第37話











「マオー! ご飯出来たわよー!」


 庭で遊んでいるとそんな声が背中から飛んでくる。

 振り返れば笑顔を浮かべた母親が、私のことを呼んでいた。

 私はそれに満面の笑みで答えた。


「ママ! 今行くよ! 今日のご飯はー?」


「カレーよー!」


「わあ!」


 香辛料の香りがここまで届く。

 私は庭を小走りで駆けて家に向かうと母親に頭を撫でられながら、そのままリビングにまでやってきた。

 食卓にはカレーが並んでいて、父親が新聞を読んでいたがマオが来ると優しげな笑みを浮かべた。


「今日はなにか見つけられたかい?」


「カマキリ! 引っ掻かれそうになった!」


「はっはっ! 怪我だけはしないようにね、マオ」


 私は椅子の上に座って、手を合わせる。


「ちょっとマオ? お手手は洗った?」


「あっ!」


「ふふふ、早く食べたいのはわかるけど、バイ菌さんが美味しいカレーを食べちゃうわよ」


「洗ってくる!」


 母親と父親はぴゅんと駆ける私を微笑ましげに見ていた。


 幸せな家庭。

 在り来りで普通の幸せな日常。

 温かな家庭がそこにあって、私は愛を一心に受けて育っていた。




「実験失敗しました。被検体は超獣因子に耐えきれずに死亡。グールに成り果てたので殺処分しておきました」


 視界がいつの間にか変わっていて、私はボサボサの髪にくまだらけの目元をしていた。ヨレヨレの白衣を着た私は、とてもじゃないが幸せには見えない。


 私の足元には無数の屍が転がっている。

 それらの殆どは自分と同じくらいの子供で、それらは私を恨めしそうに見つめていた。


 顔を手で覆う。

 何も見たくない。

 目を瞑って、耳を塞いで、口を閉ざして。


 何も見たくない。

 聞きたくない。

 喋りたくない。


 けれど私のあまりにも高度な頭脳は、ずっと求められてきた。

「人類のため」「人類を救うため」「世界を元通りにするため」。そんな言葉に騙されて私が作ったものは、ただの非人道的な技術の数々で。


「償え」


 足元に転がる屍達は口を揃えて短な言葉を放つ。


「…もう、殺してくれ」















 マオは目を覚ました。

 一人薄暗い見慣れた部屋の中。

 着たままの服で寝ていたのか、ヨレヨレだった白衣はいつもに増してヨレヨレだ。


 身を起こしてベッドの縁に座ると、マオはベッドの下に隠していた収納を取り出し、その中に入っていた拳銃を手に取った。


 弾倉を抜いて弾丸が入ってるのを確認すると、再び弾倉を戻し、銃口をこめかみに押し当てた。

 目を閉じて、引き金を引く。


 銃声が鳴り響いた。

 銃弾は放たれ、マオの頭に風穴を開けるはずだった。


「何勝手に死のうとしてんだよ」


 けれど許されない。

 それは許されない行為で、マオが望みながら成せないもの。

 背後から聞こえてきた声に、マオは深いため息をついた。また死ねなかったと。


「ユキ…」


「普通に呼び出せよ。話がしたいならよ」


 マオの背後から伸びてきた手は、マオが持っていた拳銃を取り上げる。

 マオが振り返ればそこには白髪で黒いジャージ姿のユキがベッドの上で寝転がっていた。

 当然だが、ユキは最初からこの部屋にはいないはずだった。マオしかいない部屋の中に、ユキが突然現れたのである。


「…私への罰はなんだ?」


「アルミナの罰を肩代わりするってやつか。考えてないぜ」


「……」


「殺しても痛めつけても、お前は苦しまない。当然のことだって受け入れちまう。なら現状維持がいいだろ?」


 ユキの言葉にマオは苦々しい顔を浮かべた。

 ユキはマオの苦しめ方をよく理解している。マオを殺すことしか考えていなかったアルミナよりもよっぽど。


「最大限幸せで惨めに生かしてやるよ。今まで通り」


 ユキは不敵な笑みを浮かべていた。

 マオが顔を俯かせると、ユキはマオの背後からマオのことを抱き締める。

 柔らかで温かい感覚にマオの心が満たされるような感覚に襲われ、慌ててユキのことを引き剥がす。


「……やめろ」


「嫌がってない癖に」


「…嫌なんだよ。お前にこうされて嫌がらない自分が、”幸せ”を感じる自分が」


 マオの言葉にユキは楽しそうに笑った。


 マオは幸せなど感じたくなかった。

 自分は他人の幸せを奪って、それで成果を上げて、最後には失敗した人間であって、幸せを感じる権利など持ち合わせていない。


 自分が切り捨てた無数の命を差し置いて自分だけが幸せになるなどマオには到底許せるものではなく、マオはずっと「死」を願っていた。


 けれどマオは死ねなかった。

