第35話 私は、私は
あれから……私の全てを彼に知られた後のこと。私と2人きりにして欲しいと緋菜ちゃんに頼んだ、と成瀬くんが白状してきたのである。だから私達は計画し、表向きの理由を作った。ランチに誘いたい、と言ったらしいので、まぁそれらしい理由を作った訳だ。緋菜ちゃんは、色々知りたがるだろう。だけれども、絶対に躱さなければならない。僅かに疑問を持たれることも許されないのだ。
緊張はしたけれど、案外上手くいくもので。彼らの恋の話に目を向けて、やり過ごすことが出来た。4人で初詣に出掛けた時は、本当に心が軽くて、新年が明るい物になるように感じた。それなのに……
先に彼らと別れて帰った私に、成瀬くんが連絡をくれた。今から戻ろうと思うんだれど、と。けれども、私はそれを断ってしまった。彼と2人きりになることが、何だか怖かったのだ。征嗣さんと別れることが現実になることも。この部屋で成瀬くんと2人きりになるということも。あの時、彼は私を一人にしないと言ってくれた。それを信じたいくせに、この部屋で一人になると、つい征嗣さんのことばかり考えてしまう。何も考えないようにする為に、片付けをして、直ぐに寝た。起きた後の携帯には、成瀬くんからの連絡が入っていたが、私はそれを今も返せていない。
1月2日、午前9時45分。私はコーヒーを淹れ、山積してある本の中から、一冊手に取った。今日は哲学書。あとの残りは、社会学とエッセイ。それから雑誌が数冊。
「とりあえずは、要約掴まないとな」
はっきりとした声で独り言ちて、メモ書き用のノートを用意する。それと無機質な三色ボールペン。私はそれをわざとクルクルと回して、今日何度目かの溜息を吐いた。何の飾り気のないペン。成瀬くんがクリスマスにくれた物は、職場のデスクの中にしまってきた。きっとあれがここにあったら、征嗣さんは間違いなく違和感を持つ。彼はそういう人だ。
年末にこの部屋にあった温かな時を思い出して、微かに口元が動いた。緋菜ちゃんは、今日は昌平くんとデート。上手くいくと良いけれど。
「とにかく、読まなくちゃ」
私に正月感がないのは、いつものこと。こうして、ただひたすらに本を読むだけ。それから松の内の終わりごろに、征嗣さんがやって来るのだ。そして、いつものように私に尋ねるだろう。どんな本を読んだの?と。それは内容を知りたいからではない。ただ、私を優しく縛り付けて置くための言動である。それも全て理解しながら、結局今年も、私は同じことをしている。別れたい、と確かに思っているはずなのに。
サクサク読み進めても、その手を止める物も大きい。コーヒーを片手に溜息。朝からこれを何度したことか。成瀬くんがあんな風に言ってくれたことは嬉しいが、応えることは絶対に出来ないだろう。征嗣さんと別れられたとしても、だ。私は、汚れた人間。彼に離婚歴があろうと、比にはならない。決して日向を歩いてはいけないのだから。私はそれを戒めのように、何度も何度も自分に言い聞かせている。
ボォッとしている静かな部屋に、バイブレーションの音が響く。あぁ電話が鳴っている。
「征嗣さん……」
しつこく鳴り続ける電話。何とか手を伸ばすが、それは震え、身を強張らせていた。きっと征嗣さんだろう。家族でいる時間の合間に、私の生存確認をしてくる。孤独なウサギは死ぬ、と思っているのだ。そんな理由で、ウサギが死ぬはずもないのに。
もしかすると来たりするだろうか。慌てて鏡の前に立つ。黒のタートルネックワンピース。黒いタイツ。薄化粧はしてある。今マンションの前だ、と言われても大丈夫だろう。大きく息を吐いから、ようやく画面を見る。しかしそこには、彼ではない名が表示されていた。
「……もしもし。成瀬、くん?」
「良かった。出てくれた。今、一人?大丈夫?」
「え、あ、うん。大丈夫」
征嗣さんじゃなかった。その電話を私の指先は一瞬スルーしようとしたが、それはしてはいけない、と頭が止めた。今出なければ、会いにくくなる。彼が嫌な訳ではない。ただ心が綺麗に片付いていないだけだ。征嗣さんと別れる方法も、未だに見つけられていないのだから。
「心配したんだ。昨日、返事がなかったから」
「あぁ、うん。そうだよね。ごめんなさい」
