第38話 私の苛立ち

『陽さん、今日会える?』


 緋菜ちゃんからそうメッセージが送られて来たのは、昼のこと。上野駅が近くなると、私は一段と憂鬱になっていた。それは、これからの時間――緋菜ちゃんと会うことにある。メッセージを知っていながら、携帯の電源を切ったのは三日前のこと。悪いことをしてしまった、とは思う。でも正直、仕事初めの月曜の夜に会うのはきつい。彼女とは仕事のサイクルが違うから仕方がないが、きっと彼女は明日が休みだろうな、と思っている。


「あ、成瀬くん……」


 携帯がコートのポケットで揺れていた。成瀬くんとは連絡はしないようにしよう、と言ったが、結局こうして連絡が来る。あれも3日のことだった。電源を切っていた私の携帯に、ズラッと不在着信が並んだのである。名前は全て、成瀬文人。緊急事態かも知れない、と慌てて連絡をした私に、彼は「小川さん」と言った。あぁそういうことか、と思った。彼にデートに誘われ、その答えは保留中。この電話も余程のことでもない限り、出ないつもりだ。

 そしてまた溜息を吐いた。仕事が始まれば気は紛れると思っていたのに、どうも上手くはいかない。今後の悩みは尽きないのである。


 それにしても、征嗣さんが正月にまさか来るとは思わなかった。これまで会いたいと思っても言ったことはない。ただ征嗣さんの気の赴くままに来ているだけ。年末年始やクリスマス、それから何かの記念日。それは絶対に征嗣さんが来ない日だったのに。そんな日に、時間を作ってわざわざ会いに来た。成瀬くんが連絡をしたことが、影響を与えたのか。それとも、前日に私が零したことが気になったのか。それは結局何も分からなかったが、あの日は、私を抱く手も優しかった。愛などはなかったろうが、少しだけ満たされたことは内緒である。だからと言って、もう別れを考え直すことはないけれど。


「ん、また……」


 電車に揺られているうちに、成瀬くんから着信が数回入った。一度ではなく、立て続けに何度か鳴った電話。何か用事があるのだろう、とは思った。征嗣さんとの話で、また連絡が必要になったのだろうか。それとも、別の用事だろうか。気に掛けながら、上野駅で降りた。


「とりあえず、成瀬くん、と……」


 帰宅客の邪魔にならぬよう端に寄ると、彼の連絡先を表示する。発信をタップしてから、エスカレーターを上って行くスーツの波を見ていた。どことなく気怠さが滲み出た背中の波。皆、今日は早く家へ帰りたいだろう。漏れなく私も、その気分である。


「もしもし?成瀬くん?出られなくて、ごめんなさい。電車に乗ってて。どうしたの?何かあった?」

「陽さん、ごめん。今どこにいる?話して大丈夫?」

「うん、上野に着いたところ。でも、ちょっと急いでて」

「え、あぁ。そうなん、だ」


 妙なところで、彼が躓く。征嗣さんに会う訳じゃないわよ、と否定をすれば、あからさまな安堵を見せた。でも何か焦っているような気がするのは何故だ。


「これから緋菜ちゃんに会わないといけなくってね。だから長くは話せないんだけど」

「緋菜ちゃんと会うの?」

「え?うん。何だか昌平くんと喧嘩しちゃったっぽくって」


 彼に事情を説明する。本当は憂鬱だなんて言えない。彼女と休みを合わせるのは大変だし、これは出来るだけ早く解決したい事柄に違いないのだ。そう自分に言い聞かせた。すると昌平くんと居るらしい彼が、「ちょっと色々あって、とりあえず僕らも行くから。お店教えてくれない?」と言う。やんわり断るが、必死に頼み込んで来る。その色々が分からないが、昌平くんが乗り込んで来るのはまずいと思う。私だって、彼らの状況が分からないのだ。


