第34話 私に差し伸べられた手を

「どうして成瀬くんが私を助けないといけないの?」


 苛立ちを含みながら、またそう呟いていた。

 成瀬くんが私の現実に触れた。知られたくなかった傷も全て。もう誤魔化すことはない。だけれども、私には分からないのだ。たかが数ヶ月仲良くなっただけ。私たちの関係は、その程度である。成瀬くんが不倫という行為を憎んでとるとして。征嗣さんと別れることを望むことは理解する。ただ、助けたいとまで言われる理由が分からない。


「どうしてって……」


 困った顔をするなら、そんなこと言わないで。面白半分で首を突っ込でなんて欲しくなかった。あぁやっぱり、事実を伝えるべきじゃなかったんだ。

 征嗣さんのこと、彼に初めて話をした。彼の大きな秘密を知ってしまったなら、友人として、フェアでいたかった。勿論そうすることで変われた気持ちもあるから、全てを否定はしない。ただ、彼に話す大前提だったことが間違っていたのだ。成瀬くんならば余計なことはしないだろう、と思ったことが。それが崩れてしまうと、もう後悔しか残らない。


「同情?そんなのは要らないって、ついこの間言ったばかりよね。本当に放っておいて。お願いだから」


 悔しかった。それに、惨めだった。痛ましい状況から一人で抜け出せない、と思われたことも。可哀相だ、と思われたことも。私は、可哀相な女ではない。征嗣さんと居ることを望んだのは私。愛だとか恋だとか、そんなくだらない感情ではないんだ。

 私が全てを失くした時、寄り添ってくれたのは征嗣さんだった。あの時の、優しさの延長線なのだ。状況が変わってしまった今、終わりにしなければいけないことくらい分かってる。だから、何度も伝えて来た。私だって行動しているんだ。征嗣さんが、色々と結び付けては、私にぶつける苛立ち。それは今日も、確かに服の下で痛んでいる。それでも、私は可哀相ではない。


「僕は、同情なんてしてるつもりはないよ」

「嘘よ。だって、あなたがそこまでしてくれる理由なんて、何もないでしょう?もうお願いだから……何も見なかった事にしてくれないかな」


 彼に晒された腕を、服の中に戻す。必死に堪えているけれど、もう泣かない。笑い掛けているが、きっと出来てはいないだろう。それでもいい。彼に会うのは、今日で最後になるのだから。


「陽さん。本当にもう僕に会いたくない?顔を見るのも嫌?」

「そ、うよ……」

「ちゃんと見て。僕のことをちゃんと見て」


 分かっている。成瀬くんが傍に居てくれることが、本当はどれ程に心強いのか。そのくらいは、分かっている。だから彼の強い眼差しに、私は心許無い返答しか出来なかった。どうして放っておいてくれないの、と思う苛立ちもある。でもそれは、彼の言うことに真っ直ぐに反論が出来ないから。情けないことに、事実を言われて逃げ出したいだけなのだ。


「僕は、こんなに傷だらけになる陽さんなんて、見たくない。見たくないよ」


 私に触れようと伸びた彼の手を、スッと避ける。この手に触れてしまったら、私はきっと頼りたくなってしまう。もう、これ以上は。


「本当に、僕のことが嫌いなの?」


 私を覗き込む。全く納得いっていない表情で。ぼんやりと視界には入れたけれど、私は目を合わせることが出来なかった。

 征嗣さんとのことは、きちんと終わりにしようとしている。ヒヨコ色の可愛らしいリュックを背負ったあの子を、私だって不幸にしたくない。それが上手くいっていないのは、征嗣さんが納得出来ていないからだ。簡単に、はいそうですか、というわけにはいかない。ただでさえ、先日の成瀬くんに言われたことに苛立っていて、大変なのだ。これ以上彼に割って入って来られたら、事態がややこしくなるだけ。だから私は、声を絞り出した。成瀬くんのことなんて嫌いです、と。しわしわの、枯れてしまいそうな声で。


