第13話 巡回診療
「それじゃあ、よろしく頼む」
「はい、今日の予定は千葉県の富津市佐貫町で宜しかったでしょうか?」
運転席には誰もいないが、スピーカーの返事は明朗だった。
「その通りだ、予定の変更はない」
「承知しました。およそ、2時間25分で到着します、到着30分前になったら先方へ音声メールを送ります」
バスが動き出すと、細田は診察服に着替えた。バスには細田の他には誰もいない。
細田のバスは都心から2時間掛けて千葉県富津市佐貫町に到着した。
「あっ、先生のバスが見えました」
町の集会場では、現地に住むボランティアのメンバーが数名でベンチを置いたり、机を置いたりと忙しそうに動いていた。バスに向かって手を振る者や、何度もお辞儀を者までいた。大型のバスだが、田舎の集会場の駐車場は広く、バスを駐めるためのスペースは十分だった。
「イヤー、皆さんお久しぶりです。お元気でしたか? 小林さん、お父さんはその後どうです」
小林と呼ばれた中年の女性は、笑顔で頭を何度も下げた。細田は、手伝ってくれている人たちの手を両手で握りながら、言葉を掛けて廻っていた。
細田が大型の自動運転バスで向かった先は、医師のいない町や村だった。国民健康保険制度はすでに過去の制度となり、半数以上の国民はまともな医療を受けられない状態になっていた。日本での医師不足は深刻化していた。理由はハッキリしていた。国の財政緊縮によって医療サービスは維持できなくなっていたのだ。病院は倒産して医師の就職先は激減していた。
そんな中で細田は、金持ちから巻き上げるようにして得た収入のほとんどを投資して、このバスを作り上げた。このバス一台で小さな病院の設備など軽く凌駕する検査や診療ができる。細田の医療バスは、人知れず各地の無医村を渡り歩いていた。
診療バスが来ることは予定日として事前に決まっている。さらに、到着前に自動運転の人工知能は到着時間を知らせる音声メールを発信している。公民館前の駐車場には大勢の老人や子ども連れの母親が集まっていた。
受付は入り口の小型ロボットが人間の代わりとしてテキパキと指示をしていた。受付しか出来ないが、その分愛想がよい。子供とも簡単な会話ができる。
「君は、隆史君だね。この前先生が診察したのは二ヶ月前だったけど、背中の発疹は消えたかな?」
ロボットが、話しかけた子供は母親に抱かれていた。
「見えないから分らない」
子供がそう答えると、母親が代わりに話す。
「お陰で、かゆみもなくなって、発疹もほとんど無くなりました。本当にありがとうございます」
相手がロボットであることは承知だが、母親は何度も頭を下げていた。細田は、その光景を見ながら目を細めた。
「先生、準備完了です」
手伝いをしていた男が細田に向かって言った。
「ああ、どうもありがとう。今日は人数が多いようだから早速始めよう」
細田がバスに乗り込むと、受付のロボットが患者の名前を呼んだ。
通常の診療は、保険に入っていれば半額ですむ。だが、国民の40%はすでに保険に加入していない。細田の診療では、保険に入っている人からは10%の治療費を貰うことになっていた。逆に、保険に入っていない人からは治療費を貰わない。保険に入れる人よりも経済的に苦しいはずと考えて入っていない人は無料に決めた。当初、この治療費に不満を漏らす者もいたが、細田が持ち前の弁舌で説得した。
「あなたの言っていることは心理学的に言うと……!」
「あなたの潜在意識がそう言わせているのです……あなたの本心はそうではないはずだ!」
細田は、いつも心理学の専門用語や外来語を交えて相手に反論し、余計な知識が役に立つこともあると微笑みを浮かべながら話し合った。無論、細田は外科医で有り、特に心理学を学んでいる訳ではない。しかし、相手は、いつもけむに巻かれたように押し切られ最後には「みんなで助けあおう」と纏まっていた。
また、細田が診療する患者達はいつも感心していたことがあった。それは、どれだけ多くの患者でも細田は必ずその名前を呼んで診察に当たっていたことだ。だが、これには仕掛けがあった。バス内の診察室には顔認証システムがあり、患者の名前は小型イヤフォンを通じて細田に教えられていた。しかし、患者の方ではそれが分からない。分からないから数ヶ月に一回程度の診察でパソコンの画面を見ずに患者の名前を呼ぶ細田に感心していたのだ。また、そんな小さなカリスマ性も老人の治療には役に立っていた。