「謝らないで。僕が心配だっただけだから。ちゃんと、ご飯食べてる?」
「あぁ、うん。大丈夫、大丈夫」
食べてます、と胸を張れるほどではない。年末に無理をして沢山食べたのもあるが、何だかお腹が空かない。昨日はうどんを啜るのが精一杯だった。きっと考えることが多過ぎて、食事どころではないのだ。
「食べてないでしょ」
「大丈夫、大丈夫。食べたって」
「僕ね。大丈夫って二回言う人のこと信じてないから」
彼は、いつものように言った。それがあまりに得意気で、ふふっ、と私の口から微かな笑い声が漏れる。久しぶりに表情を変えたのか。何だか、頬が強張ったように感じる。成瀬くんの背後に聞こえるトラックの大きなエンジン音。どこかに出掛けるところだろうか。楽し気な人の声も、私の耳に届いていた。
「ねぇ、陽さん。今から出て来られないかな。ちゃんと話がしたい。そんなに直ぐに気持ちの整理なんか付くものじゃないだろうけど、一人でどうしたら良いか悩んでるんじゃない?僕が力になれるか分からない。でも、他に誰にも話せなくて、不安なんじゃないかなって」
彼が真剣に向き合ってくれていることは、先日の件で流石に理解している。とても有難いことだし、それを信じている。出来れば、心の支えであって欲しいとも思ったり、している。だけれども、応えることの出来ない相手の厚意に甘えるのは、どうも気が引けるのだ。だからつい、曖昧な返事をしながらも答えが見つかっていなかった。
「僕はね、何が出来るかは分からないけれど、一緒に考えたいと思ってる。成瀬に相談してみようって思ったら、来てくれる?そうだな……駅伝の碑のところ。お昼まで待ってるから」
「……分かった」
「うん。有難う。じゃあ……またね」
成瀬くんの優しさは、本当に有難いと思っている。だけれども、行く、と即答出来ない私。彼はとても明るい声で応え、電話が切れた。そして直ぐに、私の自問自答が始まる。
私はどうしたいの?もう噛まれたりしたくない。征嗣さんと一緒に居たい。あの子を裏切れない。一人になりたくない。征嗣さんと別れたい。幸せにだってなりたい。怖い。不安……私は、私は――?
応えられもしないのに、成瀬くんに甘える訳にはいかない。ただ心に寄り添ってくれるだけで十分。そう考えて、また本を開く。だけれども、興味があって選んだはずなのに、1つも中身が入って来ない。
「お昼まで待ってるから……」
彼の言ったことを呟いた。時間がどんどん迫る。私は、どうしたい?そう聞いたところで、正解が見つけられない。甘えてはいけない、と思うのに、今私は……
「陽さん、こっち」
結局私は、駆け出していた。でもどこかで、彼と目を合わせるまで、迷っていたのだと思う。今甘えてしまったら、成瀬くんの手を離すことが出来なくなる気がして怖かったのだ。午後12時5分。約束の時間には間に合わなかった。それでも彼は、私を笑顔で迎え入れる。
「……ごめん」
「会って早々で謝る人いる?来てくれて、有難う」
「あ、うん。でも……12時に間に合わなかった」
「え?あぁ、でも。僕はざっくりしたことしか言ってないよ。お昼までって言ったの。それって、大体13時くらいまでじゃない?」
彼は私を責めない。ニコニコと嘘みたいな笑顔を貼り付けて、私を見るだけ。無理をさせている気がする。彼までも、私の重苦しい何かに引き摺られているのではないか。そう胸が痛んだ。
「少し歩こうか」
「……うん」
直ぐに歩き始めた成瀬くんを、私は追った。こちらヘ向かって来る人の波をかき分けるが、なかなか上手くはいかない。肩をぶつけてしまっては、その度に小さく謝るが、キリがないものだ。それを見たのか何なのか。成瀬くんがサッと、私の右手を取った。チラッと目を合わせて、苦笑いをしてから。あぁはぐれないように、ということだろう。子供の迷子の予防みたいなものだ。
それなのに。私はやっぱり嬉しかった。胸がキュッと縮むように、苦しい。そして、恥ずかしい。お日様の下で、こんな風に歩ける。当たり前のことだったとしても、それは私にとってやっぱり特別だった。
それなのに。
私はやっぱり嬉しかった。
胸がキュッと縮むように、苦しい。
そして、恥ずかしい。
お日様の下で、こんな風に歩ける。
