第9話 心象世界(岸田恵美) 第一幕

「……ん。成功、したのかな」


 次に瞼を開いたときには、私はもう、現実世界にはいなかった。ゆっくりと立ち上がり、周辺の景色をキョロキョロと確認する。ここは……恐らく霊素村だ。霊素村の霊素発電所の中央に鎮座していた、円筒状の装置の内側だろう。装置と言っても地上に出ているのは円筒の側面に当たる部分だけで、内部は空洞になっていた。天上も吹き抜けになっている。要は、巨大なトイレットペーパーの芯を地面の上にぽんと置いたようなイメージ。


 足元は特に舗装されておらず、直径二十メートルほどの円形の赤茶けた大地が剥き出しになっていた。中央部に金属でできたマンホールらしきものがある。おそらく、この地下に変換炉や霊素貯蔵庫といった諸々の設備が建設されているのだろう。この円柱状の装置は、大気中の霊素を集めるための収集機だったと思う。目線を頭上に向けると、突き抜けるような夏の青空が円状に切り取られていて、井戸の底から空を見上げるカエルの気持ちを味わわされた。


「ここが恵美さんの心象世界、ですか。なんだか、面白みのない景色ですね」


 背後から声がした。振り返ると、徒手空拳のカナが物珍しそうに辺りを見回している。


「心象世界の在り方は、その人の記憶や人格、感情といったファクターによって決まります。ということは、あの二人はこの場所に頻繁に出入りしてたってことですか」


「うん、そういうこと。立入禁止だし、本当はいけないことだったんだけどね」


 いつの間にやら真澄さんの姿もあった。真澄さんは右手に例の木刀を携えていたけれど、その刀身からあの落書きは綺麗サッパリ消え失せている。それで私は安堵する。流石に、こっち側に来てまであの罵詈雑言の数々を見せつけられるのは嫌だった。


「二人共、魂抜けで酔ったりとかしてません? 大丈夫ですか?」


「私は問題ありません。このくらいなら平気ですね」


「私も大丈夫。さっき隅の方で戻してきたから、今はスッキリ」


「駄目じゃないですか……」


「いや、冗談だよ」真澄さんが肩を竦める。「余裕だってアピールしたかっただけだって」


 肩を大きく回してストレッチしながら、苦笑する真澄さん。本当かなぁ、と私が猜疑していると、「軽口を叩くだなんて、なんだか随分と余裕そうじゃん。生意気だね」セーラー服に身を包んだ少女が、片手で竹刀を持ちながら悠々とこちらに歩み寄ってくる。くっきりとした濃い眉に、快活そうな印象を受ける大きな両目。その眦はキッと鋭く釣り上がり、妹である真澄さんのことを炯々と光る眼で睨めつけている。


「二人は下がってて。あいつの相手は、私がするから」


 私とカナは言われたとおり後ろに下がり、剣を構えながら着々と距離を詰めていく二人のことを、固唾を呑んで見守る。


「ふん。生意気な口利いちゃって。真澄さぁ、あんた、わかってるの? 私に勝てたことなんか、ただの一度もなかったってこと。降参するなら、今のうちだけど?」


「それはこっちの台詞。十年近く鍛錬を怠ってた霊魂相手に、負ける要素なんか一つもないね」


「……そう。あくまで歯向かうつもりなんだ。なら、容赦はしないから――っ!」


 瞬間、恵美さんが大地を蹴った。土煙をド派手に上げて、真澄さんに向かって身をかがめながら疾駆する。対する真澄さんはどっしりと重心を落とし、きつく握りしめた木刀で、跳ね上がってくる恵美さんの竹刀を受け流した。返す刀で横一文字に振るわれた竹刀を、今度はくるりと半回転しながら流す。真澄さんは冷徹な眼差しを向けながら、恵美さんの怒涛の攻撃をダンスでも踊るかのような軽やかさで躱し続けていた。


「ねえ真澄、あんた、どうして抵抗するの⁉ だって真澄は昔から、私がついてあげなくちゃ何にもできなかったじゃん! 折角、また二人一緒にいられるチャンスなのに、どうしてそれを不意にするようなことするの! 馬鹿なの⁉ 反抗期なの⁉」


「……っ、しつこいなぁ! 生憎、反抗期はもうとっくに通り過ぎた後だってーの! 今の私は両親思いの孝行娘だ! あんたに口出しされなきゃいけないことなんか、一つもない!」


「ああそう、それはよかった! ってことは、私に対する反抗期だけが今更来たんだ。ごめんね、私のせいで。真澄を一人にしなければ、今頃はまた仲睦まじい姉妹でいられたのにね!」


 二人は激しい言い争いをしながら、目にも留まらぬ速さで剣を交える。心象世界はイメージの世界だ。意思や感情が強ければ強いほど、身体能力も強化されていく。今の私には二人の振るう剣の切っ先は、残像が描き出す滑らかな曲線としか視認することは叶わなかった。


「だから、その上から目線の口振りがうざいって言ってるんだよ、バカ姉貴! ……あのさぁ! いい加減現実見なよ! 私はもう、お姉ちゃんなんかいなくても、生きていけ――」


「なわけないっ!」一際鋭い恵美さんの一閃が、真澄さんの身体を木刀ごと突き飛ばした。アニメか何かみたいに真澄さんの身体は大きく吹っ飛んで、収集機の内壁にぶち当たる。


「真澄が、私なしでも大丈夫だなんて、なわけないっ! 今だってこうして、私の力を抑えきれなくて無様に吹っ飛ばされてるでしょ⁉ ……真澄はいつも弱かった。だから私が守ってあげるの。私が庇ってあげるの。それの……それの、何がいけないことだっていうの⁉ ねえ!」


 私が真澄さんの下に駆け寄ろうかと逡巡していると、突如として私達の眼前に、キラキラした白色の鱗粉のようなものが舞い降り始めた。その物質の持つ現実離れした美しさに目を奪われながらも、私は勢いよく隣のカナの方を向く。


「カナ! この光の粉みたいなの、記憶のカケラ! 記憶の流入が始まるから注意し――」


 咄嗟に呼びかけたその台詞を言い終える前に、私の意識は流れ込んできた他人の記憶に塗り潰された。私という存在そのものが記憶という情報に飲み込まれて書き換えられる、高次元的な奇妙な体験。そうして私は私でないまた別の誰かへと、一瞬にして生まれ変わるのだった。

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