第9話「早春賦」
はるは、なのみの
かぜのさむさや
たにの、ウグイス
うたはおもえど
ときに、あらずと
こえもたてず
博多、売る銭、端の花長
生む、ものぐさ、笑み火傷の巣
「とこしえにも荒立てず」
日本語の特徴「たてに読む」を
してみました。博多の花街で燃える思いに身を焦がす人を、おませさん、となだめる歌です。
人の命を産み出すことは
本来多大な責任があります。
命は粗末に出来ないからです。
花街は、命を作る方法を
命を作らずに「試す」場所なので
命を作ってしまうと「失敗」です。
花街では、心は命と知っているので
心のない状態で、本当の命を作る前の
練習をするので、接客にお金がかかりました。本当に、授業料だったのです。
それでできた子供は、心の遺伝のない
獣の子、と呼ばれました。
心の遺伝とは、「原理の理解」です。
人の子なら、国を知ります。
獣の子なら、己を知ります。
己と国を知るなら、神の子なのです。
花街は、正しい出会いの確率フラグをあげる場でもあったのです。
パトロンと呼ばれる人たちは、骨董市で他人から不要と呼ばれたものの中から、自分の由来と響き会うものを探すように、花街で、異性を探したのです。他人が不要と言わなければ自分だけに響く由来であることを安心できないのが当たり前なのだと理解していたのです。
それは、遺伝の子を得るためです。
一生で、時間が足りないので
命を注ぎ継ぐわけです。
花街の遊びは、小粋でなきゃいけない
旦那たちが、そんな粋の台詞を言えたのは、
それを「分かって」いたからです。
やはりジブリのアニメの話になりますが、もののけ姫という作品の中で、西から来た猪は、「みな馬鹿になってしまった」と嘆きます。
言葉を理解する獣は、強さを追求し極めた姿でした。山犬も同じです。
ところが、それは、彼らの個体の努力と熱意によるもので、遺伝子は追い付かず、「皆、馬鹿」となってしまっています。
山犬の遺伝子は、子供の数がわずかです。
若い山犬は、言葉を理解できます。
遺伝子の数が、少ない方が、正しく伝わり遺されます。
遺伝子は、数ではないのです。
量と質の未来の姿を、獣たちは揶揄しているのです。
アニメでは、破壊するだけの猪の「群れ」は、山を破壊します。山犬は、人間の子供と共存していました。
獣たちの相関図は、登場する人間とシンクロしているのです。アシタカは、デイダラボッチのような介入する第三者です。人間の子供を引き取ろうとします。するとエボシは、猪とシンクロします。化見殺し、とジパシリが呼んだ騒ぎのもとは、エボシが倒れることに共振するからこそ、彼女は、腕を食われ、アシタカの腕に、呪いがかかっているのです。
猪と山犬は、亡くなります。
エボシとアシタカとサン、は獣と神と人を象徴しています。「双方生きる道はないのか」という台詞は、お互い様で関われないのかという神の言葉です。
神と獣が、人を奪い合うのです。
獣と人が、神を奪い合っています。
わからない、知らない
そこまでは、我慢します。
「知らなくていい」と宣言してしまえば
無知を決め込む訳ですから、鞭を振るうのと変わりません。
「知らないままでいい」
「知りたくない」
そう言う度に、心の姿が獣になるのです。
「感じたい」と彼らは言いますが、感じることは、知覚の1つですから、感じることは、知ることの1つです。言葉をうまく使えていないことの証拠です。
つまり、主張と態度を合わせて察すると、判断すると、総括ではなく、専門を受け持ちたいそのような希望をしているということです。
知覚の中の感覚を大事にしたいというのは、難儀です。感覚は、心の知です。
目と視覚、鼻と嗅覚、口と味覚、耳と聴覚、肌と触覚。心と感覚。
明らかに、感覚だけは異質です。
あいうえお&「ん」と同じぐらい、明らかに違う仲間はずれがいます。
ひらがなでは、この組み合わせが、合わさってこよると、な行で、かな表の真ん中にそびえています。そびえていて、更に、あいうえお、わいうえを、と骨と皮のように、国語の形を守っています。
なぜこんなことが起こったか。
国というのは、民草を守るために臣を使役します。王というのは、国である理由を守っているので、臣は、王を助けます。
臣にとって、自分達は王の手足であり、民は王のものです。
国は、国のために、王を持ち臣を使って民を動かすものなのです。国は、王のものではありません。
国という字から王を取り外すと太陽の日の字が、あるのです。
王が、太陽のように暖かいことが国なのです。だから王が国を運営するルールである法律は、命という温もりを基本にしています。
民を切り捨て、力ある臣を使役することばかりに腕を振るう王は、国ではありません。
日陰を作るビルであるなら、それは、古墳の果ての墓標です。
日本が、中国から日本への移住と帰化を受け入れても、言葉が通じ会わない彼らができることは、ルーティングとどうしようもない本能を満たすことだけでした。人の姿をした獣では、王のために働く事(民化)はできません。
けれども、命の構造を知っていた王は、命を継ぐために、貴族たちに、人を探すことを命じました。運命の人というのは、明確に、命の継ぎをかなえる「時」を持たないと、「時」を味方に出来ないよ、というものです。貴族たちは、それこそ、言葉を修練していたので、時に叶う相手を集められた王の民から、探したのです。人が「いらない」という人にこそ、自分に「響き会う」人が居るということです。
彼らは、それが、老女でも熟女でも幼女でも、「人であるために」を世界に継いでいくために、そうしました(源氏物語)。だから、王は、農民が面倒見切れない子供たちを引き取って、言葉を教えたのです。あせる貴族が間違えたときには、それを教えなさい、と。
花街には、花街のルールがあります。
特に、臣(藤原氏)がクーデターをしてからは、王の秘密を守る為なのか、言葉も複雑になりました。実際には複雑になどなっていないのですが、耳学問の人たちが、はしゃいで間違いを広めてしまったのです。
花魁の水揚げを胴元が拒み相手を吟味する理由は、命の法によりました。
無能な胴元が、それを真似して、命ではなく、カネで水揚げ相手を選んだので、その業界の全体が馬鹿にされるようになりました。
職業に貴賤はないというのは、遺伝子の本質が、血ではなく、時を積むことにあったからなのです。
胴元が、日系人に変わると、理屈を知らない彼らは、財の力にものを言わせて、欲しい「もの」として、彼女たちを引っ張り出し始めました。
どんなことでも、手練れが治めるのと、無能が治めるのでは、形式とルールが同じでも、違った中身を持つのです。その事を黒いカラスを白いと言うと揶揄しているのが、言葉の力の本来が表している伝聞です。
全く同じルールと花街という器を用意されても、コロコロと運営者の変わる世界と、時代を受け継ぎながら、細々と同じ場所で続いていくのは、理念の違いでしかありません。
同じ場所に、同じ種を蒔いても、同じ収穫にならないと、農民は知っていましたので、同じ場所で続いていく事が力になるとは限らないことを、彼らは知っています。
だから、何を知っているのか
それは、とても重要なことです。
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