第37話 私は籠の中の鳥

『陽さん。昌平と喧嘩しちゃった』


 メッセージを受信したと、ポップアップが立ち上がる。私はつい、それを見て溜息を零した。喧嘩をした、とだけ言われて、私に何を望んでいるのだろう。愚痴を聞いて慰めて欲しいのか。解決策を探りたいのか。それとも、仲裁に入って欲しいのか。喧嘩をした、という事象を告げられただけで、私はその裏まで読み取って返事をしなければならないのだろうか。そう思うとまた、溜息を零れた。

 好きな人と喧嘩をしたのは、一大事だろう。だけれども、昌平くんからは聞いていない。つまり、緋菜ちゃんが何かをしてしまった。そういうことだろうと思った。それでも私の大事な友人である。大丈夫?と直ぐに返してあげたいけれど、今の私にその余裕はない。申し訳ないけれど、私は静かに携帯の電源を落とした。


「とにかく考えなくっちゃ」


 ドリッパーから落ちていくコーヒーを見つめて、これからどうするかを必死に考えている。今日のうちに、色んな判断の先を考えていかなければならないからだ。何手先までも考えて、頭に経路を描いては、行き詰って抹消する。そんなことを今日はずっと繰り返している。メモを取ってはいけない。形跡を残しては、いつ見つけられてしまうか分からない。だから、自分の脳みそをフル回転させているのだ。だけれどもそもそも、どうしてここまで急を要しているのか。それは、昨夜まで遡る。

 成瀬くんと酒を飲んでいた時、征嗣さんから連絡が着た。何をしている、と。だから私は、成瀬くんを透明人間にして、飲みに出て来た、と正直に言ったのだ。あくまで、1人で。誰とだ、としつこかったけれど、それは何とか往なした。折角楽しかったのに。それで心は台無しになったが。でも、成瀬くんには不思議と、正直に今までのことが言えた。母が亡くなってもう十三回忌も過ぎたこと。私に親類縁者は誰もいないこと。それから、葬式だとか全て助けてくれたのが征嗣さんだったことも。


「あぁ帰って来るまでは、楽しかったのになぁ」


 虚しい独り言だ。成瀬くんには、あの計画の進行状況は知らせてくれなくていい、と言っておいた。今頃、連絡がいっているだろうか。夕べ帰宅した後で、征嗣さんと喧嘩してしまったから。何を言われているかと、少し不安にはなるが。あぁまさか正月に、あの人が電話を寄越すなんて思ってもみなかった。珍しく酔えた私は、言いたいことを言ってしまったのだ。どこにも行くな、と言いたげだった彼に向って、「自分は結婚したくせに、酷い」と。


「あぁ失敗したなぁ……」


 もう全て後悔だった。急に会わないことは無理がある。仕事に響くことだけは避けたい。さて、どうするか。コーヒーを落とし終え、テーブルへ運ぶ。香ばしい香りを吸い込みながら、どんよりとした重たい現実が、頭の中でクルクルと回った。


「とにかく、一番気を付けなけないのは、成瀬くんのこと。征嗣さんはきっと、結び付けて来るだろうから、私は私でしっかりと気を持たなきゃ」


 パシンと頬を叩いてから、コーヒーを啜った。グアテマラコーヒーの花のような香りが、部屋中に広がって行く。結局、征嗣さんが飲んでいる豆を選んで買ってしまった私。本当に別れることが出来るのか、自分が一番懐疑的だった。

 昨日、私は何と彼に言ったか。それを順繰りに思い出そうとしている。誰かと一緒だったか、と聞かれ、一人で、と少し怒った。休みの間私は、部屋ここに閉じ籠っていればいいと思っている、とぶつけた。心配していると言われて……事実を言ってしまった。えぇと、それから、それから……


「自分は結婚したくせに、酷い……かぁ」


 そう言った時、征嗣さんはどうだった?怒ってはいた?ズルい、と思っていることは事実だ。自分だけ幸せな家庭を作って、私は何時までも鳥籠の中だなんて。私だって幸せになりたい。私だって温かな家庭が欲しい。それをそのまま素直に伝えたら、あの人はどうするだろう。分からないけれど、「別れてください」とだけ言い続けるよりは良い気がする。それを聞いて踏み潰すほど、彼は鬼ではない。

