第4話 父と娘

 命も、死も、病も、圭子や柴崎を待ってなどくれないのだ。圭子の思惑とは関係なく今日も手術室のランプは点る。医療に休日はない。

 それは太古の昔から変わらぬ人間の営みだ。

柴崎と別れ手術室に入った圭子は患者の模型と格闘中であった。

「ったく……」

 圭子は、樹脂で作った模型を使ったシミュレーションにこだわっていた。患者のデータから等身大の模型を作ってそれをメスで切るのだ。

 10年ほど前には、外科手術用3D画像シミュレーターが開発されていた。医師がゴーグルを付けると患者の映像が立体的写しだされるのだ。スキャンした患者は眼前に鮮明に映し出される。この方法なら内部がどうなっているのかを簡単に確認できるため、ほとんどの医師達は、手術の前に映像を使って患部の確認をしている。あくまでも、映像だけだが、血液の色などもリアルに映し出される。

 それに対し、圭子の行う患者の模型を使った方法は一昔目の技術だった。患者の患部をスキャンするのは同じだが、そのデータを元に3Dプリンターで実際のモデルを作るのである。材料は改良されているから、古い技術とはいえ柔らかさも人間の体とほとんど変わらない模型が完成する。内部は、0.5ミリ程度の血管までほぼ正確に形作られている。何よりも、メスで実際に切ることができる。

 難易度の高い手術の場合、圭子は、実際にメスを使ってそのモデルを切開することで本番に備えていた。

 院長の細田は、費用の安い画像シミュレーターを使うように圭子を何度か説得した。しかし、圭子は

「画像では、切った感触がありません」

と頑として受けつけなかった。

「これだから、金の亡者は……」

 圭子は、メスを止めた。ふいに、頭によぎった細田の「無駄な経費は一円も使わないこと」の言葉を思い出した。

 細田高度医療センター院長、細田収。

 彼は、優秀な心臓外科医として世界的に有名な医師であり、圭子の父親でもある。そんな彼が経営する細田高度治療センターは600床のベッド数を持つ中規模病院だがそこにある科の数は四種類という非常にシンプルで専門的な病院だった。ガン、心臓病、脳外科、救命医療。むろん、各科の中に細かいチームがあった。

 細田の病院は1人ひとりの医師が高度な専門医であることが特徴だった。病院のホームページも、英語、フランス語、アラビア語など、多言語に対応し宣伝を怠らなかった。アラブ諸国の金持ちを患者に迎え入れるため、病院としては日本でもいち早くハラール対応も行った。最も権威があると言われているマレーシアの公的ハラール認証機関の認証も取得していた。その結果の収益増は、言うまでもない。

 おかげで、細田高度治療センターは患者の絶えない病院となった、どの医師達も、患者が減ってほしいという願いはあったが、腕のいい医師を求めて世界中からやってくる患者は後を絶たない。健康を回復した患者が退院してもすぐに新たな患者が入院し、ベッドは常に足りないくらいだった。

 国民健康保険が財政上の理由から行き詰まり、いまでは保険適用されない治療の方が多くなっている。どこの病院も経営が苦しい中、細田は外国の富豪相手の治療を上手く使って医療ビジネスを展開しているというわけだ。細田高度治療センターの医師や看護師もアルバートのように、五カ国語以上を話す医師はいなかったが、それでも日本語と英語以外に、もう1カ国語を話せるという医師は10名以上もいた。また、それが細田高度治療センターの売りにもなっていた。

 一方、救命医療は交通事故の場合、必ず自動車保険が適用されるため、どの病院も対応していた。病院によっては、「交通事故の怪我の場合、治療費を割り引き」と言った広告を出す所もあった。また、監視カメラやGPSの発達によって、国内でのひき逃げ事故発生はゼロ件と言ってよかった。

 そんな中、救命率もインターネットで公開されている。この救命率は病院にとっては、宣伝効果が大きく、広告費用を掛けずに広告でき、しかも割引とは違って病院に負担はない。チャンスがそこにあるとみた細田は病院の最も優秀な医師達を救命医療科に集め救命率を飛躍的にあげることに成功。怪我人によっては、救急隊員に「細田高度治療センター病院に行ってくれ」と頼む者もいた。

(何でも金よね、ホントに!)

 圭子も、ビジネス展開の巧さと外科医としての腕前だけは、尊敬してもいいと思っていた。

 細田は元々、名医の評判もあった。そんな細田のもとに集められた名医ばかりがそろう病院を頼みにして、金持ちの患者は集まっているのだ。

 いまでは、いわゆる海外のVIPたちは命に関わる病気に冒された場合、一縷の望みを持ってはるばる日本まで治療に来ていた。海外のVIPたちは当然日本の健康保険証などもっていない。日本も十数年前までのように、外国人に対し、簡単に健康保険証を付与することもなくなっていた。しかし金持ちにとってそれは関係のないことである。命には替えられないと医療費を払える者達だけが細田高度治療センターに入院して治療を受けられるという仕組みになっているのだ。