「そうなんだけど。あ、ほら。昌平くんが仲直りしたいみたいで」

「仲直り?昌平くんが?」

「あ、うんうん。そうなんだよ」


 そういうこと?正解が見出せないまま、電話が切れた。昌平くんが仲直りしたい?それを成瀬くんに相談している……?考えれば考える程、私の頭にはクエスチョンマークが並んだ。これは、何か緊急事態だろうか。とりあえず、店の情報を成瀬くんに送る。やはり私の中は、どうなっているんだ?と疑問符が増えるばかりだった。


『有難う。急にごめんね』

『僕らは少し経ってから行くから。でも、緋菜ちゃんには言わないでおいて』


 成瀬くんから直ぐに返事が来る。何が何だか良く分からないが、昌平くんがそう言っているのならば、尊重すべきだろう。私は、『了解』とだけ送り、店へ急いだ。さて、仲直りさせるに、どうしたらいいか。駅を出て、小さな信号で立ち止まる。うぅん、と唸って腕を組んだら、ポケットにしまった携帯がまた震えた。


『教授のこと、気を付けて』


 その画面を見て、また頭の中が絡まって行く。教授のこと、と言うのは、征嗣さんのこと。緋菜ちゃんと話題になる訳もない人だ。それを、彼はこう送って来た。私は、何か疑われてるのか。緋菜ちゃんの思惑を邪推する。征嗣さんとのことは、気付かれるはずがない。それを何で、成瀬くんはそう言って来たのか。まさかこれは、何かの罠?でも、だからと言って行くのを止める、子供のようなことはしない。彼の忠告の通り、私は1㎜も漏らすつもりはない。大丈夫。そんなこと、ずっとして来たんだから。


「遅くなってごめんね。先に食べててくれた?」

「うんうん。待てなかった」

「良いんだよ。ごめんねぇ。私も何か食べようかな」

「あ、ここね。トマト系のパスタが美味しいみたい」


 へぇ、と言いながら、メニューを覗いた。成瀬くんから着たメッセージが引っ掛かりはするが、相手も着席から同時に殴り合うことはしないだろうと踏んでいる。現に、私が遅れて店に着いても、緋菜ちゃんは特にいつもと同じだった。それならば、私もいつも通りにすればいい。それだけだ。ニコニコする彼女と笑い合って、同じパスタとビールをとりあえず頼んだ。話が長くなるのかどうかは、まだ読めない。


「緋菜ちゃん。この間、ごめんね。前の日からバタバタしてて。直ぐに返せなくって。それで大丈夫?」

「あ、うん。流石に落ち込んだけど、ちょっとは復活した。まさかルイに会うとはなぁ」

「そうだよねぇ。偶然って怖いね」


 ホントだよ、と緋菜ちゃんは大きな溜息を吐く。長い睫毛が、愁いを帯びたように、わざとらしく揺れた。

 あれも2日のことだった。デートをしていた彼らは、ルイという昌平くんの同僚に会ったという。そしてその態度から、昌平くんがその人に恋をしていると思ったようだった。だけれども、そんなことはない。つまりは確実に、彼女の誤解なのである。そして私の想像では、その面白くなさが緋菜ちゃんの顔に出ていた。態度にも出たのかも知れない。それで昌平くんが苛立った、と予想している。私に話す様子からして、緋菜ちゃんが面白くなかったのは確かだ。それを隠せたかというと、私の印象では五分五分。いや、七三で隠せなかっただろう。それでも大人として、同僚の先生には喧嘩を吹っ掛けたりはしてない。それだけは信じている。


「それにしても、昌平から何の連絡もないの。あの時だって、一度も振り向かなかったし。ちょっと良い感じだなって思ったんだけどなぁ」

「私もそう思ってたんだけれど」

「でしょ?昌平は、何考えてるんだろ。あの女……年も上だし、そんなに美人って感じでもないの。普通。本当に普通の人なんだよ」

「そ、そう、なんだぁ」


 これは何?私に、緋菜ちゃんの方が魅力的なのにね、とでも言わせたいのか。

 あの女、なんて言い方、一体何様のつもりなんだろう。だって、相手はただの好きな人の同僚に過ぎない。その先生の方が昌平くんを好きだったとしても、だ。何だか嫌な気持ちが、腹の底で蠢いている。先に運ばれて来たビールを流し込んで、少し気を紛らわせた。