当たり前のことだったとしても、それは私にとってやっぱり特別だった。
「科学博物館の辺りの方が良いかな。お正月っぽくない所の方が、人が少ないと思うんだ」
公園の中を歩き始めて、彼がそう言った。そうだね、と答えたけれど、聞こえたかは分からない。それくらい、楽しそうで幸せそうな人で溢れている。私達も、その一部に入れるだろうか。
もし征嗣さんと別れることだ出来たら?いや、それはダメだ。私は彼とこうして並んでいてはいけない。それなのに、私は成瀬くんに甘えるの?対極の意見を自分の中でぶつけては、何度も答えを見失っていた。
「あの辺りで良いかなぁ。人もそんなにいないし」
「うん」
「流石に寒いけど、ごめんね」
成瀬くんの無理をしているような笑顔を見るのが辛い。隣に並んで、私は直ぐに下を向いた。まだ、手は繋がれている。この温かさが、恋しくて、苦しい。
「陽さん。呼び出しちゃってごめんね。でも、本当に来てくれて有難う」
「うん。待たせちゃってごめんね」
「新年早々、嫌な話かも知れないけれど。陽さん。あまり間を空けない方が良いと思って」
「う……うん」
「あまり遠回りしても仕方ないから、単刀直入に聞くね。陽さん、あの人とは別れたいんだよね?」
繋いでくれている手に、少し力が入る。彼は本気で、征嗣さんと別れることを望んでいるのだと思った。真っ直ぐだけれど、温かい瞳。私はそれを見つめてから、目をギュッと瞑り、頷いた。
「よし、分った。じゃあ、一緒に考えよう。これからどうしたら良いか」
「う、うん。有難う。その……宜しくお願いします」
「うん」
成瀬くんは背を丸めて、大きく太い息を吐いた。溜息というよりは、安堵かな。つい忘れていた呼吸を慌ててしたような、そんな風だった。
「良かった。僕、怖かったんだ。あの時、陽さんは僕を信じてくれるって言ってくれたけど。陽さんがまた一人で考え出したら、簡単に覆されちゃう気がして。会ってくれないんじゃないかって……怖かったんだ」
力ない笑みを見せた彼と目が合うと、私は自分を酷く責め始めた。どっちつかずの答えを持って、右往左往して。甘えたくてもたれ掛かっては、結局、彼を苦しめていただけだ。繋いだままの右手を軽く握り返すと、陽さん、と彼は小さな声で私の名を呼んだ。
「成瀬くん。お願いがあるの」
「え、お願い?何?」
ゴクリと唾を一度飲み込んでから、ふぅぅ、と長く息を吐いた。そんなことで落ちい付く訳のない気持ちを、ギュウギュウに押し込んでいる。そして、私はしっかりと彼を見た。
「私、征嗣さんと別れます。でもそれは、とても根気の要ることだと思っています。彼は本当に面倒臭い人だから。あなたが言ったように、服の下は想像通り。これも、もっと酷くなるんだと思う。私を嫌いになっても、軽蔑しても、別れるまで見届けてくれませんか」
彼は二度、目をパチパチさせる。それからほんのりと嬉しそうな瞳で、「も、勿論だよ」と答えた。征嗣さんと別れることに、一歩近づいた気がする。寂しさはあるけれど、後悔はしていない。あの可愛らしいリュック。それを思い出して、私は自分に言い聞かせた。
「そうしたら僕からも、一つお願いがある」
「あ、はい。私に出来ることなら」
「あの人と本当にちゃんと別れられたら、僕はもう一度陽さんに気持ちを伝えます。そうしたらその時は、ちゃんと考えてくれませんか」
真っ直ぐな視線が向けられる。その真剣さは、苦しいくらいに、私を締め付けている。そこまで言って貰える程、私は立派じゃない。だけれども、認め始めている。日向を歩いてはいけないとか。彼の隣を歩けない、だとか。そんな言い訳ばかり並べているのは、ただ逃げているだけなんだ。私はこの気持ちに、向き合わなければならないだろう。いつか、征嗣さんと別れられたなら。
「はい。その時は、きちんと」
「……良かったぁ。断られたらどうしようかと思った」
「流石にそれは、断らないです」
だよね、と笑った成瀬くんは、ようやく自然な表情を見せた。彼は本当に優しい。だからこうして、私なんかに手を差し伸べてくれる。それを言い訳ばかり並べて拒むのは、罪なことだ。彼をこれ以上傷付けない為にも。可愛らしいリュックを背負ったあの子を悲しませない為にも。私は、征嗣さんと向き合わねばならない。
