第35話









 血液を撒き散らしてユウヒが芝の上に倒れた。


 頭には穴が空いていてそれは後頭部にまで続いている。仰向けに地面に倒れたユウヒはピクリとも動かず、芝の上に広がっていく赤い液体が濃厚な死の匂いを放っている。


 アルミナはそんなユウヒのことを見下ろしてからマオの方を見据えた。

 マオは尻もちを着いて恐怖のあまり青ざめている。


「…嘘だろ? ユウヒ」


 マオがポツリつ呟く。

 マオは心のどこかでユウヒならこの状況でも何とかしてくれるのかもしれない。そんな希望を抱いていた。

 けれどそれは目の前で打ち砕かれ、ユウヒは今ただの肉の詰まった袋となって地面に転がっている。


「ゆーちゃん…?」


 ユキが亡骸となったユウヒに駆け寄り、血で汚れるのも厭わずにユウヒの身体を持ち上げようとするが力の入っていないユウヒの体はユキの手には重すぎた。


「なん、なんてことを、したんだ、アルミナ」


 マオが明らかに動揺しながらアルミナにそんな言葉をぶつけた。アルミナは表面上平静を保ちながらマオのことを睨みつける。


「貴方が彼女を殺したも同然だよ、マオ。貴方が大人しく死んでいてくれればこんなことにはならなかった」


 責任転嫁。

 アルミナは動揺を押し殺すために、自分の罪をなすり付ける為に、マオにそう言ってのけた。

 ユウヒが自分の言うことを鵜呑みにするとは思えなかった。なにせニコ一人のためにシティからゾーン1まで走って助けに行くような人間だ。マオのことも放っておかない。


 保険に保険をかけてこの弾丸を用意しておいたのだが、ユウヒに通用して安心感すら覚えた。

 この弾丸で死ななかったらいよいよ化け物だ。それこそカテゴリー5に匹敵する人間ということになる。


 だが、通用した。

 通用してユウヒは死んだ。


「ち、ちがう、私が言いたいのはそういうことじゃない、お、お前は、お前は


 マオが体を震えさせあまりにも理知的とは思えない恐怖に屈したような態度でアルミナに告げる。

 アルミナにはマオがここまで動揺するとは思っていなかった。それに言っていることも意味不明であった。


「何を言ってるの? 人の死なんて数え切れないほど見てきた貴方が」


「理解しろ! お前、そろそろわかるだろ!? なんでユキがここにいるかを!」


 マオが叫んだ。

 そこでアルミナは気づいた。

 マオは最初からアルミナに目を向けていない。その目はユウヒの死体…いや、ユウヒの死体の傍で座り込んでいるユキに向けられていた。


「何が言いたいのか…」


「ユキ、だめだ、世界だけは終わらせないでやってくれ。私が償う、私が償うから、それだけはやめてくれ…」


 マオはもうアルミナのことなど眼中にない。

 その目はずっとユキに固定されていて、ユキは何も喋らない。

 アルミナはユキから得体の知れない不気味さを感じ取っていた。マオの意味不明な言葉もそれに拍車をかける。


「…お前が殺した」


 低い声。ユキのものだ。

 だが、その言葉が発せられた瞬間、重力が倍増した。

 それは錯覚だ。

 錯覚だと気づいているのに、重苦しい感覚がアルミナの背を這い上がる。

 アルミナの呼吸が乱れる。


 目の前にいるのはユキであって、ユキじゃない。


 怪物がそこにいる。



「お前が殺したんだ」



 ユキがアルミナの方に振り向いた。

 そのユキの顔を見たアルミナは目を見開く。

 その顔はとても人間のものでは無い。


 深淵。


 そう表現するしかない。

 暗がりの底から無数の眼球がアルミナのことを見つめている。蠢くそれらはアルミナのことを静かに見据えていた。


 アルミナは身の危険を感じとり、咄嗟にユキの首に着いている爆弾の遠隔起爆装置を起動した。


 炸裂音。

 怪物の頭が宙に舞い上がった。


 首のないユキの体は力なく地面に倒れて、遅れてユキの頭も芝の上に落下する。

 アルミナは確実にユキを殺した。


 ────筈だった。


 一息つこうとしたアルミナの目の前で信じられないことが起きたのだ。


