第33話 心象世界(沙条真琴) 第四幕
記憶の流入が途切れて私の意識は沙条さんの心象世界、即ち裁判所内へと舞い戻る。他の三人も戻ってきてはいるものの、部屋には息苦しい沈黙が立ち込めるばかりで、口を開くどころか物音を立てることさえ躊躇われてしまうほどだった。最初は、また惚気か、とか呑気に考えていた私だけれど、あまりにも唐突な二人の逢瀬の幕引きには、胸が詰まる心地がした。痴話喧嘩じみた応酬ばかりしていたものだから完全に頭から抜け落ちていたけれど、そうじゃない。沙条さんは私と同い年だったにも拘らず、神様の気まぐれで唐突に命を奪われた死者なんだ。
「見たか、裁判官。これがこいつの罪状や」
憮然とした顔つきで両腕を組みながら、冷然と瑞稀を睨む沙条さん。私が何も言えずにいると、ふん、とわざとらしく鼻を鳴らした。
「なあ瑞稀。あんた、あのとき言ったよな? うちが死ぬときには、手握っててくれるって。なのにあんたは、うちのことを一人で死なせた。そこんところ、どう弁明するつもりや?」
「その……それについては、本当に済まなかったと思ってる。着信音で飛び起きて、着の身着のままで病院まで自転車を飛ばしたけど……間に合わなかったんだ。……それに、そもそも私は、まさかあれが本気だとは思ってなかったんだよ。真琴はいつも、気丈で前向きな発言ばかりしてたから、ほんの冗談程度のものだと……」
「冗談⁉ あんたはあれを、うちの冗談だと思ってたんか⁉」
沙条さんが乱暴にテーブルに手をついて身を乗り出した。眦は裂けんばかりにカッと縦に見開かれ、乳白色の頬は見る見るうちに血の赤色に染まり始める。
「……ふざけるなや、瑞稀。あんた、うちがどんな気持ちであれを言うたか、わかっとらんかったんか? ……百歩譲って、手握ってくれなかったのはええ。間に合わんかったのは、仕方ないのかもしれへん。でもな、違うやろ。あんたは最初からうちとの約束を守る気が、いや、約束をしたつもりさえなかったんやろ? なあ。……なあっ⁉」
ガンッ! と握りしめた拳で沙条さんは荒々しくテーブルを叩く。瑞稀は下唇を強く噛み、小刻みに肩を震わせながら、黙って顔を俯けていた。
「そんな適当な気持ちで……うちの問いかけに答えて欲しくなんかなかった! その場しのぎで適当な台詞口走るとか、そんなん、うちが好きだった瑞稀とちゃう! うちが虫酸が走るほど嫌ってた、嘘くさい大人たちと同じやん……っ!」
この一言で、瑞稀が顔を上げる。僅かに覗いた口元がわなわなと震えている。激昂した沙条さんの両目はいつの間にか水気を増していて、照明の光を受けて鈍く輝いていた。
「……ごめん」弱々しく震えた声で、瑞稀が懺悔する。
「はぁ、ごめん? ……謝って済むもんとちゃうやろ。なあ裁判官、こいつは罪人や。なら、それ相応の罰を与えるのがこの世の摂理よな?」
「え? ま、まあ、そう……なんですかね」私は戸惑いながらも、どうにか言葉を返した。
「瑞稀は死ぬときに手を握っててもらうっちゅう約束を叶えてくれへんかった。……でもな。うちはあのとき、こうも言っとる。一緒にいられるだけ一緒にいて欲しい、って」
怒りに打ち震えるように激しかった沙条さんの口調が、急に柔らかいものとなる。
「なあ瑞稀。うちはまた、瑞稀と一緒にいたいんよ。肉体は失くしてしもたけど、それでもええ。うちは、あんたとこうして話せるだけでも幸せやから。一緒にいるって答えた責任、ちゃんと、果たしてほしいねん。……な? ええやろ、瑞稀?」
懇願するような面持ちで言う沙条さんを見て、私とカナは言葉を失う。
沙条さんは先程、霊魂のまま生きながらえることを要求していたけれど、それはこの心理に端を発していたんだ。瑞稀とのありふれた、それと同時にどこまでも得難くて、穏やかな毎日をもう一度送ること。それが沙条さんの抱えている心からの願い、なのだろうか。
だけど、そんなことが赦されるっていうの? 霊魂になった人間が、生者とともに何年も何十年も生き続けるなんてことが。沙条さんはもう、亡くなっている人間なのに。……いや、もしかすると、亡くなっていると考えること自体がおかしいのかもしれない。たとえ肉体を失っていようとも魂が消えていないなら、それを死者と呼ぶのさえ生者の価値観の押しつけで――
「――ガキの駄々もいい加減にしろよ、真琴……っ!」
シン、と静寂が落ちていた法廷に、瑞稀の怒号が響き渡った。
