第16話 停電

 あくる日の朝は、ひどい天気だった。

 夜半過ぎから、嵐という言葉を連想させる荒れ模様で、それは細田高度治療センター周辺も例外ではない。明け方からは、地域全体が断続的に停電になり、現在も電力の不足で使用量が制限されていた。病院では自家発電装置は稼働したが、それは命に関係する医療機器の電源や照明に使われる。真っ先に停止するのはエレベーターやエスカレーターだった。人の移動は、階段を昇降するしかなかった。

「夜勤中に全停電でしょ? もう大変だったわよねぇ」

「でも、緊急手術は一件しかなかったし、患者さんには影響がなかったわ」

「そうそう。本当、でもこの病院は設備にお金を掛けているから大丈夫なのよ! 外国の患者さんなんて、真っ暗になるだけで発作を起こす人もいるから停電は怖いわ」

 そんな会話をしながら、夜勤終わりの看護師が傘をさして帰っていく。雨の吹き込みがないように微妙に傘の角度を調整しつつ歩くアルバートは、彼女らの言葉を聞くより早く病院のネットワークにアクセスを開始していた。アルバートは、病院内の無線ネットワークに直接アクセスできる。

 確かに看護師の言葉通り、エレベーターまで止まってしまったので薬剤配達や食事の配膳などに支障はでるかもしれない。しかし、それも人海戦術で乗り越えられる程度だろう。

「おはようございます」

 アルバートは、医局の看護師に挨拶をした。

「おはようございます、A・I先生」

 嵐の静まりと共に、病棟は落ち着きを取り戻していった。昼前には、停電も復旧していた。くわえて今日は珍しく、アルバートの手術は午前の一件だけだった。胃がんの手術だったが、いつものように簡単に終えることができた。他は、患者の経過診察といった日常的な業務から、勉強会向けの書類作成などがあった。普段はこなしにくいものに時間を当てるべきと判断し、アルバートは回診のために院内ネットワークへアクセスを開始した。柴崎が病欠していることを勤怠管理ソフトで知った。また、彼のパソコンからiPS細胞への論文が大量に検索されていることも知った。しかし、今のアルバートにとって、重要ではないと判断された。

 嵐の前の静けさなのか、何もない一日。そう表現してもいいような、静かな日であった。テレビの天気予報では、今夜も再び大荒れ予想をしきりに伝えていた。昨夜の嵐よりももっと激しいと伝えている。細田高度治療センターでは、いつもより当直の医師達を増やし、万一に備えた。だが、それ以外の医師や看護師達には、午前中から『今日は普段より一時間早く帰宅するように』という指示が出された。

 事務所に入ると圭子の姿が見えた。なぜかアルバートを観察するようにじっと見ている。圭子は、アルバートに話しかけた。

「アルバート先生、明日の手術はお手伝いさせてください、勉強したいんです」

 圭子の顔には、僅かながら苦悶の色が浮かんでいた。圭子は、小学生のときに、先生に当てられて答えることができなかったことまで思い出した。先生の質問に答えられなかったことは、人生であの一回しかなかった。

事務所に他のメンバーがいたら圭子の言葉にさぞ驚いたことだろう。圭子がアルバートにライバル心むき出しなのは誰もが知っている。その圭子が表情を変えてまで、アルバートに勉強させてくれと言ったのだ。しかし、アルバートは、特に気にかけた様子もなく答えた。

「分かりました、手術は13時からの予定です。食道癌の手術ですが詳しくは明日の朝ミーティングで説明します。時間があればカルテを見ておいてください。進行具合はT2で、六十八歳の男性です」

「術後死亡率は2~5%の手術、あなたなら簡単な手術でしょう?」

 圭子は、皮肉っぽい口調で告げたが、アルバートは気にすることもなく真剣な口調で返す。

「手術に簡単なものはありません、私はこれまで簡単な手術というものを経験したことはありません。圭子先生はあるのですか?」

 圭子は瞬間的にカチンと来た。そんなことは分かっている。

「あのね、それは、言葉の綾でしょう? どうしてわからないの?」

 圭子に言われて、アルバートは反省するような表情になった。

「日本語は難しいので良く分かりません。いつも圭子先生を怒らせてしまって、申し訳ありません」

 圭子は、気が抜けた。なぜか急に可笑しく思った。また、「申し訳ありません」と頭を下げるアルバートに言い過ぎたと思った。

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