「ねぇ。陽さんにも、昌平から連絡着てないの?ほら、成瀬くんから何か聞いてるとか」

「あぁいや、二人からは……何も」


 僅かにそれを期待していたのだろう。私の答えに、明らかにムッとした感情が表に出た。何だよもう、と彼女はビールを飲み干し、また同じ物を頼んだ。


「昌平くんもさ、謝るタイミング逃してるのかも知れないよ。そう言うのって、ほら、私よりも成瀬くんと話してるんじゃないかな」


 彼らが今日示し合わせているのは、どんな要因かは知らない。純粋に恋愛相談をしたのかも知れない。仲直りがしたい、とは言っていたが、本当だろうか。今のところの私の感覚では、それは……ない。 でも緋菜ちゃんは素直に、私の意見を受け入れた。それから、普通は男同士で相談し合うよね、と納得している。そんな二人の間に運ばれて来た、新しいビールとパスタ。緋菜ちゃんが無言でグイっと口を付けると、これは何杯目なんだろう、と不安になった。


「陽さん。私の何がいけなかったの?」

「えっ?いけなかった……と言われても、その時の様子を見てたわけじゃないからなぁ。緋菜ちゃんが思ったこと、感じたことは聞いたけれど、昌平くんがどう思ったかは分からないでしょう?」

「それはさ、そうだけど」

「緋菜ちゃんの気持ちに、昌平くんが気が付けなかったとか。そう言うことはあるかも知れないけどね」


 何とかフォローする言葉を探った。心構えが問題なのでは?と思っていても、落ち込んでいる彼女の傷口に塩を塗るようなことは、流石に言えない。バッサリ言ってしまえば私は楽だろうが、彼女はそれを望んではいない。緋菜ちゃんの方が素敵なのにね、と慰めて欲しいのだ。



「じゃあさ。私の良さって何?」

「そうねぇ。私はね、言ったことはちゃんとやるとか。結構可愛らしい所があるとかね、色々思うけど。緋菜ちゃんは、自分ではどう思う?」


パスタをクルクル巻き付けながら、私は問い直した。

残念ながら、初めに口にした美味しさは、もうちっとも分からない。


「まだ若いし、それと美容は頑張ってる」

「うん……そうか」

「ん?違う?」

「いや、そうだよね。頑張ってるもんね」


 私の同調に、彼女は満足気に頷いた。何に引っ掛かって、何を言おうとしたのかは、気にならないらしい。これは本当に、誰かが彼女に気が付かせる必要があるのではないだろうか。もう27歳。若いと形容され、それだけで許されるような時間は、もう終了間近だ。


「そうなの。頑張ってるの。それなのに、どうして?あんなに冴えない女の方が良いの?私の方が若いし、私の方が……」

「私の方が?」

「あぁ、いや。何でもない」


 多分続けたかったのは、綺麗なのに、だろう。そう思えてしまう感情は、私には残念ながらないので、共感は出来ない。ただ緋菜ちゃんは、それを躊躇う気持ちはあるんだな、と知る。他人に曝け出してはいけないと、内側でストップを掛けているのだ。

 何だかちょっとだけ、可哀相だな、と思った。今まで自信にして来たであろう『若さ』と『外見の良さ』が、昌平くん――初めての片想いの相手に通じなかったのだ。自信を失くしてしまったのかも知れない。そして同時に、私の中に苛立ちも芽生えていた。彼女は直接は言わないが、その自信を讃えて欲しいのだろう。初めて会った時にも感じたことだが、若さや外見だけに自分の良さを見出すのは危険だ。そろそろ気が付かなければ、本当に手に負えなくなる。いつまでも若い訳ではない。美人だって内側から輝けなければ、それはきっと直ぐに窄んでしまう。パスタを絡めながら、私は悩んでいる。ここは言ってあげるのが友人だろうか、と。


