第15話 米国の研究所
米国の研究所内では、アルバートに送るための新しい硫黄フリー全固体型電池の実験が行われていた。EVの急速な普及を助けたのは硫化物を使った全固体型電池だ。しかし、今度の固体電池は発火と別の安全性に関する問題を抱えていた。それまでの液体電解質リチウムイオン電池と異なり、中の電解質が燃えるという事故は無くなった。だが、中の硫化物は水蒸気を含んだ空気に触れると硫化水素を発生してしまうという弱点があった。その後、硫化物を含まない全固体型電池が開発されたが今度は、寿命と電気容量に問題があった。
問題があることは初めから分かっていたのだ。まだ開発中のときに、ジンとマユミはバッテリーとアンドロイドの体型についてこんな議論を交わしていた。
「ジン、お願い。アンドロイドの体型は痩身にして。私は、昔の映画のターミネーターみたいなアンドロイドは嫌なの」
「マユミ、そう言ってなんだかんだとアルバートの体型にさせたいんだろ。でもね、それじゃバッテリーが保たないんだ。何とか初期状態で二十時間以上は稼働できるようにしたいんだ。こんな痩せた体じゃ、バッテリーを大きくできない」
ジンはマユミの描いたアンドロイドのイラストを見ながら指で弾いた。
「でも、スーパードクターのアンドロイドが、メタボじゃお笑いよ。そう思うでしょう。お腹がポッコリ膨らんだスーパードクターなんてコメディだわ。マッチョも同じ絶対にダメ! 第一あなただって痩せてるじゃない」
「私の体型は生まれつきだ、胃が弱いから太れない」
「だったら、私たちが開発するアンドロイドだって細身にしましょうよ。大丈夫よ、バッテリーの性能はどんどん良くなるから。あとで取り替えればいいのよ」
マユミは頑として譲らなかった。
「だがね、万一手術中にバッテリー切れなんて起こしたら……」
「大丈夫よ、手術時間を短くすれば良いわ! 確かに、手術中に電池切れになればアンドロイドであることが分かってしまう。それに、手術を失敗して患者の命も奪いかねないわ。でも、私には分かるの。このアンドロイドは、開発者の想像を超えて能力を発揮する。素晴らしい外科医になるのよ。それがターミネーターやメタボの外科医じゃ可笑しいわよ!」
しばしの沈黙のなか、マユミの懇願する目を見ながらジンは優しく言った。
「分かった、君の言うとおりにするよ。その代わり手術の能力は最高レベルに仕上げてくれ」
ジンは、マユミを説得することを諦めながら、マユミの期待に応えたかったのだ。そんなやり取りがあったことも思い出しながら、2人は、バッテリーの性能試験を行っていた。
軍の上層部は、日本のことなど気にすることはないと言ってはいる。しかし、マッカーシー夫妻は、学者としてあるいは医師としてそれをそのまま受け入れることは出来なかった。さらに、アンドロイドだという正体がばれた場合、夫妻が開発したアルバートは、解体されて太平洋に沈められてしまう。二人にとっては、二度も息子を死なせるということだ。母であり、医師であるマユミにはそれが耐えられなかった。
バッテリー試験が一通り終わり、2人は実験室から居間に移った。そこで、マユミは、最近のアルバートとの交信記録を調べながらジンに質問を投げかけた。
「ジン、アルバートの学習機能なんだけど、何となく感情を理解するようになっている気がするんだけど、私の勘違いかしら」
「現在のところ、コンピューターが目的意識や感情を持つことはあり得ない。また、感情を理解することもないだろう、それは私たちのバイアスだよ」
「コンピューターが感情や意志を持つことはできないの?」
「これは最も多い勘違いだが、そもそも人工知能と人間の脳は本質的に異なるものだ。今から二十数年前、2012年ころ世界的な人工知能のブームがあったことは覚えているだろ。あのときは十年後に人の仕事がなくなると大騒ぎだった。あれがまさに行き過ぎた勘違いさ。人工知能は人の脳と同じことができるようになると考えた一部の学者とマスコミが騒いだ結果だ。本当に人工知能を研究していた私などには迷惑な話だった。あのころ騒いでいた学者達が今どうしているのか調べれば面白いかもしれんね!」
「でも、あなたが開発したアルバートは人の代わりとなる医師として十分に働いているわ。外科手術に関しては私などより遙かに上よ!」
