第32話 記憶(沙条真琴) 第二幕

 病院を囲うように造られたレンガ敷きの小ぶりな庭園には、神様が日本中からかき集めた春を撒き散らしたのではと勘ぐってしまいそうになるほど、穏やかな陽気が充満していた。柔らかい日差しが赤茶けたレンガをゆったりと照らしている。爽やかで温かいそよ風が一面のソメイヨシノの梢を揺らし、花びらを散らしては遠いところへ誘っていく。すぅ、と深く息を吸い込んでみると、春の匂いが肺一杯に充満してささやかな幸福感に満たされた。


 瑞稀と出会ってから一年近くが経とうとしていたその日、うちは瑞稀に手を繋いでもらいながら、淡桃色の花弁に彩られた病院構内を散歩していた。うちがさり気なく指先を絡めようとすると、瑞稀はそれを察して俗に言う恋人繋ぎをしてくれる。こんなふうに、日常のふとした瞬間に心が通じ合っていると実感する度、そこはかとない幸せがこみ上げてきて仕方なかった。


「……あ、すまん瑞稀。ちょっと、胸苦しなってきたわ。休憩してもええ?」


 しばらく歩いていると、心地よい胸の昂りとはまた別の、息が詰まるような苦しさが押し寄せてきた。瑞稀がうちを近くにあったベンチまで連れていく。うちらは並んで腰を下ろした。


「心臓、また手術するんだって?」


「ん、まあな。やっぱり、穴空いてしもうたから。そんで体力つけたほうがええと思うて、こうして散歩に付き合ってもらっとるってわけや。いつもすまんな、瑞稀」


「別にいいって。嫌じゃないからさ、真琴の面倒見るの。他にすることもないしね」


「……他にすることあったら、してくれへんの?」


「いや、そうは言ってないじゃん。今のはその、言葉の綾っていうか……」


 うちが拗ねたように言うと、瑞稀はやけにあたふたと弁明を始める。それがなんだかおかしくて、うちはたちまち吹き出してしまう。すると今度は、瑞稀がムスッといじけた顔になるので、うちのほうがすまんすまん、と冗談交じりに宥めてあげる。


 しばらく、益体もないやり取りを繰り返していたけれど、不意に会話が途切れた。互いに無言のまま、満開の桜木立をぼんやりと眺めだす。咲いたそばから散っていく花びらの儚さに当てられたせいだろうか。うちは、唐突に漠然とした心細さに襲われた。


 それは、ささやかながらも幸福に満ちているこの瞬間が壊れてしまう恐怖でもあり、いつか瑞稀がうちに愛想を尽かしてしまうのではという不安でもあり、こんな時間を死ぬまでにあと何回繰り返せるのだろうという疑問でもあった。


「……なあ、瑞稀」足元に目線を固定したまま、胸の底から押し出すように言葉を発した。


「これは、もしもの話なんやけどな。もしうちが死ぬようなことになったら……そのときは、瑞稀に手、握ってて欲しいねん。うち、一人で死ぬの、嫌やから」


「え? どうしたの、急に?」


「ええから聞いてや。……あとな、うち、ほんまのこと言うと、一人でいるのって結構怖いねん。だから、一緒にいられるうちは、ずっと一緒にいて欲しいんやけど……ええか?」


 横目に瑞稀の顔色を窺うと、瑞稀は面食らったように夜空を散りばめたみたいな両目をパチクリとしばたたいていた。でも、程なくして相好を崩して軽やかに笑うと。


「よくわからないけど、別にいいよ。そのくらいなら」


「ほんまに? ほんまのほんまに?」


「あー、はいはい。ほんまほんま。なんか、やけに念押ししてくるな、この話」


 らしくもない、とでも言いたげに苦笑する瑞稀。


 でも、それは違う。どちらかと言うと、これが本当のうちだから。うちは瑞稀が思っているほど、強い人間じゃないから。本当のうちは怖がりで、臆病で、甘えたがりの小心者にすぎない。ただ、そんなうちを瑞稀が変えてくれただけで。ちょっとだけ、強くしてくれただけで。


「……ん、ありがとうな。それ聞いて安心したわ。……うち、瑞稀のこと、好きやで」


「え、なに? 本当にどうしちゃったわけ、今日は?」


 面白いものでも見た、というふうにケラケラと瑞稀は笑う。それにつられて、うちも頬をほころばせて吹き出した。何の変哲もない、穏やかな春の日の午後の風景。


 このやり取りを最後に、うちらは庭園を後にして病室へと戻った。そこで少しだけ雑談をしたあとで、また明日、といつもどおりの挨拶をしてうちらは別れた。


 それが、生前に瑞稀と交わした最後の言葉となった。


 その日の晩、うちは心臓発作を起こして呆気なく事切れた。


 当然、瑞稀に手を握っていてもらうことは、叶わなかった。

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