 コーヒーをまた一口飲んで、柔らかく息を吐いた。そしてまだ頭の中は、その何手も先を計算している。これもまた、行き詰ってしまうかも知れない。けれどもう、引き返すことは出来ないのだ。

 暖かくなる頃には、状況は変わってるかな。成瀬くんが、大丈夫だって言ってくれた。それを信じたい。信じよう。自分の中に芽生えていた、新しい信念。年が明けて、何だか丁度良い気がする。コーヒーを口元に運びながら、フフッと小さな笑みが零れた。少し気持ちが整った気がした。本を読んで、掃除をしよう。そう口角を上げた時、インターホンが鳴った。さっきまでの心地良い決心が、一瞬にして大きな動悸へと変わる。だって、私の家に来る人なんて、限られている。こんな昼間。緋菜ちゃんではない。


「征嗣、さん」


 モニターに映し出されたのは、見慣れた征嗣さんの難しい顔。たった今、別れよう、と心に強く思った彼だ。


「征嗣さん、どうしたの?」

「いや、心配になって」

「来てくれたの?」

「おぉ」

「寒いでしょう?上がって」


 心を決めて、私はロックを解除した。出来るだけ、いつものように彼を迎えよう。母の写真を伏せて、またバシッと頬を叩いた。

 玄関を開けるといつものように、征嗣さんはスッと身を滑り込ませて来る。彼を追いかけるように、びゅうッと音を立てて入り込む冷たい風。それを遮断するように、征嗣さんは即座に閉めた。まるで外と私を遮るように。バタン、と閉まる音が、私の緊張を押し上げる。何とかそれをグッと内側に押し込んで、私は彼を笑顔で出迎えた。


「征嗣さん、どうしたの?いつもお正月なんて、来たことないじゃない」


 コートを脱ぎながら、「あぁ、そうだけど」と答える顔は、完全にムスッとしている。私は、会いたいなんて言っていない。勝手に来たくせに。そう思っても、今日は絶対に口にしない。もう覚悟を決めたのだ。


「コーヒーで良い?私も淹れ直そう。あ、そうだ。私もね、グアテマラ買ってみたの。ケニアの後だからかなぁ。フルーティな感じがあって、飲みやすかった」

「おぉ、良かった」


 征嗣さんは、変わらない私に安堵したのか、困惑したのか。どこか無表情で、いつものところに座る。そして、大きな肩を前に丸く窄めて、爪の先何かを弄っていた。元来小心者の彼は、何かに不安になると、あぁやってちまちまと指先を弄る。落ち着かないのだ。私はそれに気付かぬふりをして、彼に背を向けたまま、ゆっくりとコーヒーを落とし始めた。


「なぁ、陽」

「んん、なぁに」

「あの男……成瀬と言ったか。彼とは会っているのかい」

「成瀬くん?元旦に会ったよ。お正月だから皆でね、初詣に行ったの。会っているか、なんて変な言い方しないでよ。何人か居た中の一人、というだけなんだから」


 そうか、と何だか力のない返事が聞こえる。私の返答に納得はいっていない。だけれども、昨夜喧嘩が響いているのか、詰め寄ってくる様子はなかった。機嫌が良い訳ではないが、これまで成瀬くんの話題が出た時とは違う。苛立ちのような棘は、まだ見られていないのだ。あぁきっと、成瀬くんからのメールを気にしている。

 征嗣さんは黙り込んで、また爪先を弄る。多分、不安なのだろう。この関係が壊されていくことが。


「征嗣さん。ねぇ。今日は流石に、ゆっくりは出来ないでしょう?」

「え、あぁまぁそうだな」

「そうだよね。うん……綺麗な奥さんと可愛い娘さん、待ってるもんね」

「陽、それは」

「あぁ、うん。分かってる。ごめん、ごめん。来てくれて、有難う」


 マグカップを持って、苦笑を貼り付けながら振り返る。征嗣さんはまだ肩を丸めたままで、私をじっと見ていた。コーヒーを押し付けるように渡して、私も腰を下ろす。美味しく淹れられたかな、なんて可愛い子ぶりながら。


