第3話 空気が読めない男

 この日以降、細田高度治療センターに一人の優秀な外科医が仲間入りした。


 優秀な医師が多い細田高度治療センターでも、ハーバード大学医学部を二十一歳で卒業し、アメリカの医師免許を持ちながら日本の医師国家試験に合格した人間などいない。その上、すらりとした長身にグリーンの瞳、くわえて金髪の男である。病院内では、ハリウッド俳優の誰に似ているなど口々に噂が広まっていた。独身の女性看護師だけではなく、中年以上の入院患者の間でも、あっと言う間に有名になったのも無理のない話だった。


「おはようございます、圭子先生」

 背後から聞こえてきた男の声に、圭子はゆるやかに振り返った。

「おはよう。今日も暑いわね」

 圭子に挨拶を発したのは、すらりと背の高い男、名を、アルバート・伊東という。圭子にとって、ここ一か月で最も腹立たしく、度肝を抜かれ続けてきた男だ。

この医者こそ、あの日の朝に起きた事故で子どもの応急処置をしていた男だった。圭子の手術後噂はまたたく間に知れ渡り、彼は病院内でトップランクの医師として認識されるようになった。

「そんなに暑いですか? 東京なら、七月の平均気温は二十六度を常に超しています。今日の気温が特別なわけではありません。そもそも夏は暑いのが普通です」

 アルバートは、たとえそれがたわいのない挨拶でも必ず論理的な話で返した。圭子はそのことでもアルバートに対しイライラを募らせていた。今日は、とうとう頂点に達した。

 圭子の口調はそれほど親しいとは言えない同僚に対しては、少しばかり強めになった。

「あんたね! 朝からケンカ売るわけ? 今日も暑いとか、雨でうっとうしいとか言うのはね、一種の挨拶なの! もっと日本語勉強しなさいよ!」

「テレビは見るようにしています」

 圭子の怒りが理解できないのか、どこか不思議そうな顔で不愛想に答えながらも圭子を見つめ返すそのグリーンの瞳は、奇妙な静けさを保っていた。それはまるで鏡か、あるいはガラスのような輝きに満ちている。

アルバートのアンバランスさに圭子は小さく鼻を鳴らすように笑い、背を向けながら言った。

「あらそう!」

 その反応に、アルバートは首を小さく傾げる。

 そんなアルバートだが細田高度治療センターへやってきてから一か月、彼の評判は既にゆるぎないものとなっていた。赴任後一日平均二回以上の手術をこなし成功率百パーセント。チームの技量を正しく理解し役割を振り分けるリーダーシップ。加えて恐ろしいほど正確な時間計算。

 多少コミュニケーション面で難はあった。しかし、どんなにくだらない話でも一言は必ず返す最低限度の社交性は、ダジャレを好む世代に一定の人気を得ていた。もちろん冗談が通じないと不満を漏らす者もいた。しかし、それでも外国人風のハンサムな見た目とのギャップで、病院内の人間の大半からはお茶目だと受け流されていた。

 人間、こうなると可愛く見えてくるものだ。結果、愛称で呼ばれるのに時間はかからなかった。日本人には見えないのに伊東先生ではおかしい、それに人工知能のように少しズレた会話が多いことから、いつの間にか「A・I先生」と呼ばれていた。

 しかし、圭子だけはそんな愛嬌のある呼び方をしなかった、いつも「アルバート」と呼び捨てである。

「あんな会話の成立しない男のどこがいいのよ……。いくら調べてもあいつが書いた論文は出ない、なのに発表されたばかりの論文でも全部目を通している。手術時間は私の三分の一で終わらせる……おかしすぎるでしょ?」

 この時代、臨床医学、基礎医学、バイオ、薬学を合わせると日本だけで年間十五万本を越える論文が投稿されていた。世界ではその八倍~十倍に上る。しかし、四つの分野のどの論文に対する質問をしてもアルバートは正確に答えた。信じられないことに、読んでいるだけでなく、実際の手術で新しい技法を使っているのだ。二日前の手術では、その数日前に発表された論文の手技を他の医師達に説明しながら手術を見事に成功させている。

 その優秀さは、同じ医師という職業の圭子の機嫌を悪くさせるに十分だといえる。

「や、圭子先生。おはようございます」

 と、背後からの挨拶に圭子はとっさに振り返る。

「おはよう、あら、柴崎さん」

 ブツブツと独り言をつぶやきながら廊下を歩いていた圭子に声をかけたのは、柴崎栄一という病院のスタッフだった。

「またA・I先生のこと考えていましたね?」

 柴崎はCTを撮影する際などに重宝される診療放射線技師と臨床工学士の免許を持つ男だ。医師ではないが、圭子にとって同じ大学の数年先輩にあたる。柴崎は人好きのする笑顔を浮かべると、圭子と並んで歩きだした。

「あんなぽっと出の医師のことなんて考えてないわよ」

 つんとした態度で返す圭子に、本当にどうでも良さそうな顔で頷いて、柴崎は言う。

「ま、いいんですけどね。それより聞いてくれませんか? 今日から次女が夏休みなんですけどね、私が最近太ってきたの気にしていたみたいで一緒に週末プールに行かないかって誘ってくれたんですよ。それが土曜日なんですよ、土曜日、わかります? 日曜日に動くと私が月曜日に辛いのわかっててくれていたみたいでね。本当に良くできた子なんですよ」

 医師や看護師と異なり、検査のスタッフは、特別なことが無い限り土日は休めることが多かった。

「はいはい、すてきなお子さんですね」

「またそうやって聞き流す」

 柴崎は圭子の雑な態度に不満げな表情でプウッと頬を膨らませる。すると圭子はオッサンのその表情を「キモい」と一蹴した。

「ひどいなぁ」

 そう、別段ひどいとも思っていないトーンで答えた柴崎は病院内でも有名な愛妻家兼恐妻家であり、口を開くと家族の自慢話をする男だった。しかしそれは、彼の一面に過ぎない。腕は、一流なのだ。

 圭子は、柴崎の臨床工学士としての腕は信用していた。また同じ大学の先輩として古くからの知り合いでもあるため柴崎の妻淳子とも知り合いである。

「ま、長女は今年受験だからあんまり機嫌よくなかったんですけどね。圭子先生に会いたがっていましたよ」

「なら柴崎さんがプールに行っている間に遊びに行きますよ」

「ははは! 伝えておきますよ。あ、手土産はアイスがいいといってました」

 さらっと手土産を要求してきた柴崎に呆れた顔をしながらも圭子は心の中で柴崎へ感謝した。たぶんだが、柴崎は不機嫌な圭子を気遣ってくれたのだ。やがてオフィスに着いた柴崎は圭子にそれではよろしくと告げ、自分の職場である検査室へと向かっていった。

 それを見送り、圭子もまた、自身の職場、手術室へと向かう。

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