「陽さん……ねぇ、それは本心?」

「本当に、もういいので。同情は要りません。全て見なかった事にして下さい。それだけでいいの。お願いします」


 頭を下げた。これ以上、関わらないで欲しい。成瀬くんにだって迷惑を掛けたくない。お願いだから放っておいて欲しい。私の願いは、もうそれだけだ。


「陽さん。本当に、本当に同情じゃないんだ」

「じゃあ何なの?何なのよ。私が助けてって頼んだ?征嗣さんに何か言ってって頼んだ?お願いだから、本当にもう止めて」


 これ以上、成瀬くんが彼を怒らせるようなことをしたら、本当に終わりにすることが出来なくなる。私は愛されている。心の隅っこでそう感じられるうちに、私は彼との関係を終わりにしたいのだ。憎んでなんかいない。この長い年月をかけて、彼は私を支えてくれた。征嗣さんが居なかったら……私は生きて来られたかどうか分からない。

 両手を握り込んで、私はまた下を向いた。成瀬くんが「分かった」と言ってくれるまで、彼を見ることは出来ない。ところが、成瀬くんの大きな両手が突然、私の頬を優しく包んだ。声も出せないまま、驚いて目線を上げる。そうして何時かのように、彼の柔らかな唇が軽く重なった。


「……ごめん。僕は教授と別れて欲しいって、本気で思ってる。同情なんかじゃない。本気でそう思ってるんだ」


 そうして私は、ようやく何かの違和感を覚えた。

 成瀬くんもまた、何か苦しみを抱えているのではないか。だって目の前にいる彼が、真っ赤な目をして唇をギュッと噛み締めている。僅かな静寂が流れ、静かに彼が口を開く。


「僕は、陽さんが好きなんだ」


 彼は、真っ直ぐに私を見てそう言った。


「え……?」 


 私が目を丸くしても、彼は変わらない。赤い目は未だ、ただ真っ直ぐに私を見ている。



「え……?」 


何を言っているんだろう。

私がそう目を丸くしても、彼は変わらない。

赤い目はまだ、ただ真っ直ぐに私を見ている。


「いや、ちょっと待って。成瀬くん……私は、そんな風に言って貰える女じゃない。知ってるじゃない。人の家庭を壊している、最低な女よ。成瀬くんが一番軽蔑するはずの女でしょう?何かが間違ってそう思ってしまったのだとしてもね、それはきっと、幻みたいなものだから。ね、お願い。私のことなんて放っておいて」


 きっと、哀れみで、勘違いしているのだ。可哀相な女に手を差し伸べて、そう錯覚してしまったんだ。それなのに……私の胸の中はドキンドキンと大きな鼓動が響いている。勘違いするな。勘違いするな。何度も自分に言い聞かせた。


「ねぇ、陽さん。どうしたら信じてくれる?」


 そう言う彼は、本当に苦しみの中にいるようだった。本気で言ってくれているの?喉元まで出かかった疑問を、何とか飲み込んだ。自惚れるな、と何かが私を殴りつける。今まで、成瀬くんにドキドキしたことがない訳じゃない。幾度か、いや何度もそう感じたことがあった。でもそれは、が出来なかった私の、ただの憧れだ。



「僕は、陽さんを可哀相だとか。同情をして助け出したいとか。それから、良い人ぶって救おうとするだとか。そんな風に考えてるんじゃないんだ。上手く言葉じゃ伝えられないんだけど」


 言い表せない悔しさに、唇を噛んでいるようだった。真剣な表情。それをちゃんと見ているのに、私は訝しんでいる。本気にしてしまうから、止めて。心の中で、必死に叫び続けていた。


「ポテトサラダ、凄く嬉しかったよ。忘れても良いような話だったのに、ちゃんと覚えててくれた。そういう細やかな気遣いが出来るところとか。昌平くんたちの恋を優しくフォローしようとしているところとか。僕はきっと、陽さんの好きな所を沢山言えると思うんだ。まだ少ししか知らないから、教授よりは少ないかも知れないけれど」


 彼は本気で言っているのだろうか。こんな私に、本気で手を差し伸べているのだろうか。


「あの……何て言えばいいのか分からないけれど、有難う。でも、私は成瀬くんの横には、立てないような人間だから。そう言ってくれただけで、十分。うん。本当に有難う」


 感謝はしている。きっと懸命に考えて、こう言ってくれたのだと思う。どうしたら私が、征嗣さんとちゃんと別れるのか。それを色々考えた結果なのだろう。あぁやっぱり、成瀬くんは優しい。


「どうして?僕らは並んでいたらいけないの?僕だって、バツが付いてる人間だよ。しかも、それを誰にも知られたくなくて隠して生きてるような、姑息な人間だよ。僕はそんなに立派な人間じゃない。陽さんには話したじゃないか」

