第40話 私の未来を

 あんなことがあっても、変わらぬ日常を送っている。昨日も今日も、普通に仕事を終えた。馬鹿みたいだけれど、自分でも少し褒めてあげたい気もしている。


「お疲れ様でした」


 早々にバッグを持って、職場を離れた。今日は新しいコーヒー豆を買って帰る。たまには一緒に、甘い物でも買ってみようか。そんな風に自分を甘やかしたくなる日があってもいいだろう。そう決めれば、行き先を少し変更する。いつもの喫茶店ではなく、少し遠回りをして、違う店にしようと頭の中で計算した。

 緋菜ちゃんからは、まだ何も連絡はない。昌平くんや成瀬くんにも、連絡をしていないのだろうか。揉めた私に連絡がないのは仕方ないが、彼らには愚痴ぐらい零していて欲しいと思っている。成瀬くんにも、緋菜ちゃんとは変わらずに仲良くしていて欲しいと頼んだ。多分彼らは、緋菜ちゃんが笑ったら受け入れるだろう。2人とも、とても優しい子だ。緋菜ちゃんはきっと、色んな葛藤を抱えただろう。別れた彼の言葉を、私はなぞってしまったのだ。もう連絡は来ないかも知れない。それでも、緋菜ちゃんが少しでも変わるきっかけになれば良い。そう思っていた。


「肩凝ったな……」


 今日はデスクに座っていた時間が長かったせいか、肩を回せば、バキバキと音を立てた。久しぶりに、マッサージに行っても良いか。今年で36歳。回復に時間がかかり始めた気もしている。


「あれ、小川くん。どうしたの肩グルグル回して」

「せっ……小山田先生」


 小川くん、と呼ぶのはこの人くらいである。よそ行きの柔和な笑みを浮かべ、後方からそっと隣に並んだ。何だか妙に緊張する。


「お疲れ様です。ちょっと肩凝ったなぁって、運動不足ですかね。せ、先生は、今お帰りですか」

「あぁ。今日はゼミの子が新年会をやるって言うからね。少し顔を出そうと思って」

「へぇ。あ、そうなんだ、ですか。お疲れ様です」


 構内で偶然会っても、私たちは会話をしない。用事を頼まれ話をするのは、大概が研究室である。だからこういうことがあると、つい出てしまういつもの話し方。それを私はこうして、いつもあやふやに誤魔化し、苦しい訂正をしていた。こんな初歩的なミスは、征嗣さんは絶対に犯さない。


「君たちの時も、よく飲み会に付き合わされたなぁ」

「付き合わされたって。ただその場で、本読んでいただけじゃないですか」

「参加してるんだから、いいだろう」


 そう、彼はこういう人。誘われたから参加はするが、一緒に楽しく飲むようなことはなかった。難しい本を読みながら、酒を飲み、誰かを捕まえ議論を交わす。面倒臭い奴だった。今はどうしているのか知らないが、同じでなければいいなと思う。


「そうだ、先生。昨日ご相談させていただいた件、ご確認いただけましたか」

「相談……あぁすまん。返してなかったね」


 昨日相談をした件。それは、成瀬くんの件である。『お正月に連絡があって、成瀬さんから誘われたのだけれど、どうしよう』ただそれだけを送った。既読になったメッセージは、未だ返信はない。このまま返事は来ない可能性も、捨てきれないのだ。彼と別れる作戦を続けるには、この誘いを受けなければいけない。だから、私はこの偶然を味方にして、わざと問うたのである。征嗣さんは、そうだなぁ、と考える様子を見せた。


「良いんじゃないかな」

「え?あっ、と……行ってみたら、と言うことでしょうか」

「そうだね。小川くんの勉強にもなるんじゃないかな」

「勉強、ですか」


 成瀬くんが私を誘って来た背景に、征嗣さんが居たとしても、彼は面白くないのかと思っていた。だから直ぐに返事を寄越さないのだ、と納得出来ていたが。面と向かって問えば、こうしてあっさりと背を押される。嫌な顔でもするかと思えば、外向きの顔のまま穏やかに言うのだ。それは征嗣さんの本心なのか、人前だからなのか。後者の可能性が強いけれど、私はゴーサインを得た訳だ。


「じゃあ、返事してみます。お正月明ける前にお誘いいただいて、ずっとお待たせしてしまったんですよね。こういうのって電話の方が良いですか」

「あぁ、そうだなぁ。その方が良いかも知れないね。じゃあ、僕はこれで」

「はい。今から電話してみます。有難うございました。では」


 私たちは他人行儀にお辞儀をして、校門で左右に別れた。緋菜ちゃんの心配で埋まっていた頭は、もう征嗣さんとのことで一杯だった。粒々と苛立つ気を抑え、直ぐに成瀬くんへ電話を鳴らす。メッセージでやり取りするのは危険だ。会話の記録は残さない方が良い。征嗣さんに電話で、と許可を取るように言ったのは、そういう背景である。