病気とは言えない状態のころ、患者にとって信頼できる医師とのコミュニケーションは薬を飲む以上の効果をもたらすこともある。プラセボ効果とも言えるが、それで薬を飲まずに体調が回復するならそれも良い。細田はそう考えていた。
今日は、左目の眼痛と視力低下を訴える74歳の男が最初の患者だった。
「先生。目が悪いのはもう歳だから仕方ないけんど、このイテーのはなんとかなりませんかなー」
「奈良さんでしたよね、いつから痛みますか?」
奈良という老人は、以前、不動産会社の社長だった男だ。現在は引退の身だが、経済的には余裕のある身だった。
「4日程前、都内の眼科病院で日帰りの白内障手術を受けてきたんだけど、そんときは痛みはありませんでした。でも、二日前の夜から目が霞むようになって、昨日の夜からは痛むようになりました」
細田は、奈良の話を熱心に聞いていた。話を聞くときは、特に老人の場合、相手の目を見て話を聞いていた。これも患者との信頼関係を築く上で大切なことだと考えていた。
細田は、奈良の話を聞くと超高解像度のCCDカメラで奈良の眼球を診察した。
「奈良さん、これはおそらく手術による感染症の眼内炎です。結膜が赤くなっているし、充血ではなく出血が見られます」
「それは、手術の失敗ってことですか?」
「いや、そんな大それたことではありません。奈良さんも七十四歳でしょう。免疫力も落ちるんですよ。若いころなら体に入って来た細菌を殺せる訳ですが、だんだんそれができなくなるんです。白内障の手術では高齢者になるほど合併症を発症する場合が多いんです。でも心配はいりません。今、診察した限り他の重い病気の可能性はありません」
外傷以外で、結膜から出血が見える場合は、強度の炎症の可能性が高い。しかし、角膜白斑は認められないから、感染症の角膜炎ではない。ベーチェット病の可能性はあるが、七十四歳で初発することはほとんどない。
「奈良さん、この程度なら薬を飲んで、点眼すれば治ると思います。心配はいりませんよ、目も治るし、まだまだ長生きできます」
医師である細田の言葉に、奈良は喜んだ。
「先生、実はね町のマラソン大会、孫と一緒に走る約束をしてるんだけど? 出てもいいかね? うちのばあさんも先生が良いと言ってくれれば……」
「ああ、そう言えば、奈良さんは若いころからマラソンに出ていたんでしたね。血圧や心臓は何でもないから大丈夫でしょう。目もそれまでには治ると思います。好きなことはやった方が体に良いんです。でも何か変だと思ったら直ぐに走るのを止めてください、良いですね」
細田は念を押したが、そのとき既に奈良は立ち上がり、嬉しそうに帰るところだった。
「どうもあの人は、せっかちで人の話をちゃんと聞かない人だ。なんとなく危なっかしい!」
細田が独り言のようにつぶやくと、『ドクターヘルパー』と映し出されていた、ガラスのモニターが人の顔を映し出した。
「院長、奈良さんは、健康で動き回ることに生きがいを感じています。八0%の確率で、あの行動がストレスを溜めない秘訣になっています」
「んー! ……、まあそれはそうだが」
モニター脇のスピーカーから若い女性の声が聞こえた。『ドクターヘルパー』は、医療ミスを防ぐ目的で開発された人工知能ソフトだ。その名の通り、世界中の医療情報をデータベース化して医師の診断を助ける。もちろん、担当する患者の全データも入っている。仲間の医師や看護師では、自分より立場が上の医師に対し、間違いを指摘することが難しい場合が多い。権威勾配というものだ。しかし、人工知能にはそんな遠慮はない。数年前、米国で導入され日本でもすぐに導入が始まった。細田は自分の病院より先に、この治療バスに『ドクターヘルパー』を導入した。しかも、導入が早かったおかげで学習済みデータが豊富だ。
名医である細田も、実はこの人工知能を全面的には信頼していなかった。自分で確かめるつもりで先に導入したのだ。しかし、心配する必要はまったくなかった。あくまでも医者の判断を助けてくれるように開発されていた。今では、細田高度治療センターのすべての医師が『ドクターヘルパー』を使っている。