「真琴の言っていることはただの我儘だ! 何が一緒にいられるだけ一緒にいろ、だよ! そんなことが許されるわけ無いだろ! だって真琴は、とっくに死んでるんだから……!」
瑞稀は炯々と光る瞳で沙条さんのことを睨めつけながら、右手を宙に滑らせて霊槍を出現させる。ごっこ遊びに付き合うのはもう御免だ、とでも言うかのように。
沙条さんは怖々とした表情で、カツ、カツ、と足音を響かせながら近づいてくる瑞稀のことを見つめる。今の瑞稀の面構えは、私情を交えず淡々と標的を始末する殺し屋のようだった。
「私が約束を反故にした、か。……ふん、下らないな。あんなのは単なる口約束だ。それを本気にするほうがどうかしてるよ。死んだ霊魂と一緒に暮らせだなんて、笑わせる」
相対する旧友のことを軽蔑でもするように、ニヒルに口の端を吊り上げてみせる瑞稀。瑞稀が沙条さんの前にあるテーブルに霊槍を力強く叩きつけた。木製の机は真っ二つに折れるや否や、まるで最初から存在していなかったかのように消え失せた。
怯えた目つきでかつての親友のことを見つめる沙条さん。似合いもしないスーツを着込んで検事に扮している今の沙条さんは、文化祭で演劇でもしている女子生徒のようだった。
「私はカナほど善良な人間じゃないんだ。霊魂の願いはできることなら叶えてあげたいけれど、それにも限度というものがある。そんな筋の通らない低俗な願いは、叶えられないよ」
冷めた声音で淡々と口にしながら、瑞稀は霊槍の切っ先を沙条さんの喉元へと向けた。私達は息を呑む。これでいいのかという疑問と、これでいいんだという諦念が、胸中でせめぎ合う。
「私はもう、子供の感情論なんかに付き合ってはいられない。それができるほど純粋な存在ではなくなってしまってるんだよ、真琴」
死刑宣告のようにそれだけ言うと、瑞稀は柄を握る手に力を込める。
そして静かに、果断に、鋭利な槍の先端で沙条さんの喉笛を貫いて――
「嘘やな、それは」湖面に小石を投げ込んだかのように清廉な、それでいてよく通る声だった。
瑞稀の腕が、ピタリと止まる。機械的だった容貌に、ゆっくりと激情の冷たい炎が灯りだす。
「……嘘? 何が嘘だっていうんだ⁉ 我儘も程々にして! 私はもう二十三だ、十六のまま時計の針が止まった真琴とは違う! 子供の駄々に付き合っていられるほど、ガキじゃ――」
「なわけあるか、アホっ! あんたが物分りのいい大人だなんて、それこそ片腹痛いわ……っ!」
沙条さんはキッと両目を見開くと、向けられていた霊槍を右手でパシンと横に弾いた。それで瑞稀の顔つきが変化する。鬼のように荒々しいものでも、殺し屋のように温度のないものとも違う。もっと人間らしくてありふれた、喧嘩でもしているみたいな憤りの表情に。
「……っ、違う⁉ 何が違うっていうんだ⁉ 私はもう、いつまでも一緒だなんてことを言っていられるほど、子供じゃないんだよ! 道理を弁えた大人なんだよ!」
「嘘吐くなや! 演技もええかげんにせえ! あんたは未だに、未熟で厨二病でバカ真面目なガキのままや! じゃなきゃなんで瑞稀は、六年も前に死んだうちに会いに来てくれたんや⁉」
「……っ、それは」瑞稀が言葉を詰まらせた。沙条さんは何も言えずに押し黙っている瑞稀の胸ぐらをつかみ、背伸びして凄絶な表情になっている顔面を近づける。
「あんたが聞き分けのいい大人になってもうたなんて、大嘘や! もっと素直になったらどうや! わかっとるんよ……! あんたが本当は、うちのこと殺したいなんて思っとらんことくらい……! なあ、どうしてや? どうして、そんなにして正しさに固執するんや? ええやんか、間違えても。正しくなくても。うちは、あんたとまた二人で過ごせれば、それでええ」
「……駄目だ!」瑞稀の泣き叫ぶような悲鳴が、法廷に響き渡る。
「駄目なんだよ、それは! だって私には、それをする権利がない。資格がない。……そんなことしちゃ、いけないんだ」
「っ、相変わらず強情やな、瑞稀は。……ならええ。今度は瑞稀、あんたの番や。あんたの胸の内、ちょいとうちに見せてみい……っ!」
沙条さんが瑞稀に強烈な頭突きをかます。瞬間、法廷内にガラスの破片のような銀色の輝きが降り注ぐ。私とカナは何も言わずに目線を合わせ、流れ込んでくる記憶の波に意識を委ねた。
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