「はい、成瀬です。お疲れ様。どうしたの?」

「お疲れ様です。小川です。成瀬さん、今お時間宜しいですか」

「はっ、はい。少々お待ちいただけますか」


 私の口調に、全て察したようだった。と呼ぶこの誘いに、彼は緊張を見せながら返事をする。誰かが見ていたらそれで良いように形を残す為、私たちは今から初々しいやり取りを始める。演技だと思えば、笑ってしまうけれど。


「はい。すみません。えぇと」

「先日お誘いいただいた件、返事が遅くなってしまって申し訳ありません。急なんですが、今週末なら時間が取れそうなんですが、成瀬さんはお忙しいでしょうか」

「本当?あっ、えぇと。だ、大丈夫です」


 いつもの成瀬くんが漏れ始めると、ちょっと可笑しくて笑いそうになってしまう。でも、征嗣さんがどこで見ているか分からない。だから何とか堪えて、本当に急ですみません、とペコペコ頭を下げた。私は今、彼に釣られるわけにはいかない。


「小川さんは好き嫌いとか、何かありますか」

「特にはないですね」

「分かりました。それでは、土曜の昼なんてどうですか。美味しいランチでも食べましょう。お店探しておきますから」

「わぁ、有難うございます。お願いしても良いですか」


 ワクワクしている様子を、何とか絞り出す。征嗣さんは見ていないかも知れないが、念には念を、である。


「大丈夫ですよ。詳しい連絡は、また追ってしますね」

「あぁ、いえ。土曜日の十一時に……東京駅でどうでしょうか。お住いの場所から遠いですか」

「え?あっ、なるほど。分かりました。では、土曜日の十一時に東京駅。えぇと、銀の鈴の辺りで待ち合せましょう」

「分かりました。では、土曜日に。宜しくお願いします」

「はい。こちらこそ。では、また」


 形式的に話を済ませ、サクッと電話を切った。言いたいことは私だってあったけれど、今日は仕方がないのだ。一仕事終えて、ふぅ、と白い仄かな息を吐く。手を温めるように口元に運ぶと、ちょっとだけ頬を緩ませた。少しだけ足取りが軽い。

 散歩のように歩き続けて、気になっていた喫茶店に辿り着く。古い店であるのはいつもの所と同じ。こういう店が、好きなのだ。


「豆をお願いしたいんですが」

「はい。お勧めは、こちらのブレンドとなっております。苦みを抑え、甘みと香りの強めの商品です」

「では、それを一袋。それから、ティラミスを一つ……いや、二つください」

「かしこまりました。少々お待ちくださいね」


 店主は少しだけ口角を持ち上げて、丁寧に頭を下げた。こういう古い店は、彼のような人柄が支えているのだろう。初めて来た店で、味も何も知らない。癖を知るには、店主お勧めのブレンドを頼む。それに限る。控えめのジャズ。タイル張りの床。壁のシミ。コーヒーの良い香りを鼻一杯に吸い込むだけで、もう心は躍る。こういう店は、母と来ていたからか。新しいお洒落なカフェよりも、ホッとするところがあるのだ。


「お待たせしました。こちらが豆、それからケーキ二つですね」

「はい」


 店主に差し出されたそれを確認し、清算をする。こんな店も最近は電子決済を取り入れていて、スムーズにいくのは有難い。カラカラ、とドアベルを鳴らして外に出る。バッグとケーキの箱を大事に抱えながら、駅へと急いだ。マスカルポーネが濃厚な物なら良いなぁ。フォークをスッと入れた感覚を想像しながら、私はちょっと微笑む。二つのケーキ。一つは頑張った私を甘やかすため。もう一つは、きっと来る征嗣さんのために。

 家に帰り、ケーキをそっと冷蔵庫に仕舞う。絶対に征嗣さんは来るだろう。私と成瀬くんのことが気になっているはずだ。だから私は、それには手を付けずに食事を作った。ケーキがあることを念頭に置いた、細やかな夕食である。それを食べて、片付けをして。コーヒーを淹れるか悩み始めた頃、インターホンが鳴る。笑ってしまいそうになるのを堪えて、私はその相手を招き入れた。


「はい、どうぞ」


 案の定やって来た征嗣さんの前に、コーヒーカップと皿に載せたティラミスを並べる。彼は驚いた顔をして、私を見た。そして直ぐにそれを疑いに変えると、俺の分か、と問うて来る。本当は誰かが来るのか、とでも言いたいのか。