「何か今年は上手くいかないんだよ。色々」

「そうなの?まだ始まって五日だけれど」

「今日は仕事でも怒られた。もう新人じゃない、ベテランだとかって。たまたま高卒で、年数が長いだけ。私だって、まだ若いのに。酷くない?」


 あぁ会社でも同じなんだ。そうだろうな、と思わないでもなかったが、それでも社会人として、線引きはしているのだろうと思っていた。それすら出来ないのか。高卒でも、立派な人はいる。これは完全に緋菜ちゃんの心の問題だ。


「酷いかどうかは、ちょっと分からないかなぁ。その時の様子は、私は分からないからね。それを知らずに、酷いねって同調するようなことはね、ちょっと出来ないかな」


 やんわりと彼女の言い分を突っ撥ねた。当然、緋菜ちゃんは面白くないだろう。はぁ?と言わんばかりの顔をして、こちらを見るのだ。私は反論もしなければ、いつでも全てを受け止め、褒めてくれると思っていたのだろう。だから気に入らないのだ。どんどんその感情が露わになる。眉間に皺を寄せ、片眉を釣り上げ、今にも怒りを口にしそうな表情だった。


「ねぇ、友達が落ち込んでるのに、そんな風に言う?普通」

「うぅん、そうねぇ。落ち込んでるかもしれないけれど、正しいことを言ってあげるのもお友達だと思うけれど」


 ここで緋菜ちゃんを落ち着かせる為に、まぁまぁ、と言ってしまったら良くないだろう。初対面の時に私が感じたことは、きっと彼女の周りにいる人も感じている。けれど指摘をするに至っていないのか、指摘を避けてもスルーして来たのか。彼女は今にも、弾けてしまいそうだ。別に言い合いになっても、私は構わない。彼女が理解をしてくれればそれで良いと思っている。


「あぁぁ。成瀬くんも、どうして陽さんを選んだんだろ」

「えっ?」

「だってそうでしょ。私の方が先に知り合ってたの。陽さんよりもずっと若いし。それに」

「はぁ……それに私の方が美人なのに?」

「そんなこと、言ってないじゃない」


 折角お友達が出来たと思ったのに。腹を割って話せるような仲には、今は到底なれそうにない。事実を伝えてあげることは、誰の為でもない。彼女の為だ。緋菜ちゃんは何も答えず、ただ凄く嫌そうに私を睨み続けている。


「でもずっと、そう思ってたでしょう。私だけじゃない。昌平くんの同僚の先生にも、それから別れた彼が選んだ女性にも。私の方が若いのに。私の方が美人なのにって。流石に口には出さなかったと思っているけれど、心の中ではそうやって、いつも誰かを見下して来た。違う?」


 緋菜ちゃんはまだ、私をギロッと睨んでいる。威圧のつもりなのか。でも何も言わないのは、事実を突かれたからだろう。もうオブラートに包んでいる場合じゃないのだ。成瀬くんたちが来たのかどうか見えないが、もう事実を伝えてあげるべきだ。


「だから、許せなかったのよね。どうして私を選ばないのって。自分に楯突いて来る人間は、皆嫌いなのよね」

「そんなこと……そんなことない」

「本当?じゃあどうして、成瀬くんは陽さんを選んだんだろうって言葉が出るの?今、私があなたの気持ちに同調しなかったから、面白くなかったのよね?」


 努めて冷静に言葉を選んだ。フォークを静かに置き、彼女を真っ直ぐに見る。睨みはしない。同じ土俵に立つのは嫌だから。ただ僅かに優しく微笑んで、彼女の反応を待った。視界の端の方で立ち上がろうとする影が、もう一人に力づくで止められている。

 これはもう、変に濁してはいけない。事実を伝えてあげる、だなんて、結局は私のエゴだけれど。そのせいで、恋も仕事も上手くいかないのなら、友人として伝えなければいけない。


