第32話 私の決意
いつだったか。成瀬くんに「殴るような人ではない」と言ったことがあったな。確かに殴られてはいないし、あの時はそんなことをするような人ではないと思っていた。それと同じことを今、私は言えるだろうか。
「陽、アイツとはどうなったんだ」
部屋に入って来るなり、征嗣さんの尋問は始まった。今日は12月30日。あの遭遇事件の2日後である。
「どうなったも何もないよ。万年筆見に行って、お勧めとかは聞いたけれどね。結局インクも買えなかったよ」
笑って誤魔化そうとしてはみるが、どうせこんなのは茶番だ。彼だって、そのくらい分かっているだろう。目を見合わせたら終わり。だから彼を見ずに母の写真を伏せ、私はキッチンに立った。背後から睨まれていることくらい、分かっている。
「陽。コーヒーは良いから。おいで」
「だって、喉か湧いちゃうじゃない」
「いいから。早く来なさい」
背を向けたまま、コーヒーの用意をする私に、征嗣さんの冷たい声が掛かる。命令口調になったからか。ピリッと背筋に緊張が走った。
「カフェオレくらい淹れさせて」
何とか間が欲しくてそう断ったが、酷く声が震えている。粉末状のそれをマグカップに入れ。湯を注ぐ。張り詰めた部屋に、トトトトと湯を注ぐ音が響いた。
「簡単でごめんなさい」
テーブルへ静かに彼のカップを置く。私はまだ征嗣さんの顔を見られていない。カフェオレを口に運ぶ私の手は、やっぱり震えている。怖いんだ。でも今日は、どうしても先に切り出さなければいけない。
「征嗣さん。先日は家族で居る所を邪魔してしまって、ごめんなさい」
「あぁ。それは仕方ないさ」
「私、決心が付きました。征嗣さん、私たち……もう本当に終わりにしましょう。奥様も娘さんも、とても幸せそうだった。私はあんな家庭を壊すことは出来ない」
一度に言い切った。今更、と言われるのは分かっている。けれど、きっと征嗣さんが思っている以上に、私の意志は固い。
「それで?陽。あの男とは、どこまでやったんだ?」
「何でそうなるの。彼が何を言ったかは知らないけれど、私と彼は何もない。ただの友人よ」
「ほぉ。どの口がそんな嘘吐くんだ?」
成瀬くんに何かを言われたことが、彼を完全に苛立させている。気になっている、と言ったようだが、大事なのはそこではないのだ。その時の表情や目、それから口調。それらがどう征嗣さんを煽ってしまったのか、が問題なのである。私は、ようやく彼と目を合わせた。征嗣さんの目は、間違いなく私を疑っている。
「あの男、成瀬と言ったな。陽を好きだと言って来た。俺に、わざわざ」
「……はい」
「アイツは俺たちのことを知っているな?」
「どうしてそう思うの?」
「あの目だ。それに含みのある言い方。現状を知った上で、アイツは俺にそう言ってきたわけだ」
征嗣さんは、人の奥底にある感情を読むのが上手い。褒められたものではないけれど、元来彼は臆病なのだ。人の奥の奥にある物を感じる為に、神経を研ぎ澄まして生きている。疲れるだろうな、とは思う。そうやってすり減らした神経を休める為に、私が在るようなものだ。きっと彼は私に裏切られることを、多分最も恐れている。
「陽が話したのか?」
徐々に声色が重くなり始めた。頷くわけにもいかず、私は必死に首を振る。カフェオレの甘い匂いが漂っているのに、征嗣さんには届かないようだ。彼の瞳には今、何が映っているのだろう。歪んだ何かが見えているのだろうか。
「陽。あの男は危険だ。分かるね?」
「征嗣さん。本当に、彼は友人なの。それ以上ではないわ」
「だとしても、だ」
「分かった。彼とはもう付き合わないから。でもね、征嗣さん。それとこれとは別なの。私が終わりにしたいのは、彼のことなど関係ないの。奥様と娘さんの笑顔を見ていたら、もう……」
成瀬くんに、淡い夢を見た私が馬鹿だった。一人で幸せな妄想に耽っているだけで良かったのに。一緒にご飯を食べて、お酒を飲んで、並んで歩いた。友人なら許される、と思った私が馬鹿だったのだ。
「陽。あの男に吹聴されたんだね。そうだね」
「違う。本当に違うの」
「陽はそんなことは言わない。言わなかっただろ?」
「言えなかったのよ。だって、征嗣さんが私を選ばなかったとしても、私を大事にはしてくれた。それで良かったから……選んだのは奥様だったけれど、あなたが幸せなのは私と居る時だと思っていた。思い込んでいたのよ。だけれど、違うのよね?娘さんとあんなに幸せそうに笑ってた。あれを見てしまったら、同じようには出来ない」
ここまで言ったのは初めてだと思う。別れたい、と言ったことはあったが、それ以上のことを言ったことはない。どうせ何を言っても、言い包められてしまうのだ。いつも、彼の上手い言葉に。
「成瀬、と言ったな。アイツ、どうしてくれようか。陽がこんなことを言うなんて」
「ちょ、ちょっと。変なことしないで。そうしたら」
「そうしたら?」
「私たちの関係を大声で叫んでいるようなものじゃない」
十数年一緒に居て、ここまで怒った征嗣さんを見るのは初めてかも知れない。あぁちょっと愛されてる。そう思ってしまうのは、もう末期。幸せだと噛み締めている訳では無いが、私の心の隅っこは、そうやって少しだけ喜んでいた。歪んでいるのだ。私だって。
「征嗣さんの今後に良くないことは、やめて。お願い。変なことはしないで。私が自分の考えで、征嗣さんとお別れをしたいと言っているの。彼とは無関係よ」
「庇うのか?」
「そんなことしないわよ。確かに友人だけれど、彼が傷付こうが何しようが、私には関係はない。だけれど、それで征嗣さんが悪者になるのは嫌なの」
「……そうか。そうだよな」
あぁ成瀬くん、ごめんなさい。私には良い手が見つからなかった。一緒に散歩をしたり、色々楽しかったけれど、それももう明日で終わり。成瀬くんと友人で居る限り、征嗣さんと別れることが出来ない。だからもう……
「征嗣さん。彼とは連絡も取りません。会ったりもしません。だからお願いします。別れてください」
「どうしてそうなるんだよ。どうして」
子供と一緒に、幸せそうに微笑んでいた征嗣さんの影もない。彼もまた、一人ぼっちになるのが怖くて震えているのだ。私の肩に、征嗣さんの手が伸びる。あぁまた始まってしまう。押し倒され、凄い力で抑え込まれる。今日で最後にしてください、と微かに声を振り絞った。
それから征嗣さんは何も言わなかった。何も言わないまま、私の腹を、胸を、腕を噛んだ。殴ったりはしない。ただ悔しさを上手く言葉に出来ず、そうしているのだ。まるで赤子のように。
ここ数ヶ月、私の体には傷が増えた。昌平くんとのことを疑われた時、「誤解だ」と泣いた声は彼に届かなかった。強く噛まれたところは痣になり、戒めのように私の体に鎮座している。きっと今日もこのまま抱かれるのだろう。心を殺してするセックス程、無意味な物はない。
こんなことをいつまで続けるのか。空しくなれば、なっただけ、私は征嗣さん以外に正しい愛を求めるだろう。だけれども、きっと征嗣さんは、そんなことに気が付いてはいない。
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