 そんな細田の口癖は病院に来る患者を、患者ではなく「お客様として扱え」だった。

 さらに、細田は経営の芳しくない病院に対し「病院経営コンサルティング」も展開しその方面でも腕を発揮していた。そこで高額のコンサルティング料を取りながらも、多くの病院を経営危機から救っていたのだ。ただ、一方で、コンサルティング料が払えないような行き詰まりを見せている病院は容赦なく切り捨てた。

 しかし、圭子には納得できない。

頭ではなく、心が。

「集中しろ、若林圭子!」

 圭子は、考えるのをやめて、目の前の練習用の模型に意識を集中させた。しかし、3Dプリンターで作ったモデルの腹部にメスをいれたとき、今度は、あの日探しても見つからなかった「ガラスのきらめき」が脳裏をよぎった。

「集中しろってば」

 そう、自らに言いきかせるようにつぶやいて、彼女は指先を動かす。

 圭子は、医療制度を守り、患者を守るという決意で日々の努力を行っている。またそこに、強い自負もあった。

 しかし、アルバートが細田高度治療センターへやってきてから、その自信が崩れてきた。

あいつの知識、技術、どれをとっても認めざるを得ない……だからこそ、よ。

 別にトップになりたいだとか、自分にしかできないのだという優越感に浸りたい訳ではなかった。そういう感情で医師と言う職業を選んだわけではない。また、そんなことのために努力してきた訳ではない。圭子はただ父親への反抗心で万人を救う医師を志した。戸籍上の苗字は「細田」であるのに、亡くなった母の旧姓を名乗っているのも金持ちを相手に商売している父への反抗からだった。

 その自負を、アルバートは崩しにかかっている。嫉妬心だろうか? それもあるかもしれないが嫉妬心だけではない圭子はそう思っていた。彼にはどこか普通の人間とかけ離れたところがある。努力とは無縁みたいな顔も、手術を機械みたいにこなすのも……命を救うことにつながっていたとしても、ううん、だからこそ気に食わない、まるで……。

 万人を救う、その志と努力の結果が現在の彼女の身にかかる評価であり、医師としてなによりの証しであった。また、拝金主義とさげすみながらも、この細田高度治療センターにいると、そのお陰で世界中の難病患者を治療することができる。また、自分以外の優秀な医師の存在も圭子にはありがたいものだった。

 おかげで、父親への反抗心を超え、この病院で勤務することには充足感はあった。自分の中に矛盾があることも承知している。医師というのはいつだって全力を尽くして患者を救う。常に最善を選べるよう考え、考え、試行錯誤して、唯一の本番に挑む。

……まるで、わたしのこれまでの努力を、否定するようなあいつが、気に食わない……。

 ガチン。大きな音を立てて、メスが落ちた。圭子は、はあ、とため息を零す。

 圭子自身は実を言うと大きな失敗をしたことはない。だが何度か、妥協をしたことはある。それが悔しいからまた考える。試行錯誤を繰り返す。何パターンも、何百パターンも。圭子が万能医師として病院での評価を確立させていったのは、そうしたたゆまぬ努力の結果だった。

 また、圭子は医師とはどうあるべきかという問いに対し、常に真摯な答えを見つけようとしていた。この時代、人は100歳まで生きるのは珍しくない。女性の平均寿命は89歳、男性でも84歳である。しかし、健康保険の行き詰まりから、高齢者の医療保険は90歳で止められる。平均寿命から1年の猶予を見て、その後は自己負担で治療を受けなければならない。公的な保険制度は一切存在しない。細田高度治療センターでも、日本人の入院患者であれば、九十歳の誕生日を迎える前に、誕生日以降の治療費を払えるかどうかの確認を求めた。むろん、払えない患者には去ってもらうのだ。圭子は、自分が担当した患者が九十歳の誕生日を境に病院を去ったことを何度も経験している。

「あの患者では自宅治療は無理だ!」

 そんな患者が病院を去るたびに圭子は心の中で叫んだ。

「ここを出たら、数週間で死んでしまうかもしれないのに」

 しかし、それは圭子にもどうにもならない。ある日、圭子とよく話をしていた老婆がこう告げた。

「圭子先生、私も来週で90歳です、治療費はとても払えないから退院して家に戻ります。今まで本当にありがとうございました」

「ご家族に話して、何とかならないんですか? 急に何かあったら大変ですよ」

「もうこの歳だから、なにかあればそれでいいのよ。ここの病院で一年も過ごして本当に気持ちよかったわ。できればこのまま天国に行きたいくらい」

 こんな言葉を聞かされるたびに、圭子は居たたまれなくなった。メスを拾いながら、圭子はこれまでの患者を思い出す。アルバートが、そんな場面にいたらどう感じるのだろうか?

 ダメだ、そう思って、ついに途中でメスを放り出した。

「……アイス食べたい」

 圭子は、汗を拭きながら、集中力が完全に切れたことを自覚した。

(気に食わない、気に食わない。あのコミュニケーション欠損野郎が気に食わない)

 圭子はとうとう、明後日に控えた手術のシミュレーションを中断して事務所に戻ることにした。苛立ちの原因を全てアルバートのせいにして。

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