「違った?緋菜ちゃん。答えなくても良いから。けれど、自分の中で心当たりがあるのなら、それは正した方が良いと思う。今からでも遅くない。大丈夫よ。ね」


 コテンパンにやり込めたい訳ではない。こんな私の唯一の女友達なのだ。心から幸せに生きていて欲しいと願っているだけ。でも緋菜ちゃんは、そうではないようだ。私を親の仇のように睨み、強く唇を噛んでいる。そのうち、何よ、と小さく言った。


「陽さんは、間違ったことは言わないの?ねぇ。彼氏がいるくせに、成瀬くんにもいい顔して。あんたのしてることって、最低じゃない。私に説教出来る立場なの?」

「え……?」


 緋菜ちゃんは一気に、私に対してのどす黒い感情を吐き出した。ただ、何を言っているのか分からず、返す言葉が見つからない。彼氏がいるくせに、って何?一体何のことを言っているの?


「ほらね。直ぐに言い返せないんでしょう。疚しいからよね」

「いや、ちょ、ちょっと待って。何を言っているの?」

「この期に及んでしらばっくれるんだ」


 完全に臨戦態勢に入った緋菜ちゃんを、私は確かに青褪めながら見ている。彼氏がいる。そう言われて思い付くのなど、征嗣さん以外に居ない。

 けれど、私たちは絶対に外では会わない。学内で会うことはあれど、彼の部屋で話すくらいだ。緋菜ちゃんが確認出来るのは、征嗣さんが私の家へ出入りする時だけ。それに私のマンションは、外からそれは確認出来ない。確か私が皆に住所を知らせたのは、大晦日の前夜。彼女が私の家を知ってから、征嗣さんが来た日は3日だけ。あの時は、彼女は仕事中だった時間である。つまり、その証拠は持っていない。


「家は一人暮らしの感じだったから、結婚はしてない。彼氏なんでしょ。だから、マグカップもあんなにあるんでしょ」

「え、え?マグカップ?」

「そう。私ね、気付いたの。私の部屋にはマグカップは2つしかない。だって私しか飲まないもの。そんなに必要ないじゃない」


 得意気に披露される下手な推理に、開いた口が塞がらなかった。マグカップが沢山あったから彼氏がいるって、ただの言い掛かりだ。私が彼女に反論を言ったから、気に入らないのか。それとも喧嘩がしたいのか。どっちだろう。


「えっと……言ってる意味が分からないんだけど。マグカップって、一人2個までしか持っちゃいけないんだっけ?」

「家に来るような彼氏が居るから、沢山あるんでしょ。それなのに、成瀬くんにも良い顔して何なの。もう、成瀬くんから手を引いてよ」

「成瀬くんから手を引いてって、どういうこと?緋菜ちゃんには関係ないじゃない」

「関係あるわよ。私の友達だもん」


 私は、根本から間違えていたことに気付く。

 私を陥れたいとかと言うよりは単純に、成瀬くんが自分を選ばなかったことが面白くないのだ。彼らに囲まれて楽しかったところに、私と言う因子が現れた。3人の幸せな時間が壊れた、とでも思っているのだろう。別に彼らは、緋菜ちゃんをチヤホヤする取り巻きではないのに。


「……はぁ。もういい加減にして。緋菜ちゃん、あなたこそ何様のつもりなの。男性が全て、自分を向いていないと気が済まないの?」


 あからさまに大きく吐いて見せた苛立ちに、緋菜ちゃんは眉をピリピリさせている。本当に、私が怒らないとでも思っていたのか。私は、聖人ではないのだ。


「あのね、緋菜ちゃん。マグカップは、もっとあるの。仕舞い込んである物もあるからね。そんなに沢山あるのは、コーヒー豆によって変えるからよ。縁の厚みとか口の大きさとかで、味や風味が違うの。そういう愉しみ方もあるのよ」


 沸騰しそうな苛立ちを堪えて、穏やかに話し掛けた。テーブルの下で拳を握りながら、耐えている。緋菜ちゃんの背後の席から、シィッと人差し指を立てながら昌平くんが顔を見せた。私は、そのまま気付かない振りをしている。