それから五時間、細田は、集まった患者の治療を休みも取らずに終えた。時間は十九時をまわっている。細田は、疲れの中に満足感と何とも言えぬ充実感を覚えた。
「先生、片付けは我々がやりますから、先に始めてください。今日は先生のお好きな新潟の酒も用意しました」
イスなどを片付けていた、手伝いの男が、杯を飲む仕草を見せた。
細田の顔は急に綻び、満面の笑顔を浮かべ無言でお辞儀した。
これは、恒例のことだったが、治療を一通り終えると、「懇親会」と称す酒の席があった。細田は、レベル四の自動運転車で帰宅するため、飲酒運転にはならない。レベル四の認定自動運転車は、走行中のできごとすべてが自動車の責任であり、運転手という概念は無かった。細田は、タクシーで帰るような感覚で酒を楽しむことができた。レベル四の認定自動運転車が開発され、販売が始まったころは事故も有った。しかし、販売が始まってから5年が経過し、法整備も整った現在では、特に問題が起きることは無かった。レベル4の自動運転車は、高速道路以外でも、法定速度を厳守して走る、歩道のないような道ではさらに遅く走る。だが、中で食事をしても、眠っていても目的地に到達できるため、それが良いという金持ちには売れた。
細田は、飲んでいる席ではあまり喋らない。自分の患者や手伝ってくれる人たちの話を良く聞いていた。様々な人生を歩んでいる人たちが様々な病気を抱え、苦しんだり、辛い思いをしている。その思いが、酒の席では様々なことばとなって人々の口から出てくる。細田は、その言葉を黙って聞いていた。
「先生、この前の癌検診では心配ないと言われたんですけど、今度はどれくらい経ってから検診したら良いんでしょうか?」
初老の女性が細田に酌をしながら質問した。
「今の、線虫癌検診は安いから、半年毎ぐらいに受けても良いでしょう。ただの尿検査みたいなもんだから」
「あんな、虫でホントに分かるんですかね?」
「もう10年くらい前から、使われていますからね。あれは確かですよ。大丈夫」
細田に、尋ねた女性は、両親も兄も姉も癌で亡くしていた。そのせいか、人一倍、自分も癌になるのではないかと心配している人だった。細田は、遺伝よりも生活習慣とか、食生活の方が原因になりやすいと説明していたが、女性の不安を無くすことはできなかった。そのため、簡単で安価な検査方法を女性に教えて受診させていた。
女性が訊いた線虫検査は、既に10年以上の実績があった。健康な人の尿と癌の検診を受ける人の尿をサンプルにした比較検査だ。線虫とは、体長一ミリ程度の線形動物門に属する動物の総称である。健康な人の尿からは遠ざかり、癌の人の尿には好んで近づく。そんな習性を応用した検査だ。高度な測定器を使わないため、費用が掛からずそれでいて精度は98%と高かった。
細田は、高価な薬や無用な検査をなるべく避けていた。経費の節約のためではない。それが本当に患者のためになると信じていたからだ。自分の病院では、金持ち相手に請われるまま不要かもしれない治療や検査も行っていた。だが、それはこのバスで巡回する治療のためだった。金持ちから治療費を吸い上げるのは、税金を徴収するようなつもりだった。徴収した金は、治療費が払えない人のために使えば良い。細田はそう考えていた。
細田がバスで巡回診療を行うのはひと月に10回~12回ていど、巡回している地域は20~30カ所ていどだから、2、3ヶ月に一度の往診になる。始めてからもう六年になる。
日本では、2030年ころから毎年の死亡者数も激増していた、団塊世代が、80歳になっていたからだ。癌患者も毎年増えている。首都圏に住む3千万の人の中、1千万人は65歳以上の高齢者になっていた。その中で細田一人が診て回ることができるのは、たかだか、数百人多くて千人程度に過ぎない。何と言う微力だろうかと思うこともあった。しかし、娘の圭子が医師として成長し、アルバートのような優れた医師も仲間に入ってきた。これから、もっと多くの人を助けられる。そんなことを思いながら、勧められた酒を飲んだ。
細田は、いつもより酔ってバスの中で眠り込んだ。しかし、10数億の金をかけた自動運転の診療バスは、眠る細田を乗せて、細田高度治療センター近くのバス停留所に何の問題もなく帰ることができたのだった。
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