第8話 荒御魂です。

 私達はずぶ濡れなのを厭うことなく電車に乗り込み、乗り換えのときには全力でホームをダッシュし、最寄り駅についてからも息を切らして必死で走った。駅からアパートまでの道中ではお寺での雨が可愛く思えるくらいの激しい雨が降っていて、ついた頃には私も真澄さんも川に落ちたみたいにずぶ濡れだった。


 真澄さんが扉を開け放ち、靴を脱ぎ捨てて中に入る。私も後に続く。


 次の瞬間、私は「な、なにこれ……⁉」と声を上げて驚愕した。真澄さんの部屋は、さながら大地震の後のように荒れに荒れた様相を呈していた。照明は壊れ、冷蔵庫や本棚といった家具は倒れ、床上には食器棚から落下して割れた皿類が散乱している。そんな中、狭い室内で霊槍を器用に振り回しているカナが、木刀を相手に大立ち回りを演じていた。持ち手の人間がいるわけでもないのに、木刀はひとりでに宙を舞い、ブン、ブン、と耳をつんざくような風切り音をさせながら、カナに襲いかかっている。まさにポルターガイストだった。


「やっと帰ってきた! もう、どこほっつき歩いてたの……⁉」


「ご、ごめん。ちょっと遠出して……」


 謝罪しながら素早く右目の眼帯を取って、霊視の魔眼を解放する。部屋の中央にぽつんと横たわったままの手鏡は、ありとあらゆる光を塗り込めるかのような、黒洞々たる暗黒のオーラに包まれていた。そこから波及した漆黒の霞が木刀を飲み込んで、縦横無尽に操っている。


 ……これが、荒御魂。知識としては知っていたけれど、実際に目の当たりにするのは初めてだった。皮膚を突き刺すような嫌な悪寒が全身を駆け巡り、怖気立つ。


 荒御魂とは、霊魂を形成する霊素が何らかの強い情動をきっかけに、活性霊素へと変化したもののことだ。活性霊素は物質と相互作用する性質があるから、荒御魂と化した霊魂は、今まさに目の前で行われているみたいな無茶苦茶な物理現象を引き起こすことが可能となる。俗に言う心霊現象やら霊障なんかの原因も、荒御魂であることが一般に知られている。


「嘘。なんで、あの木刀が……」


 呆然と立ち竦んでいた真澄さんが呟く。あれ。あの木刀、よく見るとマジックで何か文字が書いてある。通常の物理法則を無視した凄まじい速度で動き回るそれを、どうにか目を凝らして読んでみる。読んでみて、呼吸が止まった。


 そこに書き連ねられていた文言は、「霊素がうつる近づくな」「霊素汚染者は学校来るな」「霊素まき散らすな」「歩く活性霊素放出機」「霊素バカは消えろ」ここまで識別したところで私はそれ以上、読むのをやめた。……霊素差別。大震災の直後にあった社会現象の一つだった。


「これに関しては、完全に私の落ち度です。岸田恵美が、押入れの中をどうしても見たいっていうので、見せたら、これが出てきて……! ああもうっ、さっきからちょこまかと……っ!」


「うるさいっ! 小賢しいのはそっちでしょ⁉ いい加減、さっさとくたばったらどう⁉」


 鼓膜を貫くような金切り声。最初、それが恵美さんのものであると信じることができなかった。今の恵美さんの怒声は、今までの明朗なそれとは似ても似つかない。


「ちょっとお姉ちゃん……⁉ どうしてカナちゃんを攻撃するの⁉ 私達、この子がいたから再会できたんでしょ? なのに、こんな仕打ちするなんて……!」


「だから何なの⁉ 確かに、そのことに関しては感謝してる! でも、私を霊素へと分解して、真澄と引き剥がそうとするのもこの子でしょ⁉ なら、こいつは邪魔者なんだ! 私はもう二度と、真澄のことを一人きりにしたりはしない……!」


 ガキンッ! と一際強い剣戟の音が鳴り響く。カナがついに体勢を崩し、小さくよろめいた。


「カナ、大丈夫⁉」


「っ、すみません、醜態を晒しました。……こんな姿、あの人に見られたら笑われますね」


 あの人? 誰のことだろう? カナの口から飛び出した聞き慣れない単語に当惑したせいで、凄まじい風切り音を響かせながら木刀が迫っていることに気づくのが遅れた。カナがよろめいた隙を突いてきたのだ。まずい! ぶつかる! 私は反射的に目を瞑り、頭を両腕で覆った。


 が、予想していた激痛はいつまで経っても襲っては来なかった。恐る恐る瞼を開く。


「……真澄。なんの、つもりなの?」


 私達を庇うように、真澄さんが両腕を大きく広げて木刀と対峙していた。恵美さんの威圧的な問いかけが、雨音の響く部屋の中にじっとりと染み入った。


「見ればわかるでしょ。守ってるんだよ。お姉ちゃんのガキ臭い駄々から、この二人をね」


「守、る? ……なにそれ、意味わかんない。……違う。違う違う違うっ! なんで真澄が二人を庇うの⁉ 真澄は、私に守られてればいいの! 私が真澄を守らないといけないの! ……私ね、わかるよ。真澄はさ、私がいない間に辛いことが沢山あったんだよね。ごめんね、一人にして。ごめんね、助けてあげられなくて。ごめんね、守ってあげられなくて」