「お箸だって沢山あった。靴ベラもあった」

「うん。お箸は、皆が来るから5善組の物を買いました。それから靴ベラはね、母の持ち物よ」


 緋菜ちゃんの疑問を一つずつ潰す。こうしないことには、この子はきっと信じないから。あぁお友達だと思っていたけれど、信用されてなかったという事実が、少しずつ胸を抉る。


「それに……写真立てだって」

「写真立て?」


 沸々と怒りのような物を孕んだ彼女の目は、私に彼氏がいると決め付け、認めさせようとしている。恐らく、そういう小さな気付きの点を繋いで、彼氏がいる、という考えに至ったのだろう。それを成瀬くんに伝えた、か。だから彼は、『教授のこと、気を付けて』と送って来たんだな。昌平くんの目を盗んで打つには、それくらいしか出来なかったのだろうから。


「写真立ても沢山あった。それが全部倒れてた。あれは、慌てて私たちに見せないように倒したんでしょ」

「写真立てね。あるわよ。お掃除の後に、並べ直すのを忘れたの。だから、倒れてただけ。写真は全部、母よ」

「有り得ない。母親の写真を沢山飾る人なんて、いないでしょ。見え透いた嘘吐いたって、すぐにバレるんだからね」


 苛立ちを少しでも逃がしたくて、また大きく溜息を吐いた。彼女の後ろの席では、立ち上がりそうになる成瀬くんを、今度は昌平くんが必死に止めている。


「世の中にはね、母親の写真を沢山飾る人もいるの。緋菜ちゃんが、知らないだけ。自分の思い込みで決め付けるのは良くないよ」


 穏やかに言うことを心掛ける。そうでないと、今にも成瀬くんが飛び掛かって来そうだから。私も、喧嘩がしたい訳ではないのだ。


「今度は説教。隠したかったのがバレたから?もういい加減、認めたら?」

「あのねぇ……そんなに疑うなら、今から見に来る?構わないわよ」


 緋菜ちゃんはまた、ギュッと強く口を結んだ。思い描いていたようにいかなかったのだろう。ギャフンと言わせて、勝ち誇りたかったのかな。それも、何だか寂しい。


「緋菜ちゃん。私と初めて会った時に、彼が言ったこと覚えてる?」

「元カレ、ね。覚えてるわよ。中身を磨け、でしょ。本当にアイツも、何様のつもりなんだろう。偉そうに」

「あのね。緋菜ちゃんに足りないのは、その言葉に尽きると思うの。隣に座っていただけの私でも、彼の言いたいことは直ぐに納得出来た。あぁなるほどなって。あの時も端々から、誰かを見下してるのが分かったもの。別れようって、先に言ったのはあなた。でも、嫌だって言って欲しかったのよね。言って貰えなかったから、面白くなかったんでしょ」


 きっとこんなことは、誰も言わなかったのだろう。そう思っていた人もいたろうが、触らぬ神に祟りなし。付かず離れずで、深い関係にはならなかった。そうして気付かぬうちに、孤高の人のように扱われた。そういう意味では、彼女もある意味被害者である。


「他人の話に聞き耳立ててんの?趣味悪っ」

「嫌でも聞こえて来たんだもの。仕方ないじゃない。でもね、若さと外見だけに、自分の良さを見出しているのって危険だと思うの。急に周りの態度が変わったと感じる日が、絶対に来る。もしも感じられないとしたら、それはあなたが見て見ぬ振りをしてるだけ。今日仕事で叱られたのも、そう言うことじゃないかな」


 彼女と出会ってからずっと、私が言いたかったことだ。若さと外見だけでは、心から誰も選ばないだろう。今のうちに、知っていて欲しい。十年後、いやニ、三年後にそれに気付いて愕然とする前に。

 けれど彼女は、ただただ面白くなさそうだった。


「緋菜ちゃん、若さは何時までも切り札にはならない。それはきっと、直ぐに分かるわ。でも、それを現実で思い知らされてからでは、きっと遅いの。彼もそれを言っていたんだと思う」

