
「ええ、まあ、いつもそうですね、アルバート先生は」
大谷は、笑顔で答えた。
圭子は、意外だった。しかし皆がそれで納得しているならそれで良いと思った。
「すみません、出過ぎたことを言いました。アルバート先生続けてください」
アルバートは、特に気にすることもなく、患者の経緯や今日の手術のポイントなどを説明した。患者は、68歳の男性で胸部中部食道癌に罹患していること。食道癌の手術は、十年程前なら難しい手術だったが、この時代難しい手術ではないという言葉でチームのメンバーを安心させた。
「今回は、T2と言う固有筋層までの進行で見つかった癌です。これまでの検査では転位は見つかっていません。患者は、バイタルサインも良好で精神的にも手術に向けて落ち着いています」
アルバートは、これまでに行った検査をホワイトボードに書いた。
① 超音波検査(腹部および頸部)
② CT、MRI 検査
③ 超音波内視鏡
④ FDG-PET 検査
⑤ 骨シンチグラフィー
「どの検査でも、転移は認められません。ですが、食道癌は重複癌の割合が約二十%と高く、同時発生することも多い癌です。安易な見方は禁物ですが今回の場合、癌の部位を切除することで治療できると考えます。術後の治療は今のところ、免疫療法を中心に様子を見ます。化学治療は行いません。放射線は短い期間だけ使うかもしれません。それで十分治ると思います」
免疫療法は、2025年ころから広まった癌の治療方法だった。本人の免疫細胞を体外で急速培養し量を増やして本人の体に戻すといった治療方法だった。元々本人の免疫細胞であるため最も副作用が少ないと言われていた。
また、アルバートは手術時間のことも話した。これは圭子も知っていたが、誤差は一分以内に収まる正確さと病院内でも噂だった。アルバートの告げた時間は一時間二十分くらいということだった。圭子は自分なら2、3時間以上は掛かるだろうと思いながら話を聴いた。
加えて、アルバートは最後の方で十分近くを使って、医療事故の説明をした。やがて、最後にこう付け加えた。
「どんなベテラン医師であっても、判断ミスはあり得ます。勘違いもあります。もし、手術中の私の処置に間違いかもしれないと気づくことがあったら直ぐに遠慮無く伝えてください。」
アルバートは、回りを見回しながら微笑んでいる。
「これは有名な例ですが、2021年、単なる副鼻腔炎の手術で経験豊かな3名もの医師が、37歳の女性を初歩的なミスで死亡させてしまいました」
「先生、それは日本の病院の話ですか?」
看護師の1人がアルバートに質問する。
「いえ、これは米国の例です。この事故では、途中で異変に気がついたベテラン看護師が、気官切開のキットを用意し、医師たちにそれを告げたにもかかわらず、医師は自分たちの施術に拘りなんとか気道を確保しようとしてしまいました。さっさと気官切開をすれば良かったのに自分たちの判断に拘り過ぎて、患者を脳死状態にしてしまったのです。当時、新聞にも大きく報道されました。あれから米国では、医師であろうとも看護師の指摘に耳を貸さず、それが事故に繋がった場合、重い刑罰に処せられることになりました。日本ではそんな法律はありませんが、このことは忘れないでください、松原さん、今日の手術で最も注意すべき点はなんですか?」
ベテラン看護師の松原は、待ってましたと言うようにすぐに返した。
「感染症です」
アルバートは、軽く頷いた。
「その通りです。説明の通り患者の容体は安定しています、発熱などもありません。こんなとき最も注意しなければならないことは感染症です。また、それを伝播するのはわれわれです」
アルバートは、ミーティングを締めくくった。圭子は、初めて聞く話だったが、いつもアルバートと一緒に手術を行っているメンバーはこの話を何度も聞いているようだった。
「それでは、12時45分には手術室に集まってください、患者さんを運ぶのは、村松さんですね、名前を確認することを忘れないでください」
ミーティングが終わり、アルバートは軽く一礼して部屋から出ていった。圭子が驚くほど、基本的なミーティングだった。圭子は、一人の看護師を捕まえて、尋ねた。
「福田さん、いつもこんな感じなの?」
「ええ、A・I先生はいつもあんな感じですよ、最後のお話は今回初めてですけど、重要なポイントを必ず質問するんです。まあ、ただいつもは、もっと機械的にお話しされていましたけど、今日は違いましたね! なんか明るいというか、別に普段暗いというんじゃないんですけど?」
圭子も大谷も部屋からでるとき、もう一度集合時間を言い合った。
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