「そりゃ技能的・技術的にはそうだろ。アルバートの体には、バイタルサインの測定器が内蔵されて、臓器の内側も見える訳だし、百倍のスコープの目を持っているんだ。それに、どんな名医でも一ミクロンの単位で指先を動かすことはできんよ。だがね、彼には患者の苦しみも痛みも理解できない。……、患者が苦しいと言うことは知っている。だから治療を行う。とは言え、それを知ることと理解することはまったく異なる。私はそれを何とかしたかった。結局は……、上手く行かなかったがね」
ジンは、言葉と言葉の間を空けながら話した。
「あなたは、十分上手くやったわよ。アルバートは患者の役にたっているもの。ロボット手術の名医でもアルバートのように患者への負担が少ない、いわゆる低侵襲の手術はできないわ。私はアルバートの初手術に立ち会ったけれど、正確で速い指先の動きを見たときは感動したわ」
「私も同じだ。しかし、君に言うのは釈迦に説法だが、医師は人の『苦しみ』あるいはいつか訪れる『死』というものに向かい合わなければならないはずだ。アルバートにはそれができない。私が分からないのは人がどうしてそれが出来るのかということだ。八十年も昔だが、チューリングは『デジタルコンピューターは製作可能だし、それは人間の脳を近似したもの』だと言ったが、それは間違いだった。むしろ、そのずっと後だが、フランシス・クリックが言った、『脳は汎用コンピューターとは似ても似つかぬものだ』という発言が正しかったわけだ」
「私はただの外科医だけど、脳とコンピューターが似ているとは思えないわ。少なくとも解剖学的にはまったく違う。脳はデジタルコンピューターというより化学物質の塊のような感じかしら」
「まあ、脳外科の医師ならそう言うだろう。ところで、マユミなら、これから話す問題をどう考えるか教えて欲しい」
「私は、あなたと違って難しいことは分からないわよ!」
「イヤ、別に難しい話じゃない」
ジンは、コップの水を飲みながら、ソファに深く座り直した。マユミも反対側のソファで脚を組み直す。
「確か、1996年だったと思う。英国のロジャー・ペンローズが『皇帝の新しい心』という興味深い本を出した。米国はもちろんだが日本でも出版されているはずだ」
「私は読んでないわ。そのころは熱心な医学部生だったころよ。医学のことしか頭に無かったころ」
マユミは、少しバツが悪そうにしかし、笑いながら答えた。
「君は私と違って、真面目な学生だったからね。それは良いんだが、その本でペンローズが主張したことは今もって証明されてはいない。また、明確に否定もされていない。しかし、人工知能の研究にとって重要な考え方がそこに含まれていたのは事実だ。要するに脳の考え方と、コンピューターの考え方の決定的な違いを主張していたのがその本なんだ」
「何が書いてあったのか、分かりやすく教えて」
「君は、人間の脳にできてコンピューターにはできないことを見つけるという課題を与えられたとしたら、先ず何を思い浮かべるかね?」
「そうね? 何となくだけど芸術とか創造性を必要とされる分野だと思うわ」
「うん、それが最も多い答えだろう。私も若いころはそう考えた。まず情緒や感覚が関係するようなことがら、つまり君の言う『芸術』の分野だ。コンピューターがドボルザークの交響曲九番を作るとはなかなか思えないからね」
ジンは、指揮者のように手を動かしながら説明した。マユミはそれを笑いながら見ていた。
「しかし、ペンローズの主張は異なっていた。彼は脳がコンピューターと根本的に異なることの証拠が見いだされるのは、数学基礎論の世界だと言ったんだ。知っているかもしれないが、数学基礎論は、知の世界で最も抽象的で厳密な問題を扱う分野さ」
「……?」
マユミは訳が分からないと言った顔つきでジンを見つめた。
「ジン、医師はね、特に外科医は数学が苦手なの。でもその数学の話がアルバートに関係あるならしっかり聴くわ」
マユミは、高いテンションで話を続けるジンの顔を見ながら、話について行けないことを申し訳ないと言った表情で告げた。