「征嗣さん。昨夜は心配かけてごめんなさい」

「あぁ、いいんだ。俺が勝手に心配しただけだ。その、すまなかった」

「いえいえ、心配してくれて有難う。でもね……私、思ったんだよね」

「ん、何を?」

「私って、一人ぼっちじゃない?だから私が居なくなったとしても、仕事が始まらないと、誰も気が付かないんだなぁって。家族、って言うのは良く分からないけれど、そういうことに気が付いてくれる人、誰もいないんだなぁって」


 それは事実だった。昨夜彼は、事件や事故の心配をしている訳ではなかったと思う。だけれども、実際にそんなことがあっても、誰も気が付かない。私一人消えてしまっても、誰も気が付いてはくれない。そんな寂ししい存在であるのは、事実なのだ。征嗣さんはカップを口に運ぼうとしたのを止めて、神妙な顔をして固まった。


「だから、征嗣さんが心配してくれたのは、嬉しかったよ」

「そうか。なら良かった」

「うん。でもね、同時に不安にもなっちゃった」


 こんな不安は、常に私を取り巻いている。今に始まったことではない。母が死んで、一人きりになって。征嗣さんが居てくれたけれど、呆気なく結婚された。私は、こんな不安をいつも持っているのだ。でも、征嗣さんは何も気がついては居なかったのだろう。不安、と繰り返し零し、無表情のまま目を泳がせている。


「そう。だって、仮に私が助けを呼んでも、征嗣さんは直ぐに駆けつけては来られない。そもそも、きっと電話にすら出られないだろうから」

「それは……」

「あぁ、ごめんなさい。責めるつもりなんじゃないの。でも、そういう時の為に、私はもう少しお友達は作った方が良いのかなって」


 思ってもないことを言われたのだろう。征嗣さんは小さな声で、確かにな、と言った。心から思って出た言葉と言うよりも、驚きに言わされたようなものだろう。顎の右側を掻きながら、何かを考えている。自分の中の整合性を取っているのかも知れない。


「でもさ、いつもなら電話をして来ない陽がかけて来るなら、俺はきっと出るよ。うん。仮に家にいたとしても。緊急な感じするじゃん」

「本当に?夜中でも?」

「夜中?」

「そうよ。だって、具合が悪くなるのって、夜中が多いじゃない。まぁ救急車を呼ぶのが先だろうけれど」


 彼は今、完全に困惑している。何故なら、今までこんな話をしたことなどないからだ。彼が私を噛むようになる前は、いつも二人で本を読んだり、講義のような議論をしたりしていた。征嗣さんの家族の話も、私の将来の話もしない。昔はあったかも知れないが、彼が結婚をしてからは、そういう話は互いに避けるようになっていた。


「征嗣さん。私、今年はお友達を作ろうと思うの。この年になって、小学生みたいな目標だけれど。それはきっとね、私自身の為でもあるけれど、2人の為にもなると思う」

「俺たち、ってこと?」

「そう。だって征嗣さんしか居なかったら、私はこれから先、ずっと征嗣さんに縋ってしまう。そんな状態になってしまったら、いつかあの幸せな家庭を壊してしまいそうで。そんなことはしたくないし、あなたも嫌でしょう?」


 まぁな、と言いながら、カップを大きな手で包み込む。もう既に壊している気はするけれど、彼は何も感じてはいないらしい。感じないからこそ、私との関係を維持したまま、結婚が出来たのだろうが。


「友達って言ったって、どうする気だ」

「そうねぇ。一先ずはね、ほら、万年筆仲間ともう少し仲良くしてみようかな。それこそ、成瀬くんとか。征嗣さんも相手の素性を知ってるから、安心じゃない?」

「成瀬……か。まぁ確かに、彼の勤務先も知ってるしな。上司も知ってる。そういう意味では、ちゃんとした奴だと思うけどさ」

「ほら、あの時。征嗣さん言ってたじゃない。彼は素直な子だ、だっけ?」


 自分で言ったことを覚えているとは思っていない。あの時は、全て上辺を取り繕っていただけだ。本心では、成瀬くんをだと思っているのだろうから。


「征嗣さん。別に彼とだけ仲良くしようってことじゃなくてね。出来れば、女の子のお友達も作りたいなぁって思ってて」

「なるほどな……まぁ同性の友人が居るのは良いことだと思うよ」

「うん、有難う。今年の目標、頑張ります」


 へへッと笑って見せた。同性の友人なら良いのか、と冷めた目を持ちながら。すると征嗣さんは、一瞬の躊躇いを持った後で、私を抱き締めた。何かを捻り潰すような勢いで。私はそのまま、彼に身を委ねた。何も言わず、重なる唇。髪の中に手を入れながら、絡まり始める舌。それから先にあることは、一つだけだった。