「あのね。征嗣さんは、多分。成瀬くんが怖いんだと思うの」
「え、僕が?怖い顔してる?」
「あぁいや、そう言うことじゃなくて。彼、とても臆病な人なの。きっと成瀬くんの真っ直ぐさが怖いのよ。裏が読みにくいからね」
「裏を読むかぁ。そっか。だから、鋭い目で僕を見てたのかな。陽さんとのことを探ろうとしただけだとは思うけど、人の腹の底まで見るような目だった」
あの鋭い目線。人の粗を探して、蓄えようとする蛇のような目。だけれど、出会った頃はあんな感じではなかったのだ。ただ、陽だまりで二人肩を並べて本を読む。私たちは、それだけで幸せだった。
「あの人ね。本当は優しい人なのよ。そう言われても、信じられないかも知れないけれど」
「うぅん、そっかぁ。学生を見る目は優しいから、そういう一面は確かにあるよね。だから僕は、良い先生だなぁって思ったんだし。学生の悩みもきちんと聞いてさ」
「そうなんだけどね。今の大学に移ってから、私には厳しくなった気がするんだよなぁ。理由は良く分からないけれど」
征嗣さんは、結婚をしてから、周りの目を酷く気にするようになった。それならばいっそ、私と別れてしまえばいいものを。彼はそうすることは望まずに、ただ私を鳥籠に仕舞い込んだ。誰の目にも触れさせないように。
「へぇ……あぁそれはさ、嫉妬なんじゃないかなぁ」
「嫉妬?征嗣さんが?」
成瀬くんの口から、征嗣さんとは似合わない言葉が出て来た。嫉妬など、彼がするわけがない。私を噛んだりするのも、あれは自分のモルモットが思い通りに動かないことへの苛立ち。子供を躾けるような物か。いや、あのヒヨコ色のリュックを背負った可愛らしい娘に、そんな非道なことはするはずないか。
「うん。僕は同性だから、余計気になったんだけどね。嫌なんだよ。陽さんが誰かに触れられるの。変な話だけど」
「へ、へぇ……それは考えたことがなかった」
「……あのさ、今ちょっと喜んだでしょ」
「そんなこと……ないです」
図星だった。私は未だ、こんなことで喜んでしまう。愛されている、と思ってしまう。悔しいかな。十数年重ねてしまった偏ったものは、簡単には消えてはくれないのである。
「ごめん」
「謝らないでよ。その方が傷付く。だけどさ、陽さん。彼のことが未だ好きでも、仕方がないと思うんだ。十年以上一緒に居たって言ってたし。寧ろ、そういう反応をしてしまう位は、好きでいてくれて良かったよ。そこに愛が少しでもあるなら、まだ良かった」
愛、か。そんなものはもう無いと思ってたけれど、まだそれは私の中に確かに存在している。帰らないで欲しいと思ったり、会いたい夜もある。ただ、認めたくないだけなのだ。私が選ばれなかったということを。私たちの関係を不純だとしながらも、彼は否定はしなかった。日陰しか歩けないことに違いはないけれど、汚れた私が少しだけ浄化される。
「有難うって言うの変だけど。うん、有難う」
成瀬くんは、不思議そうに私を見た。当然だ。この気持ちは、きっと彼には分からない。
「どうしたら別れられるんだろうな。何度言ってもダメだった。余計に固執するようになっただけ。征嗣さんには、あんなに温かい家庭が在るのになぁ」
「何度言ってもダメかぁ……家で二人で会うだけ、だもんね」
「そうだね。私の部屋に、彼が来るだけよ」
征嗣さんと外で会えたら。そう最後に思ったのは何時だろう。カフェで一緒にコーヒーを飲むことすら、私達には叶わない。
「陽さん、反対するかもしれないけどね。考えて来たことがあるんだ」
そして成瀬くんは、話し始める。私と征嗣さんが二人で向き合っているだけでは、力関係がひっくり返ることもない。つまり、征嗣さんが私の言うことに、素直に首を縦に振ることはないのだろう。そう成瀬くんの言うことは一理ある。だから、と彼は考えて来たことを教えてくれた。それは私には考えも付かないことで、そんなことをしたら何が起きるのか分からないようなことだった。
でも別れたいのならば、やってみる価値はあるかも知れない。私の中では何よりも、怖さが勝っているけれど。
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