第39話 悪いのは、全部私
店を飛び出して、駅の方へ足を速めた。緋菜ちゃんの放った言葉が、何度も私を殴りつけている。詐欺師とまで言われてしまったら、もう後戻りは出来ないだろう。久しぶりに出来た友人。大切にしていたつもりだったけれど、分かり合えることが出来なかった。そんな事実に胸を抉られ、ジワリと目頭が熱くなる。視界がぼんやりし始めたが、泣くまい、とグッと頭をもたげた。
「陽さん、待って。ちょっと待って」
ズンズンと速度を上げた私を後ろから呼び止める声。成瀬くんだ。振り返り、立ち止まると、彼はホッとしたのかフゥと大きく息を吐いた。
「大丈夫?」
「あ、うん……何かごめんね。喧嘩したくなかったんだけど。つい」
「ううん。僕も流石に怒っちゃった」
へへへと笑って見せたくせに、眉尻が下がった困った顔をする。私が店を出た後、何かあったのだろうか。確かに成瀬くんも、食ってかかりそうな勢いだった。だからこれは、嘘ではなく事実なのだろう。
「詐欺師って……言われちゃった。流石に堪えるなぁ」
「陽さん……」
「久しぶりにお友達が出来て、嬉しかったんだけどな。もう、きっと……」
会えないんだろうな、と続けられなかった私の手を、彼はそっと握った。そして、「僕は全部知ってるから、会わなくなる対象にはならないね」と微笑みながら覗き込む。彼はこういう優しい人だ。抉られた胸が、ふんわりと包まれたようだった。私はその笑顔に安堵したのだろう。視界が急にぼやける。さっきグッと堪えた物が、ポロっと頬を伝った。
「陽さん……大丈夫?無理しないで」
「ごめん。やだ。こんなところで」
「そうだ、不忍の方から帰ろう。そっちの方が、何となくゆっくり歩けそうじゃない?」
「あぁ、うん。そうかも知れないね」
公園通りを帰っても、科学博物館の方を回っても、距離はさほど変わらない。もう時間も遅いし、どちらかと言えば、車通りのある方が良いのではないか。恐らく彼は、そんなことよりも私の心配をしたのだろうと思った。泣くのを我慢し、引き攣った笑みを作った私を。そして、少しだけ彼の手を握り返す。今はきっと、二人で歩いたことのある道の方が、心が落ち着く気がする。そんな細やかな希望も、私の心は携えていた。
「成瀬くん。緋菜ちゃんから、私に男が居るって連絡貰ったんでしょう」
「え?あぁ、えっと……うん。でもね、その考えに至った理由が見えなくて、それで昌平くんに相談したんだ」
「なるほど。だから一緒に居たんだ」
仕事初めの月曜日。こんなことで長い夜にしてしまって、申し訳ない。昌平くんたちは大丈夫だろうか。もう、私が心配することじゃないのかな。
「ねぇ、陽さん。教授のことは、絶対に言わなくていいと思うんだけれどね」
「征嗣さんのこと?絶対に言わないわよ。ややこしくしたくないもの」
「うん。それで良いと思うんだ。でもさ、お母さんのことは、言っても良いんじゃないかなって。どうだろう。あまり誰にも言ってない感じ?」
え?と返したのは、単純に驚いたからだ。誰の物か、誰が写ってるのか。そう聞かれたから母だと返したが、『母の遺品』だと言えば良かった。どうして気付かなかったんだろう。緋菜ちゃんに対して苛立って、私もムキになっていたのか。いい年して、何やってんだ。もう、自分が嫌になる。
私がそう言っていたら、緋菜ちゃんは聞いてくれたかも知れない。信じてくれたかも知れない。悪いのは、全部私だ。
「陽さん?」
「あぁ、ごめんなさい。そうよね。私もあの勢いにムキになっちゃって、事実しか返せなかった。きちんとした補足を付けなければ、疑問が残るわよね」
「うん。だから、その誤解は解いておきたいなって思うんだ。彼らに陽さんが疑われたままなのは、僕も嫌だから」
もし4人でもう会えないとしても、と彼は付け加えた。その真っ直ぐな瞳を曇らせてはいけない。薄暗い上野公園の灯りに照らされた成瀬くんの横顔を、私はそんな気持ちで眺めていた。今夜は不忍の方へは出ず、そのまま動物園の表門の前を歩いている。