 首のないユキの体がふらりと立ち上がったのである。

 その体はおかしな事に、首から上を爆破されているというのに血の一滴も流れていない。

 いや、流れている。だがそれは血ではない。

 得体の知れない墨のような黒い液体であった。


 ユキの体は自分の頭を拾い上げると、それを自分の体にくっつけた。

 それだけでユキの体は復元され、ユキはゆらりとアルミナの方に振り返る。

 さっきのは幻覚だったのか、いつも通りのユキの顔がそあった。

 三日月のような笑みを浮かべてアルミナの前に立っている。


「あ、貴方は…なに? なんなの!?」


 ユキは何も答えない。


 笑っているだけ。


 ユキの右目からは青白い炎が吹き出ていて、それがユキの異常性を物語っている。


 ユキが右手を目の前に差し出すとアルミナのことを指差した。

 ユキの右手、人差し指の先端から黒い液体が地面に向かって流れ落ちる。それは瞬く間にアルミナの足元にまで広がり、埼玉スタジアム全体を覆い尽くした。


 真っ黒な空間。

 しかしユキの姿もマオの姿もアルミナにはなんの問題もなく視認できた。暗闇と言う訳ではないようだが、どういう理屈なのかアルミナには一切理解できない。

 それが「モッド」なのか「イディア」なのかさえも怪しい。なにかもっと、別の恐ろしい力ではないのか? そんな考えすら思い浮かんだ。


 アルミナはゆっくりと背中に背負っていた小銃を降ろすとユキに向ける。

 とても殺せる相手のようには思えない。

 しかし抗わなければどの道死ぬのは自分だった。


 ユキは一言も喋らない。

 その目にはなんの感情も浮かんでいない。

 しかし口元は笑っている。


 目の前にいるそれは人間ではない。

 怪物、超獣…下手をするとなにか別のものなのかもしれない。


 アルミナは躊躇うことなくユキに銃口を向けて引き金を引いた。

 だが、アルミナが小銃の引き金を引いても銃口からは何も出ない。弾詰まりを疑ったアルミナだったが、そもそもアルミナが手に持っていたのは小銃ではなかった。


 アルミナの手には得体の知れない生き物がいた。

 それは筋肉組織だけで構成された皮のない肉の塊で、無数の虚ろな、黄色く濁った目玉がアルミナのことを見つめている。


「っ!」


 アルミナは咄嗟にそれを投げ捨てた。

 粘性の高い液体が飛び散ったような音を鳴らして黒い地面にそれが叩き付けられる。

 そして叩き付けられたそれが、なにか金切り声のような音を出していた。


[…エ…ぢゃん……ダイ……オネエ…ヂャン……イたイ…よ…]


「…なんで、なにこれ。やめてよ。嘘でしょ…?」


 肉の塊はアルミナのことを見つめている。

 アルミナは尻餅をついていて、それでいてその肉の塊から目を離すことが出来ない。


 肉の塊は、アルミナのことを「お姉ちゃん」と呼んでいて、アルミナのことをそう呼ぶのはこの世でただ一人だけであった。


「エル…シア…?」


[オネエ…ヂャン……ワ…タシ……エルじア……]


 吐き気。

 アルミナの喉を胃の内容物がせり上がってくる。

 アルミナはそれに耐えきれず、黒い床に吐瀉物を撒き散らした。

 噎せながらもなんとか呼吸を整えて、アルミナは嘆願するように口を開いた。


「…やめて、やめてユキ。もうわかった、わかったから!」


「何をわかったんだ?」


 地面に手を着いているアルミナの顔をユキが笑いながら覗き込んでくる。この怪物はずっと笑っている。


「何もわかってない。お前はただ苦しみから逃れたいだけだ。それに私はお前が何かを理解したとしても、お前をこの苦しみから解放してやることはまずない」


 ユキがいつの間にかアルミナが投げ捨てた肉の塊を拾い上げていた。

 拾い上げた、というのは些か表現が異なる。

 ユキが人差し指を振れば肉の塊は勝手に宙に浮かび上がり、アルミナの目の前にまで運ばれてきた。


「これはなんだ? 言ってみろ」


[オネエ…ヂャン……サムイ……ヨ……イダイ……ヨ……]