「いやぁ、それは初耳だったね。むろん、アルバートの思考回路に関係のある話さ。まあ、それほど難しい話ではないから掻い摘まんで言うよ。ペンローズの主張は一九三一年に発表されたゲーデルの『数学原論およびそれに類する体系における形式的決定不能命題について』と言う論文が元になっていると言っていい。いわゆるゲーデルの『不完全性定理』だよ。算術の証明の中には、その体系の中で証明も反証もできない命題があると言うことと、ある体系の中で無矛盾であることを証明できない命題もあると言うことなんだ……。飛ばした方がいいかい?」
ジンはマユミの怪訝な顔を見ながら、不安そうに言った。
「できるなら、そう願いたいわ」
「わかったそうしよう。ゲーデルの話は飛ばして、ペンローズに移るよ。ペンローズは、さっき話した『皇帝の新しい心』の中で量子脳理論という考えを提唱している。大雑把な言い方だが、脳内の情報処理には量子力学が深く関わっているというアイデアだ。意識は原子の振る舞いや時空の中に存在しているといった考えなんだ」
「それがアルバートと何の関係があるわけ?」
「アルバートは、人間が作ったCPUの中で同じく人間が作ったプログラムで思考を展開している。量子力学的な確率の世界の話ではなく、一ステップ毎に段階を踏んで、しかし、我々人間より遙かに高速に考えている。決して飛躍したりはしない。人間は、脳内の神経細胞にある微小管で、意識の元となる基本的で単純な意識が生まれる。それが多数集まって、生物の高レベルな意識が生起するというのがペンローズの主張だから、アルバートとは決定的に異なる」
「すると、どうなるの?」
「今の回路と、プログラムで動く限り、アルバートが患者の苦しみや不安を理解することはできない。患者がそう感じていることを知っているだけだ。もちろん、人工的に作られた回路とプログラムだから、進化することもない」
「ジン、でも私のような人間の医師でも本当に患者の苦しみを理解している訳じゃないわ。私はそれで不安になることがよくあったもの」
「だから人間なんだよ。君は立派な医師だ。残念だが、アルバートにはその不安もない。マユミ、私は人工知能の研究を進めるために人の思考や感情という『現象』」
と言いかけて、ジンは首を傾げながら言葉を止めた。しかし、ほんの少し間を空けて言葉を続けた。
「これは『現象』と言って良いと思うのだが…… これを調べ、研究もしてきた。これは、どんな人間でもそうだが、我々は、自分の矛盾に対しとても寛容だ。動物愛護を説いても家の中に入ってきた蟻やゴキブリに殺虫剤を吹きかけて殺すことに罪悪感はない。聖職者が、イエスの愛を説きながら、少年に対しセクシャルハラスメントをこっそりおこなっている。私は、ロボットでもアンドロイドでも人の職業を任せるなら聖職者こそ相応しいと思っていた。何しろ絶対に悪いことはしないからね。しかし、善を思いながら悪を行い、悪を思いながら善を行うのが人間だとすれば、アルバートは絶対に人間ではないのだ。彼はロジックの塊であり、もしそこに人間のような矛盾があればそれは『バグ』だ。」
マユミは頷きながジンの顔をみた。
「『バグ』それも、OSのコア部分にある深刻な『バグ』っていうこと?」
ジンは、大きく首を縦に動かした。
「そうなんだ、また肝心なことはその『バグ』こそ、人間性なのだということだ。アルバートはそのコア部分にバグを持っていない。彼は我々人間のように、その矛盾の中で思考回路を動かすことはできない」
マユミはハッとした表情を見せた。医学の進歩は、歴史上の偉大な医師達が、患者の死と向かい合い、苦しみを理解してそれをでも取り除こうとした行為の繰り返しだ。マユミは、学生時代に、笑気麻酔の研究をして三十三歳の若さで亡くなったホーレス・ウェルズの話を授業で聴いたことを思いだした。歯科医だったホーレス・ウェルズは、抜歯の際に患者が苦しむことに頭を悩めていた。亜酸化窒素(笑気ガス)を使って自分を実験台にして、笑気麻酔の研究を続けた。しかし、研究の半ばで、ガスを吸い続けた副作用により精神が崩壊し、自殺した研究者である。自分を救えなかった人間に他人を救うことができるのか? 当時はそんなことも考えた。
アンドロイドであるアルバートがそうなる心配はないだろうが、手術で患者を救ってくれるのであれば、それ以上を望む必要はない。ジンの話は良く分からなかったが、マユミはアルバートのこれからの活躍を思った。
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