第8話 屋上の会話

 看護師たちの会話を尻目に、圭子は何か方法はなかったか? そんな考えに囚われていた。重篤な患者だった。でも圭子は必死に少年を救おうと奮闘した。妥協もしなかった。だが、あの少年の瞳がまた老人を映すことができるのかと言われると、とてもではないが頷ける現状ではなかった。

 瀧と別れ、圭子はエレベーターに乗り込むと、オフィスのある階ではなく屋上へ向かうボタンを押した。今はまだ誰かと話せる状態でも、他の仕事へ向かえる気分でもなかった。幸い、すぐに向かうべき予定はなかった。

 圭子が乗ったエレベーターは、誰もいない屋上に到着した。

 一歩足を踏み出すと、じわり、と汗が背を伝う。

 夕方というにはまだ陽は高く、真夏の屋上は暑い。遠くからはセミの合唱が途絶えることなく聞こえてくる。また、それがなくとも車やらの騒音が二十階の屋上まで届いてきていた。肌を焼かれるのも構わず、圭子は西に傾いた太陽光の降り注ぐベンチへと腰かけた。

「はぁー……」

 ため息だけが大きく漏れる。


 ちくちくと肌に紫外線が刺さる。濃い色をした影はベンチと圭子の姿を象り、彼女が片手で頭を抱えている様がアスファルトに描かれていた。

 圭子の頭の中では少年をどう治療するべきだったのかといういくつものパターンが走馬灯のように巡っていた。これはダメ、それでもダメ。あれならどうだ。ダメだ。何なら一体良かったのだ。

「そのままでは熱中症になります」

 目の前に落ちた影に、圭子はハッとして顔を上げる。

「アルバート、どうしてここにいるの?」

 アルバートは、いつもの表情のまま、圭子を見つめている。

「臨床工学士の柴崎さんが圭子先生を探していました。圭子先生がエレベーターに乗った姿が見えたのでもしかしたらとここへ来てみました」

「……そう」

 ぐるぐると悪循環の思考に陥っていたのは、彼のおかげで途切れた。それに、柴崎が圭子を探していたらしい。考えてみたら院内で呼び出しに使っているスマートフォンがポケットに入っていない。何用だろうか。行かなくてはならないことは、分かっている。だが圭子はまだベンチから腰を上げることができなかった。

「何故座ったままなのです?」

「そういう気分だからよ」

「気分とは?」

「うるっさいわねー! ……すかした顔して……誰も彼もが……」

 心底不思議そうなその顔に、圭子の激情は声となって噴出した。

「あんたのような人間だとでも思ってるの!」

 人を死なせてしまった。自分はベストを尽くすことができなかった。目の前には、見事に患者を救ってみせた気に食わない医師がいる。圭子は湧き上がる悔しさを抑えきれず、声を荒らげた。

「落ち着いてください」

「そうやって他人を見下して……あんたもそういう奴なんでしょう」

「と、おっしゃいますと? 話題の関連性を理解しかねます」

「うるさい……!」

 ジーワジーワとセミの声が聞こえる。体の至るところから汗が滲み出ていた。アルバートは日陰に戻っている。八つ当たりのような感情を持てあましながら圭子はアルバートを睨んだ。僅かな沈黙の空間がそこにあった。

「あんたなら……どう治療したの?」

「午前中に搬送されてきた二人の事ですか?」

「私じゃなくて、あんたが子どもの治療に当たっていたら……どう治したの」

 それは圭子にとっても一縷の望みだった。自分よりも優れていると認めざるを得ない。あれやこれやと気に食わない部分の多い男だが、それ以上にアルバートのもつ医療技術の高さは尊敬に値する。自分ではなく、この男だったら。圭子からの珍しい問いに、アルバートは淡々と答えた。

「治療はしませんでした」

「──は?」

 思いもかけない言葉に、圭子は目を見開く。その反応が見えていないのか、アルバートはまるで講義をするかのように、静かに続けた。

「病院に搬送された時点で子どもの方には脳死へ至る兆候が現れていました。バイタルも微弱で、不規則。血圧と体温の明らかな低下。心拍数は、48bpmまで下がっていました。また、肺への強いダメージにより血中酸素濃度は50%を下回り、脳が既に酸素不足状態に陥っていました。あれでは酸素マスクを使用していても追い付いていなかったでしょう。背骨は4ヶ所潰されており、神経にも大きなダメージがありました。頭部のケガについても……」


 圭子の我慢が、頂点に達する。

「もういい……。あんた離れた場所にいたでしょ。それは誰かに聞いた話でしょ! そんなことを実際にあの子を治療した私に言ってどうするつもりよ!」

 聞いていられなかった。圭子はアルバートの言葉を遮ると、やはり自分が馬鹿だったのだと続けた。

「……がっかりだわ」

「何がでしょう?」

「あんたに期待した私がバカだったわ」

「話のつながりがわかりかねます」

 アルバートでも助けることはできなかった。そう分かるような表情に、圭子はすっと頭が冷静になるのを感じていた。

「それで結構よ。なんだっけ……柴崎さんが探してたのよね。呼びに来てくれてどうも」

 圭子はそう言うとアルバートの返事を聞かず屋上を後にした。惨めだった。アルバートという男は誇り高いがゆえにあんな偏った性格なのかもしれないと思っていた。腕ばかり磨いていたから、あんなロボットのような人間なのかもしれないと思い込んでいたのだ。だがそれは間違いだった。あれはただのイカレサイコ野郎だ。行き場のなくなった鬱憤をもやもやと抱え込んだまま、圭子は自分を探しているという柴崎のもとへ内線を繋げた。

「もしもし? アルバートから聞いたわ、何かあった?」

 その鬱憤に、その惨めさに、立ち止まる余裕すら医師には与えられないときがある。廊下をいつものように歩きながら、圭子はまた静かに、日々の責務に呑み込まれていく。

 それから2時間後、運び込まれた少年患者の脳死判定が実施された。

 深昏睡、瞳孔固定両側4ミリ以上。脳幹反射、平坦脳波、自発呼吸の消失とすべての基準が満たされていた。脳外科の瀧と共に圭子は「脳死」と断定せざるを得なかった。

 細田からも連絡が入っていた。他に助ける手段は無かったのかと言う叱責だった。ニュースになるような事件では、病院の評判に影響する。細田としては、宣伝のためにも何とか子供を助けたかったようだ。だが、圭子にとってそんなことはどうでも良かった。自分の目の前で小さな命を助けられなかったことが、それだけが問題だった。圭子は宣伝のために手術したのではないと心の中で叫んだ。

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