第7話 救えなかった命

 8月の半ばの暑い日だった。その日の午前中、細田高度治療センターは普段の二割増しの喧騒に包まれていた。近くの工事現場で倒壊事故が発生し、10名以上の怪我人が運ばれていたところへ、重篤なケガをした70代の女性とその孫である小学生の男子が緊急搬送されるという報せが入ったのだ。

 院長の細田は留守だったが、連絡があり指示は早かった。すぐに手術室を二つ空けさせ、処置室に輸血パックなどの治療具を用意するよう連絡があった。「ニュースにでるから最善の処置をおこなうように」とも付け加えられていた。バタバタとあわただしく院内を駆ける看護師に、圭子も何をどこに置いてほしいと現場の監督をする。いつものんびりとして笑顔を絶やさない看護師の佐藤麻衣でさえ、目をつり上げて走り回っている。

「この時間にオペ室二部屋空けるとか、目立つチャンスのときは、院長流石!」

「いいから手と足を動かす! あと2分で到着するぞ!」

「圭子先生、造影CT、部屋確保できました!」

 どうなるか分からない状況下で、圭子は冷静に現場の状態を見極めていた。

「ありがとう、何が要るかわからないから、あとは待機していて」

「はい!」

 通報の内容によれば今より40分ほど前、被害者の自宅に凶器を持った何者かが押し入ってきたのだという。老人と孫のどちらが先に襲われたのかは定かにはならなかったが、少なくとも孫の方は意識不明の重体。通報者でもある老人もまた、頭部から出血があるのだそうだ。犯人は現在も逃走しており、警察が逮捕に向かっているらしい。

「到着しました!」

 救急搬送入り口付近で看護師が叫んだ。

 ほどなくして救急車のサイレンが院内に大きくこだました。救急隊員と受け入れの看護師がバタバタガラガラとストレッチャーを引いて処置室へ入ってくる。救急車内からの様態の変化を隊員から聞きながら、圭子は搬入されている二人の傷の具合を診た。

 患者である老人とその孫のケガはどちらもひどいものだった。意識をまだ保っている老人だが、まず右足の甲が折れている。さらに老人のしわついた体は至るところに殴打痕があり、素手やバットなどで殴られたものではないことが分かった。顔面も遠慮なく撲られており、鼻が右にひしゃげている。額には一際大きな裂傷があり、通報にあった頭部の出血というのはこれのことだろう。意識そのものははっきりとしており、救命は可能だと圭子は思った。

問題は……

 意識を失っている孫の方は、より深刻だった。小学生ほどのその少年だが、まずケガの量が老人の比ではない。老人に覆い被さるようにして庇ったのか、孫の背中はボコボコに腫れている。大腿骨と肩甲骨、背骨までもが折れ、執拗に犯人が殴打を繰り返したことが容易に想像できた。後頭部のダメージも深刻で、ガーゼで覆っていた枕は既に血でその白さを失っていた。

「ひどいわね……」

 思わず圭子がつぶやいた時、

「老人をこちらへ、治療します」

 と、アルバートのよく通る声が処置室に響いた。ざわざわと慌ただしい現場でもその声ははっきりと辺りに届いた。老人を担当する看護師らはもうアルバートの指示下に入っている。アルバートは先ほど、少年もチラリと見ていたが、すでに老人の方に動いていた。

 呆けている暇はない。一刻も早い救命措置が必要な孫を優先しなくてはならない。看護師たちに、圭子は声をかける。

「輸血急いで! O型!」

「ハイ!」

 圭子の周囲も、勢いよく動き出す。

「聞こえますか、ちょっと眩しくしますよー!」

 出血のひどい後頭部を押さえてもらいながら圭子は少年のまぶたを開いた。相当ひどい衝撃を受けていたのか眼球も一部紅くなっている。頭蓋底まで骨折している可能性は低いことを確認すると圭子は白いペンライトを当て、瞳孔の動きをみた。少年の何も映していないような瞳のなか、瞳孔が縮んだのが見えた。

「瞳孔の動きあり、骨折の状態を見ますねー」

 圭子はペンライトを胸ポケットに素早く仕舞い、少年に言い聞かせるようにそう告げた。横向きに寝かされている少年の背中を指先で辿る。一ヶ所、二ヶ所と骨折部分を確認し、左肩甲骨が大きく割れていることもわかった。首の骨は運良く折れは見つからず無事だった。頭蓋骨は後頭部に二ヶ所陥没している部分が見られる。髪の毛が邪魔で良く見えないが、脳髄は無事だろうか。三十秒にも満たない触診を済ませた圭子は、緊張した面持ちで患者を見つめている看護師に告げた。