「そうよ。きっと来ると思って、買って来たの」

「何で」

「だって、さっき心配そうな顔をしてたから。でも本当に来てくれて良かった。そう思ったのに来てもらえなかったら、寂しいもの」


 へへ、と笑顔を取り繕った。

 いつものように難しい顔がモニターに映った時、今日は素直に対応をしようと決めたのだ。彼が結婚をしてから、こんな風に話すことなど忘れてしまっていた。いつだって小難しい話をして、体を重ねる時間を取るのがやっと。そう言葉にすれば、本当に虚しい関係でしかない。


「心配そう、か」

「そう見えたんだけれど……違った?」

「いや、まぁそうかも知れないな」


 別に今更、可愛らしいと思って欲しい訳ではない。これは別離と言うゴールの為のやり取りだ。そう何度も自分に言い聞かせていないと、笑顔がスッと消えそうになる。気は抜けない。彼は人一倍、そういう微々たる変化に敏感な男である。


「でも、ごめんなさい。あんなところで急に聞いて。ウジウジ考えてたら、結構時間が経ってしまって。そういうのって早く返事をした方が良いんでしょう?そう気が付いたら、焦っちゃって」

「まぁ、いいさ。正月に誘われたと言っていたな」

「うん。確か……3日だったかな。本当は、直ぐに断れば良かったんだろうけど。ほら、この間言ったじゃない?今年はお友達を作りたいって。だから、悩んじゃったの。もしかしたら、いい機会なんじゃないかって」


 ふぅん、と興味のない返事が聞こえる。素直に対応したって、結局はこうだ。面白くないのだろう。カップに口を付けてコーヒーを飲んだ彼は、無表情に空を見ている。コーヒーの香りに鼻をヒクヒクさせて、心を落ち着けているようにも見えた。今日淹れたのは、最後のグアテマラ。あと2杯くらいでこれもなくなるだろうか。


「それで、結局どうした。電話したんだろう?」

「うん。あの後直ぐにね、かけてみた。家に帰って改めてって程でもないし、ササッとね。済ませました」

「そうか。それで?」

「今週末、会ってみることにしたの」


 へぇ、と言う彼は、表情を失くしていた。自分で促したことなのに、どこか困惑しているように見える。本当は、私の意志で断ってくれると、思っていたのかも知れない。そう思うと、ギュッと心を摘ままれた感じがした。征嗣さんの中の葛藤が苦しい。彼は今、頭の中で今後の勘定をしているのだ。自分が仕掛けたことなのに、胸が酷く痛んだ。


「良いお友達になれるかなぁ」

「友達なぁ。大丈夫じゃない?陽は、その成瀬とそうなりたいんだろう?」

「あ、うぅん、いや。彼とって言う訳じゃないよ。交友関係を広げたいなと思ってたところに、たまたま誘って貰えて。折角だから、っていう気持ちが強いかな。男の子だから征嗣さん嫌がるかと思ったけれど、背中を押してくれて有難うね」

「あぁ。アイツ、いや成瀬くんなら、何かあっても俺も連絡出来るからな」


 何かあっても、とはなんだ。所々に引っ掛かりを感じるが、今日はいちいち反論はしない。ティラミスを頬張って、濃厚なマスカルポーネの味を堪能する。無邪気に「美味しい」と呟いた私を、征嗣さんは不機嫌そうに睨みつけた。


「何だか上機嫌だな。そんなに嬉しいのか。成瀬に会えるのが」

「へ?何言ってんの。久しぶりに新しいお友達が出来るのよ?ワクワクしない?もしかしたら、凄く面白い本とか知ってるかもしれないし。視野が広がるかも知れないでしょう」

「まぁ……な」


 面白くない、と顔に貼り付いている。けれど素直に嬉しがる私を前にして、彼はそう言えないのだ。征嗣さんもティラミスに手を伸ばし、小さな溜息を吐く。私はまた良心が痛んだ。

 本当は、分かっていた。こんなことをすれば、彼が苦しむということを。陥れたい訳ではない。不幸にしてやりたい訳ではない。そういうのは綺麗事に過ぎない。私から仕掛ければ、征嗣さんが苦しまずにこの関係を終わらせることは、ほぼ不可能だ。もし彼が、私を想ってくれているのなら、尚更。


「陽。楽しいと、良いな」

「え、あっうん。そうだね」


 征嗣さんから、思わぬ言葉を掛けられる。新しい世界に足を踏み出そうとする私に、彼はそっと寄り添った。またティラミスを口に運べば、自然と頬が緩む。さっきよりも纏わり付くようなチーズの味が、何度も口の中で泳いだ。それを飲み込んで直ぐ、征嗣さんの手が私の頭に伸びる。優しく撫でたが、彼は何も言わなかった。

 自然と合わさる視線。不器用な指が絡まる。静かに、それから激しく、私たちは唇を重ねた。私の口腔に残った濃厚さが、征嗣さんの唾液に溶けていく。彼は視線を外さずに、何かを確認するように私を見つめている。今夜はきっと、優しく私を抱くのだろう。

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