「ハァ…! ハァ…! ハァ……!」


 違う、これは幻覚だ。

 ユキに見せられているなんらかの「モッド」で発動された幻覚。それ以外には考えられない。


「残念だが現実だ」


 肉の塊が破裂した。


 水風船が破裂したように液体が飛び散って、アルミナの顔にもその液体がかかる。

 目の前に転がってきたのは肉の塊に生えていた眼球で、その瞳の色は”藍色”をしていた。

 藍色の瞳をしている者なんてアルミナの記憶では一人だけしかいない。

 地面に無数に転がる藍色の瞳をした目玉が全てアルミナのことを恨みがましく見つめている。


 アルミナは叫んだ。


 喉が張り裂けそうになるほど叫び、頭を掻き毟る。

 目の前のこれは妹なのだと気づいてしまったから。

 この肉の塊こそがエルシアなのだと。


 ユキはそれを見下ろして笑っている。


「ユキ…やめてやって、ほしい」


 そんなユキの背後からマオが震える声で言葉をかけた。ユキはマオの方に振り向くと能面のような無表情を浮かべる。


「なんで?」


「…アルミナ、は、悪くない…。私が、私が悪いんだ…。だから、その…」


「お前の何が悪いんだ?」


「…全てだ。ここに至るまでの全て…私が悪い」


 マオは震えて今にも崩れ落ちそうな膝を内心で叱責しながら何とか立っていた。

 ユキはいつの間にか、マオの目の前に立っている。マオの頬に手を添えて、無表情のままマオのことを見つめている。


「お前は何を差し出せる?」


「…もう、私は全部をユキに差し出した。私が差し出すものは…ユキが決めていい」


「わかった」


 ユキはマオの言葉で不敵な笑みを浮かべると、指を弾いて軽快な音を鳴らした。














 ****














 ユウヒはハッとしたように目を開いた。

 慌てて体を起こし、自分の胸元に目をやった。そこに傷跡は一切存在せず、服も至って通常通り。まるで先程起きたのは夢だったかのように自分の体は平常を保っている。


 ユウヒが周りを見渡す。

 そこはマオの部屋のようだった。ユウヒはマオの部屋のソファで眠っていたようだった。


「目が覚めたか。随分うなされてたが」


 色黒炭酸水の入ったアルミ缶を片手にマオがユウヒのことを見下ろしている。


「……何が起きたんですか?」


「何言ってるんだ? 何も起きちゃいない。お前はあの戦いから戻ってきて、疲れて私のソファを占領して寝てただけだよ」


「…あの戦い?」


「なんだ? ボケたのか? 敢えて説明してやるなら、お前はアルミナと戦って勝利した。アルミナは今スレイヤーズ本部の特殊収容所にいて、お前はここに来て寝た。それだけだよ」


 マオの口から説明されたそれと自分自身の記憶がまるで違うことにユウヒは気づく。

 ユウヒはアルミナに殺された筈だった。最後に見たのは対物ライフルの銃口から吹き出た炎で、それで────。


「悪い夢でも見てたようだな。まあ接戦だったしな。とりあえずシャワーでも浴びてこいよ。臭いぞ」


 マオにそう言われてもユウヒはどこか納得しきれてはいなかった。






 話によれば、ユキもマオもユウヒのお陰で無事に帰ってくることが出来たらしい。アルミナは重傷を負っているが命に別状はないらしく、今は収容施設の医療病棟で治療を受けているようだ。


「よくやってくれたよ。ユウヒ君。優秀かつ重要な人材を二人も失いかけた事態をよく解決してくれた」


 対面に座るシオリがコーヒーの入ったカップを片手にそう告げてくる。

 重要な人材というのはマオとユウヒのことか。

 ユキは頭数には入っていないようだ。


「君ならやってくれるとは思っていたけどね」


「……戦闘記録とか残ってたりします?」


「ん? いいや? 偵察機などはニューの能力で察知される可能性があったから飛ばしてないよ」


「そうですか…」


 自分が間違っているのか、周りが間違っているのか。

 それを証明する手段は何処にもない。

 マオも何事もなかったかのようにユウヒが解決したと話していたし、人々はユウヒがアルミナを倒したと思っている。


 不気味だった。

 自分の周囲に漂う違和感が、何故かここを別の世界なんじゃないかと錯覚させる。


「ともあれ、君はまたシティの危機を救ってくれた。特に天啓姫の護衛任務も───」


 シオリの言葉はユウヒの耳に入ってこない。

 話半分で聞き流していたユウヒは、ただアルミナとの戦いのことだけを考えていた。









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