第6話 圭子の苛立ち
カツカツとハイヒールを鳴らして医局を後にする。何故自分がこうまでイライラしなければならないのか。気に食わないだけなのだ。そう、気に食わないだけ。努力し続けた自分が馬鹿だったんじゃないかと思えるほど圧倒的な早さで治療を進めるアルバートは、圭子から見ても天才のそれだった。
あれほどの手腕で、なぜ日本のこの病院を選んだのか。
この細田高度治療センターを貶すつもりはないのだが、確かに国際的な評価は高くとも、最高峰というわけではない。アルバートが、大学を出てから最初に勤務したのは、『マサチューセッツ総合病院』だ。先端医療ということで比較すれば向こうが上だ。
圭子に言わせれば、この病院は医療技術以上に細田の経営手腕が良いのだ。
そう、院長の細田は医療技術とビジネスの才能だけがある金の亡者だった。しかし、その手腕が病院の経営を安定させていることも事実だ。需要が高いはずである一般外来を受け容れず、中流家庭からすれば手術費が馬鹿にならない医療技術だけを提供する、金持ち相手の商売を考えているだけだ。
細田は金の亡者だ、しかし、そこには受け入れがたくも「信念」があった。
信念。ああそうか……あいつの場合、信念が、何も見えないんだ。
ふとそのことに気が付いて、圭子ははたと立ち止まった。
アルバートは確かに、完璧な技術を持ち、的確なリーダーシップを発揮している。しかしそこには、医師というものに対して誰しもが持つような、ある種の倫理観がまったく見えてこなかった。
何にも考えていないような奴だって、何かの理由がないと医師になろうなんて、思わない。たとえ医師の家系だからって理由の奴でも、それは変わらなかった……。
カツカツと足音を立てながら、圭子は病院内を歩いていく。
でもあいつは、違う。まるで……まるで生まれたときから医師だったかのような、そんな理由のなさがある……。
だからこそ、この細田病院を選んだ理由が不鮮明になる。
たとえば、一か月前、アルバートが病院にやってきた日にあった交通事故では重傷者は二人いたらしい。一人は先日腹に残っていた糸を外しに来ていた小学生男児。もう一人は事故を起こした車を手動で運転していた成人男性。新聞を読めば成人男性の方も両足を折り胸部を打撲する大ケガを負っていたはずだ。しかし、細田高度治療センターで治療を受けたのは大きな怪我をした子どもの他、小さな怪我の子ども達だけだった。患者を選別したのはケガの重さではない。治療費を払えるかどうかが、運転手だった男を別の病院に移送させた要因だった。子どもの治療費は、自動車保険で払われる。男の治療費は何か問題があったのであろう。
それだけ金銭面と名声という部分に対して、この病院はあからさまなほど徹底している。だとすればアルバートはこんな病院の何が良かったのか。わざわざ来日してまでここへ来る理由が圭子にはわからなかった。噂話は色々聞いていた。
「細田院長の知り合いの紹介?」
「細田院長が留学時代に作った隠し子?」
「知り合いの有力国会議員から頼まれた?」
隠し子は別にして、他はどれもあり得る。
……いや、もしかして高額の手術だから……?
それなら、いくらか話が分かる。
もしやこいつも金にがめつい男か。そんな考えが頭をよぎったとき、
「こんにちは、圭子先生」
と、目の前の左の角からアルバート本人が歩いてきた。その表情筋がぴくりとも動かない無表情がむかつく。嫌味のひとつでも言ってやろうと思い圭子はムッとした表情のまますれ違いざまに言った。
「この病院、あんたが思っているほど給料高くないわよ」
そのまま通り過ぎ、エレベーターの方へ圭子が向かおうとすると、ご丁寧にも背後からアルバートの返事が聞こえた。
「どうして、そんなことを? 医師は人の命を救うのが仕事です。私は『国境を越えた医師団』にも5年いました」
そうだった、あいつは無償ではないが、医療の献身的な活動もしていたのだ。圭子は、アルバートの過去を思い出した。
『国境を越えた医師団』では、日本国内病院の半分程度の給料しか貰えない。規模が大きくなったからと言って支払われる給料が良いわけではない。
また、非人道的行為を国際社会に対し告発している組織でもあり、しばしば国連を批判することもある。アルバートがそんなことを医局で話しているのも聴いたことがあった。
ああまた、わからなくなった。本当に何をしにここへ来たんだ。圭子は数秒でやってきたエレベーターに乗り込むと、普段より気持ち強めの力で“R”のボタンを押した。
ぐに、と、指先が右方向に曲がる。
「イッタ!」
最悪だ。痛む指先をさすりながら、ため息交じりに圭子は後ろへ背を預けたのであった。
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