 


「急に来て、悪かったな」

「あぁ、ううん。いいの。心配してくれたんだもの」


 靴を履き終えた征嗣さんは、私と目を合わせると優しく微笑んだ。それから私の髪をぐちゃぐちゃに混ぜて、軽いキスをする。じゃあな、と背を向けた彼は、来た時よりも随分安堵したようだった。そして私はというと、複雑な気持ちでいる。それは未だ、小心者の征嗣さんを心配してしまうからだ。別れたい気持ちと天秤にかけて、また溜息を吐いていた。

 征嗣さんが私を抱いた跡が、生々しく残る部屋。布団を整え直して、カップをいつもより丁寧に洗う。彼が居た痕跡を全て消し去りたいようだった。カーテンの隙間から夕陽が漏れていた。フワッとその光が歪む。悲しい訳でもない。悔しい訳でもない。ただジワジワと、何かが溢れそうになった。


「今日は……もう飲んじゃおうかな」


 自分を奮闘させるように独り言ちて、冷蔵庫を開ける。冷えた缶ビールを取り出し、直ぐにプルトップを開けた。ワインもあったが、今日はこうして豪快に飲みたい気分だった。冷蔵庫の中には、つまみになりそうな物はない。昨夜も自炊していないのだから、仕方ない。面倒だとか感じる前に、私は残っていた野菜を並べる。もう既に、ビールは半分近くなくなっていた。適当に作って、テーブルに並べる。何の彩もない、味気のない物ばかりだ。作ったところで、ほとんど残るだろう。それでも形だけは並べて置きたかったのだ。新しいビールを出して、母の写真を起こす。明日も、私は一人だ。深酒しても、誰にも咎められやしない。


「お母さん、ごめんね」


 征嗣さんとの関係が続く中で、最も後悔する瞬間。初めは、壁に向けていただけの写真も、こうするようになっていた。惨めで無様な娘など、本当に見せたくなかったのだと思う。母の優しい笑顔を見つめながら、私は無意識に腹を擦っていた。


「今日は少なかったな」


 征嗣さんは、何も言わずに私を抱いた。愛があったのかは分からない。ただ抱きながら、残っていた傷跡を噛んだ。苛立ちと言うよりも、愛撫のような優しさで。誰もいない部屋。私は一人ぼっちで、酒を煽る。並べてあるつまみは、何も減らない。


「優しさとは、違うか……」


 虚しい言葉が、夕陽の入る部屋に消えていった。フフッと、一人乾いた笑い声を零す。馬鹿みたい、と思いながらも、私は征嗣さんのことを考えている。いつもよりも穏やかなセックス。昔の様な甘い時間ではないが、確かに彼は私を悦ばせようとした。征嗣さんもまた不安なのだ。築いて来た生活が変わっていくことが。

 でも本当は私達が築いて来た物なんか、彼が結婚を選択した時に崩壊している。それでも目を伏せ、どうにかこの生活を正当化しようとしていた。許されないことをしている。それは分かっていても、『家族愛とは違う愛』があると信じていた。無碍にされても、心が冷めていっても、確かに支えられていたのだ。


「バッカみたい……」


 また酒を煽った。缶ビールなど直ぐになくなる。ただ、どれだけ飲んでも、今日は酔えそうになかった。


 私はずっと、籠の中の鳥だった。それでも彼が心配して見ていてくれることが、確かに私を安心させた。ピィピィと小さな鳴き声を上げても、誰も見向きもしない。羽が抜けても、誰も気付かない。それが当たり前の時間だったのだ。だから、成瀬くんがそれに気付いた時、私は本当に怖かった。急に大空へ舞え、と言われても、飛び方が分からなかったのだ。そんなこと、やってみようと思ったことがないから。

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