「僕が言っておいてもいい?僕も謝らないといけないからね。昌平くんにも、緋菜ちゃんにも。それに……」
「それに?」
「陽さんは、今は教授のことだけ考えて貰わないと」
何だかやる気になっているようで、成瀬くんは胸をポンと叩いて見せる。有難う、と礼は言ったが、本当の気持ちは『寂しい』だった。
折角出来た友人。良かれと思ってした忠告。けれど、それは受け入れられなかった。4人で年越しをしたのも、
「そうだ。この間の件は、慌てないで良いですからね」
「この間?あぁ、うん。分かりました」
例の件、である。
征嗣さんには、実はまだ話していない。そろそろかな、とは思ってはいるが、どうだろう。それに
「あ、しまった……私、お金払わずに来ちゃった」
「じゃあ、僕戻るから払っておくよ」
「ごめんなさい」
「いえいえ。次に会う口実も出来て、ラッキーです」
嬉しそうに笑ってくれた成瀬くんに、私もつい釣られていた。ようやく持ち上げた口角は、寒いからか、ギギギと音を立てるブリキのようだった。それでも気持ちは少しずつ落ち着いた証拠。成瀬くんが居てくれて、本当に良かった。そう思った私は、ふと違和感を覚えた。
「ねぇ。成瀬くん。今日、仕事休みだった?」
「いや、ちゃんと働いて来ましたよ。何言ってるの」
「えっと……鞄は?」
「鞄。鞄……置いて来ちゃった。ヤバい。昌平くん、まだいるかな」
彼は慌てて携帯をコートのポケットから取り出した。何だかいつもよりも雑にそれを操作し、まだいる?と話し始める。相手は、昌平くんだろう。
「うん、陽さん送ったらすぐに戻るから。ごめんね。え?あ、うん。有難う、言っておくね。じゃあ後で」
通話を終了して、成瀬くんは長い息を吐いた。仕事鞄を失くすようなことがあれば、一大事である。それは避けられたようだった。
「あ、私は大丈夫だから。有難う」
「いや、送りますよ。えっと、ここはどこだろう」
「もうそこが藝大のところだから。右に出て駅の方へ戻るといいよ」
「いや、家まで送ります」
「大丈夫よ。車の通りもあるし、昌平くんを待たせるのは、ね」
波打った心は落ち着いたが、抉れが戻った訳ではない。けれどそれが戻るまで、彼に居てもらう訳にはいかないのである。
「いや、送ります」
「大丈夫だって。それに、征嗣さんが来てるといけないから。ね、有難う」
ムスッとした成瀬くんは、分かりました、と口を尖らせた。納得してくれたことにはホッとしたが、私には別の嫌悪が押し寄せる。何とか納得させようと口を吐いた言葉が、征嗣さんだなんて。自分でもちょっと呆れる。まぁそう言う可能性もあるのは確かではあるが。
「昌平くんが、ごめんって謝ってました。陽さんに悪いことしたって」
「いや、昌平くんが謝ることじゃないのに。悪いのは、全部私。冷静な話し合いが出来なかったんだから。寧ろ昌平くんには、私が謝らなくちゃ」
カツ、カツ、と音を立てた私の足音。次第に速度を落としたのは、彼とまだ別れたくないからだろうか。
「じゃあ、ここで。何かあったら、絶対に連絡してくださいよ」
「はい、分かりました。申し訳ないけれど、お金よろしくね。あと、昌平くんには、本当に申し訳ないって言っておいて貰えるかな」
「うん。分かった。気を付けて帰ってね」
名残惜しそうに背を向けた成瀬くん。それを私はじっと見つめた。
誰かと喧嘩をしてしまっても、誰かが傍に居てくれる安らぎ。母が居た頃は分かっていたのに、すっかり忘れてしまっていたな。傷付いた心があって、それが癒され消えなくても、別のところが温かくなるような気持ち。私は、失くしてしまっていたんだ。征嗣さんと居ることは、幸せを温めることだと思っていた。けれど、何かを失くすことだったと、今更気付く。それを取り戻しながら、私は何時か堂々と歩ける日が来るだろうか。
「きっと、来る」
ギュッと右手を握って、私も帰路に着いた。今夜も征嗣さんからの連絡は、なさそうだ。
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