「……どうして、それを今言うの?あの日に教えてくれれば良かったでしょ」

「そうね。あの時に解っていたんだものね。でもね、緋菜ちゃん。あなた、それで素直に聞き入れた?私のことなんて知らないくせに、って思わなかった?」


 私を追及してやるつもりだったのだろう。今自分が責められる立場になっているのが、余程悔しいのだ。徐々に、睨む目が薄っすらと涙を溜めている。


「悔しいかも知れないけれど。あの時に彼が言ってくれたのって、優しさだと思うんだ」

「どこが?どこが優しいのよ。あんな公衆の面前で、誕生日の私をフッて。最低な男じゃない。陽さんも、同じよ」


 伝わらない。プライドが高過ぎて、失敗を受け入れられないのか。悔しいことだけは見えている。キリキリと歯ぎしりをするように、下顎が動いた。


「そんな顔しないで。美人さんが台無しよ」

「はぁ……何なの。私はそう言われたくない。美人だって何?好きで、この顔で生まれたんじゃない。謙遜したって、素直に受け入れたって、どのみち嫌味だって捉えるんでしょ。私はどうしたら良いのよ」


 これは本音だろうと思った。美人であるが故に、周りが理解出来ない苦労をしている。それは、何となくは分かった。でも矛盾していることに、この子は気が付いていないのだろうか。


「いい加減にしなさい。どうしてそう言われたくないくせに、私の方が綺麗だって思うの。矛盾してるじゃない。結局、外見に自分の価値を見出して、縋っているはあなたでしょう?」


 緋菜ちゃんは、ポロっと涙を零した。酷い、と声を震わせながら。まるで私だけが、加害者の様相である。


「緋菜、もういい加減にしろ」

「しょう、へい?」


 我慢ならなかったのだろう。立ち上がった昌平くんが、私たちのテーブルの脇に立って制止した。


「成瀬くんまで。聞いてたの?と言うか、何でいる訳?陽さんが呼んだの?あぁもう本当に……卑怯な人なのね」

「おい、緋菜。その言い草は何なんだよ」


 目を赤くしながら、緋菜ちゃんは私をまた睨む。昌平くんや成瀬くんには、そうしない。あくまで彼女の敵は、私だけのようだ。


「成瀬くん聞いて。陽さんは絶対に彼氏がいるの。騙されてるのよ。写真立てだって、今見に来いって言うけど、絶対にはったり。私たちは騙されてたのよ」

「何、それ?騙されて、た?私が騙してたって言うの?」

「そう。私たちと友達になったフリをして、新しい男を漁ってたんでしょ?詐欺師と同じじゃない」


 パシン、と私が彼女の頬を叩いたのは、言葉を発するよりも、涙が溢れるよりも早かった。喧嘩はしたくない。同じ土俵には立たない。そう決めていたのに。


「ねぇ、母の写真だって何度言ったら分かるの?私は純粋に、あなた達とお友達になれて嬉しかった。けれど、そう思ってたのは、私だけみたいね」

「陽さん、僕たちはそんなことは」


 成瀬くんがそう言ってくれて、昌平くんも大きく頷く。でも、もう私の我慢も限界だった。苛立ちは沸騰し、吹き零れる。


「緋菜ちゃんは、違うみたい。母の写真だと言っても、何を言っても、信じてもらえない。仕舞いには詐欺師って……酷いのはどっちなの」

「陽さん、ごめん。おい緋菜、謝れ」

「どうして私が謝るのよ。今聞いてたんでしょ。私が罵られてたんだって」


 私は彼らに、静かに首を振った。不思議と涙は出ない。友人として、緋菜ちゃんに笑って幸せでいて欲しかった。だから、事実を伝えただけなのに。詐欺師とまで言われ、私はもう無理だった。


「今まで有難う」


 そう呟くと、荷物を纏めて店を飛び出した。後ろから成瀬くんの声がする。けれど、振り返ることはなかった。

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