第9話 事件の翌日
翌日、アルバートは、およそ二ヶ月のあいだ試行を繰り返し確定させた安全な通勤路を通り細田高度治療センターへ向かっていた。
(本日の天気は晴れ、気温は昨日よりも二度下がり最高気温は三四度。病院近くの小学校は今週の日曜日に運動会が開催されるため、熱中症患者が搬送される可能性あり)
規則正しいリズムで歩道を歩いていると、見たことのない人物がアルバートの前方からやってくるのが見えた。丸刈りで小柄な男の着ている半袖のカッターシャツには既に汗が滲んでおり、逆算するなら三十分は外にいたのだろうことが予測できた。小柄な男はアルバートの存在に気付くと、小走りでアルバートの方へと向かってきた。
「おはようございます」
「おはようございます! 細田高度治療センターについてお伺いしたいのですが、今お時間大丈夫ですか? 時間はとらせませんので!」
「通勤中ですので、歩きながらで良ければ構いません」
アルバートの返事ににんまりとした笑みを浮かべた坊主頭の小柄な男は、おもむろに名刺を差し出した。『日刊夕日・工藤康之』と記されている。どうやら新聞記者のようだ。
カツカツと歩みを続けるアルバートと並走した男はメモ帳とレコーダーを取り出すと、浮かべていた笑みを崩さないまま質問を始める。
「実は昨日の夜、弊社にとあるリークが入りましてね。なんでも患者の希望を無視して治療を進めた医師がいたそうなんですよぉ! あっ昨日の昼間に起こった殺人事件ご存じですか? その被害者家族からの話だったんですけどね。明らかに重傷だった小学生の男の子よりも先に同じく被害に遭ったお婆さんの治療を始めたってことで、この話を聞いてどう思います?」
アルバートは、事実と若干の相違があると判断したが、それが故意なのか勘違いなのかの判断はできなかった。
「そのご老人の治療をしたのは私です」
該当した患者の治療記録が浮かんで、アルバートは事実を返答する。
「へー! そうなん……えっそうなんですか?」
アルバートの不意打ちじみた返事に記者の男は目を見開く。しかし、その応対が何となく大袈裟だった。アルバートは日本人の記者は皆こんな感じなのかと思いながらスピードを落してゆっくり歩く。記者らしい男は、何かをカリカリとメモ帳に書き込んだ。足を一瞬止めた男は、すぐにアルバートに追いつき、ではと言って取材を続けた。
「では率直に、なぜお婆さんの治療を先に始めたのでしょうか?」
「病院に運ばれた時点で少年が助かる見込みはありませんでした」
「ほうほう、しかし男の子は手術室に運ばれていたそうですが?」
「まだ助かる見込みがあると判断があったのでしょう」
アルバートは、その会話自体は耳にしていないが、一連の動きとしてそういうことがあったのは事実だった。しかし、男は不思議そうな顔をする。
「ん? ん? ではあなたはその男の子はもう手遅れだとわかっていた。と?」
「救命できる可能性は搬送時点で一パーセントもないほどに極めて低く、施術時間と逆算をしても間に合わない計算でした。私は助けられる患者を優先しただけです」
「なるほど、なるほどー……」
アルバートは、少し間をおいてから言葉を続けた。
「救命医療では、常に『トリアージ問題』を扱う場面に遭遇します。これは、医師や看護師にとって、とても嫌な場面です。主に、戦場など医療のリソースが限られた場所で発達した考え方です。なるべく多くの命を救うために救えないと判断した命を置き去りにするということです。日本ではあまり馴染みがないようです。でも、どんなときでも命を救える訳ではありません。患者の重症度に基づいて、治療の優先度を決定して選別を行います」
アルバートは、ゆっくり歩きながら続けた。記者は鉛筆を舐めながらメモしている。「トリアージの語源は選別を意味するフランス語の『Triage』です。助かる見込みのない患者、あるいは軽傷の患者よりも差し迫った危機のある患者を優先して治療するという考え方です。医師達は、医療体制や病院の設備を考慮しつつ、患者の重傷度と緊急度によって分別し、優先順位の決定を迫られます。それよりも、工藤さんは、いつも鉛筆を舐めるのですか?」
工藤と呼ばれた男は、驚いて背の高いアルバートの顔を見上げた。
「イヤー、これですか? これは癖なんですよ。今時、メモをとるのも珍しいんですけどね」
そう言いながら、坊主頭を掻いた。アルバートは続けた。
「最終的に、すべての患者が救われるのなら問題は発生しません。しかし、昨日のような場合……」
アルバートは、ふと母であり、医師真由美の言葉を思い出した。
「トリアージの場合、重傷・軽傷、助かる見込みの有るなしは、神ならぬ人が決めることよ。短い時間の中で判断される場合、間違いも発生するわけ! この時代、先進国では、犯罪率は全体的に低いし、交通事故、産業事故も減っているでしょう。あなたが、これから向かう日本なんて特にそんな状態! テレビも新聞も事故や事件を待っているの。だから話題になる事故が発生すれば、餌に群がる動物や昆虫のようにマスコミが嗅ぎつけ集まってくるから。注意した方が良いわ!」
アルバートは、真由美の言うとおりに、マスコミの男が自分のところに取材に来たことを後で連絡しようと思った。
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