 耳をつんざくようだった怒声が一変。甘い、相手のことを包み込むかのような猫撫で声に相転移する。一瞬にして行われた雰囲気の変化に、私は底抜けの気味悪さを覚えて戦慄した。


「でも、もう心配しないでいいから。私はもう、真澄から離れない。これからはずっと、未来永劫、真澄がお婆ちゃんになっても、真澄が私みたいな幽霊になっても、ずっとずっとずっと、ありとあらゆる困難から、真澄を庇ってあげ――」


「うるさいよ、クソ姉貴」


 シン、と場に静寂が落ちる。滔々と流れ行く慈愛に満ちた言葉の河を、端的な、けれど研ぎ澄まされた刃のような一言が、バサリと切った。


「……え? ます、み? 今、なんて……」


「だから、うるさいって言ってるの。……はぁ、うっざ。いい加減、あんたの姉貴面にも飽き飽きしてたところなんだよね。私を守る? 私を庇う? なにそれ、ばっかみたい。自分が一番子供のくせして、なに保護者気取ってるわけ? 本当、呆れを通り越して笑っちゃう」


 ふ、と侮蔑するかのような嘲笑をこぼしつつ、冷ややかな目線を手鏡へと落としている真澄さん。明らかに挑発していた。私もおずおずと鏡面を覗き込んでみる。すると恵美さんは、それこそ魂が抜け落ちてしまったかのような、茫然自失とした表情を浮かべていた。


「夜見塚さん、荒御魂化してしまった霊魂は、通常の方法で回収することは不可能です。その魔眼で魂抜けを起こしてください。私が、恵美さんの心象世界に入ります。そこであの人の心を砕けば、荒御魂であろうと霊素へ崩壊させることができますから」


「え? 心象世界に入るって……つまり、カナの魂の出力先を変えろってこと……⁉」


 そんな芸当、通常の人工魔眼では到底不可能だけど、私の魔眼を用いればできないことはない。でもそれは、リスクの伴う行為だ。こちら側が恵美さんの精神を破壊して霊魂を崩壊させることが可能になるのと同様に、私達の精神にも著しいダメージが及ぶ危険性がある。


 私とカナはしばし言い争いをする。すると真澄さんが、「そういうことなら私が行く」と口論に割って入ってきた。出し抜けな申し出に私とカナが面食らっていると、真澄さんは水気を含んだ髪の毛を右手でバサリと払い、凛としたクールな流し目で私たちのことを一瞥してきた。


「お姉ちゃんの心象世界には、私が行く。それで、私がこのバカ姉貴に引導を渡してくる。その役割は私が果たさなきゃ意味がないの。他の誰かに肩代わりなんか、させない」


 有無を言わさぬ強い口調で発せられたその言葉は、投擲された槍の一刺しのように鋭く、真っ直ぐに、私の心臓にぐさりと突き刺さった。私は一度、唾を飲む。


「だ、だけど……。それでもし、真澄さんになにかあったら……私の、」


 私の、責任になるんですよね。喉から出かかったその言葉を、私はすんでのところで押し留めた。下唇を強く噛む。こんなときにも自己保身のことしか考えられない自分に嫌気が差して、私は顔を俯けた。


「大丈夫だよ、心配しなくっても」頭にぽん、と手を置かれた感触があって、私は顔を上げた。


「要するに、あの姉貴を改心せればいいってことでしょ? そのくらい朝飯前だから、そんな顔するなって。けりは私がつけるって、さっき言ったでしょ?」


 こんな状況だと言うのに真澄さんはにっ、と爽やかな笑みを口元に浮かべていた。恵美さんが荒御魂になって一番ショックを受けているのは、真澄さんのはずなのに。


「……わかりました」それで私も、ようやく覚悟が決まった。こくり、と首を大きく縦に振る。


「夜見塚さん、わかってると思いますけど私のこともお願いします。流石に、真澄さん一人を心象世界に送るのは危険ですから」


「うん、わかってる。じゃあ二人共、身構えてください。高次元方向の移動が伴うので、魔眼持ちじゃない二人には応えると思いますから。それじゃ、行きますね――!」


 私は魔眼の焦点を更に深くして、生きた人間の霊魂を認知する。魂の形を捉え、矢印の向きを変え、力を与えて出力先を変えていく。


「……っ、ああそう。そんな生意気言うようになったんだ。反抗期ってやつ? なら、思い知らせてあげる。あんたは所詮、私に守られなきゃ何にもできないってことを――!」


 だんまりだった恵美さんが、敵意に満ちた雄叫びを上げる。彼女の放つ禍々しいオーラの奥底に、三人分の魂を放り込んで固定する。徐々に、私の意識が漆黒に塗り込められていく。夢の世界に投げ出されるような感覚を味わいながら、私達はぷっつりとその意識を失った。

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