「確かに、聞いたけれど」


 成瀬くんが少し語気を強める。けれど不倫をする女など、彼が一番嫌いな人間だと思うのだ。サキと言ったか。彼女と同じ。誰かを裏切って、自分の寂しさを埋めているのだから。


「それならば、分かってるでしょう。僕は自分の苛立ちを妻にぶつけてしまった。最低な男だよ。それでも陽さんは言ってくれたよね?私の知ってる成瀬くんは優しい。過去は過去だって。ならば同じように、陽さんのことを思ってもいいはずじゃない?僕が知ってる陽さんは、誰にでも優しい。それだけでいいよ」


 成瀬くんは、そう訴え掛ける。真剣で、力強い言葉が並ぶ。明らかに私は、その勢いに押し負けていた。


「陽さん、僕は本気だよ。お願いだから、それは信じて」


 まだ赤い目は、真っ直ぐに私を捉える。澄んでいて、綺麗で、嘘はないような瞳。それを見ながらも、何も言えず、私はただ呆然としている。本気で?私を?


「もう一度、聞くね。陽さん、噛まれたり、してない?」


 私の奥底にある物を覗き見ようとする瞳。頷くことも、首を振ることも出来なかった。彼を見つめ返す私の目から、涙の粒が零れ落ちる。一粒、二粒……それは、誰にも縋れなくなった私の心が、必死に助けを求めたようだった。


「……そっか。うん、分かった。嫌なこと聞いて、ごめんね」


 ポロポロと溢れ出る物を拭うことも出来ず。私は表情を作れないまま、ゆっくりと首を振った。温かな成瀬くんの手が、私の頭を撫でる。気持ちはどれも纏まらず、右に左に行ったり来たりしていた。助けの手が差し伸べられ、それを掴むことの出来る安堵。征嗣さんと別れたいけれど、別れたくない気持ち。それから、体に残る痛み。色んな相反するような感情が湧いては、直ぐにシュンと萎んでいった。


「昨日か一昨日、あの人ここに来たよね?体、大丈夫?」

「え?」

「気付いてなかったんだ。あれ。お母さんの写真、伏せたままだったから」


 彼が指さす方を眺めると、母の写真が伏せられている。そうか。昨日は征嗣さんがいつもよりも執拗で、彼が帰るとそのまま寝てしまったんだ。今日はそれを忘れるために、朝から買い物に出てバタバタと動き回っていた。全く部屋のことなど、考えている余裕がなかったのだ。


「大丈夫。大丈夫よ」

「本当に?」

「うん……大丈夫。まだちょっと痛むけど、きっと明日には落ち着くから」


 成瀬くんは苦しそうに俯くと、また私を抱き締めた。彼の肩越しに、床に置かれた本の山を見る。土曜日に慌てて買った文庫本。あれが置いてなかったら、昨日はもっと大変だったかも知れない。



「僕はね、陽さんが嫌じゃなければ、傍にいたいなって思ってる。教授の代わりになりたい訳じゃないよ。僕は僕だから」

「う……ん」

「今は友達のままでいい。何も考えなくていいから。僕は傍にいるよ」

「うん……」

「絶対に一人にはさせないから。信じてくれる?」


 温かな腕の中。鼻先に彼の髪の匂いが届く。私は小さな、小さな声で、はい、と答えた。

 彼の腕に、キュッと力が入る。そして一瞬だけ、本当に一瞬だけ。幸せだな、と思った。何だか緩やかに時間が流れる。征嗣さんが居た昨日とは、全く異なる色と匂いがする私の部屋。味気ない程の殺風景なはずのこの部屋に、ほんの少し彩を感じていた。


 新年が明けた時、私はいつもの通り、一人ぼっちだった。征嗣さんは家族と過ごしていたし、私はここで一人、いつもと変わらない朝を迎えたんだ。まさかその年の瀬に、優しい手を差し伸べてくれる人が現れるとは思ってもみなかった。私を優しく抱きしめる腕。急かさず、待ってくれる優しさ。彼の言葉に、甘えてみたい。そう思い始めている。そしてその気持ちはまた、逃げずに戦おう、という私の意志でもある。上手くいくかなんて、まるで分らない。それでも、諦めずに征嗣さんと話そうと思った。

 成瀬くんは、何も言わずに温和に微笑み掛ける。そんな彼を体から離し、私はその目を見つめた。そうして、きちんと彼に伝える。成瀬くん本当に有難う、と。

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