 どれだけ死のうとしてもマオは死ねない。

 それもこれもユキのせいであった。


「死にたがりを苦しめるのは生かすのが一番いい」


 ユキはマオのことを背後から抱きしめながら耳元でそう囁く。


「…私は早く楽になりたいんだ」


「本当にそうか? ユウヒとつるんでる時のお前は楽しそうだ。それに外にも出るようになった」


 ユキに図星をつかれてマオは少しだけ眉を潜めた。

 ユウヒとはいつしか友人のような関係になっていた。悪友とも言えるか。ユウヒといる時、マオは気楽で心が軽くなるような、そんな感覚に襲われていた。


 共に居ても棘にならない。あんな刺々しい排他的な評判な人間が、一度懐に入れた人間に対しては優しいなんて信じられなかった。

 けれどそれは事実で、どうしようもないろくでなしの自分までも救おうとしてきたのは「馬鹿」としか言いようがない。


「…私が外に出られたのは、お前が私への”認知制限”を解除したからだろう?」


「ユウヒとマオが出会った時から私はお前への”認知制限”をなくしてた。自分の足で外に出られたのはそれが理由だぜ」


「…言えよ」


「死ぬことを理由にして外に出たやつが文句言うな」


 ユキの言う通りだ。


 マオは外に出ることを恐れている。

 自分のことを知られるのを極端に恐れているからだ。


 マオがあの時外に出たのは死ぬ機会ができたから。

 ユキも流石にユウヒの目の前で死なせないような真似はしないだろうと踏んだからだった。

 けれどその判断は過ちで、ユウヒの優しさなど考慮していなかった。

 ただ死にたかっただけ。

 誰かを救う覚悟など微塵もなかった。


 結果的にユウヒが死んだ。

 それはユキの逆鱗に触れ、アルミナは精神を病んだ。

 覚悟も何もなかった、考えなしにその場に出向いたマオが悪いだけで二人の人間を不幸にしたのだ。


「現実改変はあまりしたくねえんだ。俺はお前の言う人類の足掻きを見たいからな」


「でもお前はユウヒがまた死んだらどうせ事実を書き換えるんだろ?」


「俺の妹はそこまで馬鹿じゃない。それにあいつは自分が死んだことを何故か覚えてる」


「…なんだって?」


 マオが純粋に驚く。

 しかし同時に納得する。


 ユウヒの強さはマオから見ても異常だった。超獣因子の許容量も途方もなく、その成長速度も目を見張るものがある。


 なにせユウヒはユキの妹なのだ。

 あの異常なる強さが遺伝から来るものなら納得せざるを得ない。


「ユウヒには俺の力が働かないんだ。今いるSKBW共も、俺の力に抵抗できてるだろ」


「…それとこれとは話が違う。もしに目をつけられたらどうするつもりだ?」


「俺が手を出すのは最終手段だ。人類同士のいざこざは人類で解決するんだな」


「…いいか。ユキ、”最初の科学者達”の生き残りは私だけじゃないんだ。はお前を売ったんだぞ。あいつがユウヒに手を出さない訳がない」


 マオはユキを説得するように話す。

 それを聞いていたユキは楽しげに口端を持ち上げた。


「なんだよ、お前ユウヒが心配なんだな」


「………違う。……私はただお前が世界を滅ぼさないか心配なだけだ」


「正直になれよ。そうやってひねくれてるから目の下のくまが取れないんだぞ」


 ユキがマオのくまだらけの目の下を指で優しく撫でながらそう話した。


「SKBWをまた作るのなら、それがあの男の選択で、人類の選択なんだろうよ。愚かなだけで滅ぼす理由にはならない」


「…あの男を愚かと言えるのはお前くらいだよ」


「はっ、価値もない人間を評価するだけ無駄だ」


「…お前はユウヒであっても手を貸す気はないのか?」


 マオの問いにユキは即答で「ないな」と答えを返した。


「俺の妹はヤワじゃない。それに俺が手を出したらつまらないだろ。俺は傍観者でいい。人類がこの世界を生み出したんだ。解決するのは人間であって、俺ではない。ユウヒも例外じゃない、あいつはこの崩壊した世界で足掻いて、解決に導いてくれるんじゃねえか」


 ユキはユウヒのことを信頼しているらしい。

 マオもユウヒを信頼している。けれど今回の件もあって不安もあった。

 けれどユウヒの成長速度は尋常ではない。問題があるとすれば性格くらいか、ただ色々な人と関わってユウヒも最初と会った時と比べたら少しだけ明るくなったような気がした。


「足掻き続けろ人類。俺は楽しませてもらうよ」


 ユキが嗤う。

 それは超越者の台詞。神に至った者の言葉であり、ユキが人間でないことの証明であった。









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