「至急手術室へ! 脳外科の瀧先生を呼んで」

「先に手術室で準備をしているそうです、手術室Aに行きます」

「移動しますよー! 大丈夫ですからねー!」

 ストレッチャーを固定していた留め具を外してキャスターを解放する。移動します道開けて、と声を出し四方八方駆け回る看護師たちを進行方向から退かせる。ガラガラと少年を処置室から移動させる。

「孫を……たすけてください……」

 すでに手術室に運ばれた老人の声だった。アルバートの横にいた看護師が、老人の手をしっかりと握りしめながら「大丈夫ですよ、ここの先生は皆さん優秀ですから」とつぶやいた。


 絶対に助ける。

 処置室を後にする間際、圭子は拳を握るといっそう強くやる気を入れた。何がどうあって自宅で他人から暴行を受けたのかはわからない。しかし今はそんなことはどうでも良い。老人が命を絞り出すように発したその一言、それが現実だというのなら医師は全力で応えなくてはならないのだ。

 圭子は白衣の上から手早く術衣を身にまとうと、既に準備が整えられた戦場へと向かっていった。


 数時間の後、清潔なベッドシーツの上に身を起こす老人に、圭子は手術の結果を伝えていた。それが義務であり、老人には知るべき権利がある。

 少年の脳死状態という、医師としても人間としても伝えづらい結果だとしても、だ。

「……そう、ですか……」

「助けて、と、言ってくださったのに、このような結果をお伝えすることになってしまい、残念です……」


 わっ、と老人は泣き出した。

 手術開始からおよそ一時間後、少年は手術室の中で心停止状態になった、蘇生はすぐに行われたがその小さな心臓が再び動くことは無かった。徐々に弱まっていく脳波に圭子は、苦悶の表情を浮かべるしかなかった。国の施策として、心停止になった患者の延命は例え子供であっても極めて厳しい判断がくだされる。医師の勝手な判断は許されない。どんな処置ももう届かないところに、少年は行ってしまった。共に担当した脳外科専門の瀧勝医師も、おなじ表情だった。

 老人が、病院のベッドの上で涙をぽろぽろこぼしている。彼女の方は、命に別状はない。しわだらけの顔により深くしわを刻んで、なぜ、どうしてとしきりに繰り返している。

 その様子に、圭子は静かに声をかけた。

「……脳死の厳密な確定には六時間のブランクが必要で、今の時間で言うなら2時間後が再検査の時間になります」

「じゃ、じゃあ?」

「その間に脳波や肺の方に動きが起きれば、回復の兆しがあるということになります」

 圭子の言葉を聞いた老人は止まらない涙を片手で押さえながら仏への念仏を唱え始めた。回復の兆しと老人には伝えたが、圭子の表情は浮かばない。感情が抜け落ちたかのような顔のまま、圭子は一礼して病室を後にした。後には、刑事達が事件の様子を訊きに来ていた。

「圭子先生、今回は無理だと思います。今のは……、気休めですか?」

「瀧先生、分かっています。でもああ言わなきゃいられなかった。それだけです」

「我々は、最善を尽くしたと思いますよ」

 そう言う瀧も、やりきれない表情をしていた。突き放すように聞こえても、実は圭子を気遣っての言葉だ。脳外科の専門医である彼はおそらく、圭子以上に現状を正確に理解しており、だからこそ老人に気休めの言葉をかけることができなかったのだろう。

 分かっていても、圭子の心は晴れない。

「そうでしょうか? ……それなら良いんですけど」

 実際、老人にはああ言ったが、少年の状態は希望が持てるほど芳しいものではなかった。深刻なダメージを受けていた後頭部は陥没骨折が二ヶ所あり、髄液が漏れ出ていた。細菌が脳に入り込んでしまっていれば、もし意識を取り戻しても重い後遺症があらわれるだろう。砕かれていた左肩甲骨が肺に刺さっているということはなかったが数ヵ所に渡り砕かれた背骨は確実に神経を傷付けており、こちらも重い障がいが起こる可能性が極めて高い。

 小学生だと言うのに。他の方法はなかっただろうか? ナースステーションを通りすぎた際、看護師達がヒソヒソ話をしていた。しかし、何を言っているのかは、分らなかった。

 措置は間違いなく善の方を向いていたはず。でも、だけど、最善がまだあったかもしれない……。

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