第31話 同情

「大丈夫?」

「……うん」

「成瀬くん……ごめんなさい」

「うん。僕は、大丈夫だよ。それよりも陽さんが心配」


 彼と繋がったまま、気付けば上野公園に居た。動物園通りを避け、不忍池の畔を歩いている。大丈夫?と聞いて来る成瀬くんの顔を見ているが、どんな顔をしているのかよく分からなかった。私は1人、ただ絶望の淵に居る。


「陽さん?無理しないで」

「……うん。ごめんね。大丈夫。大丈夫、大丈夫」

「今日は無理しなくていいんじゃない?」

「大丈夫よ。ごめんね。本当に大丈夫、だから」


 何とか笑った。引き攣っているとは思う。成瀬くんの手を解きたいのに、彼がそれを許さない。死んでしまうとでも思われているのだろうか。ギュッと強く握ってから、分かったよ、と彼は呟いた。


「でももう少しだけ、こうしてても良い?僕が繋いでたいんだ」


 そうやって自分のせいにしてくれた。成瀬くん、と見上げれば、少しお道化た顔をしている。笑わそうとしてくれているのか。ごめんね、と彼は小さく謝った。征嗣さんのことは、泣くようなことでは決してない。今潤み始めたのは、成瀬くんの優しさに触れたからだ。私の目尻に溜まった涙を、彼は優しく指で拭った。薄暗くなり始めた街に、ぽつぽつと灯りが点き始める。


「少し歩こうか」


 温かな声に、無言で頷いた。2人並んで、池の畔を歩いている。湖上を抜けて来た冷たい風。私にを突き付けているようだった。


「成瀬くん。私、ちゃんと征嗣さんと別れる」


 気付いたら、そう宣言していた。その気持ちはこれまでずっとあったけれど、自分だけで完結していたこと。そしてそれは、なかなか進んでいない。


「陽さん……」

「今までもそう思って来たし、何度も言ったけれど出来なかった。でもあんなに可愛い子がいるのに、ズルズルしてるのなんてダメだもの……ね」


 自分に言い聞かせ続けていることを、彼にも言った。そうすることで、いつでもブレてしまう気持ちを、真っ直ぐに保って居たかった。成瀬くんは何も言わない。言わずに、ただ、繋いだ手をキュッと握った。「出来るかなぁ」と、つい本音が零れる。これまで何度も失敗して来た。一筋縄でいかないことくらい、私が一番分かっているのだ。


「そんなに、難しいの?」

「え?あぁ……そうね。きっと難しいと思う。私はそれで何度も挫折してしまったから。でも今日のことは、ちょっと堪えるな。私が目を瞑っているだけで済む問題じゃないものね」


 本当に堪えている。初めて見る征嗣さんの妻。それから、父親をしている彼。可愛らしい娘。その全てが、私を罪悪人だと訴えかけているのだ。それも当然のこと。もう何年も前に終えなければいけなかったのだから。今更あの時のことを言っても、私の罪は決まっている。

 これ以上、可愛らしいリュックを背負ったあの子を苦しめてはいけない。私が勝てなかった奥さんに、妬み等の薄汚れた感情があったとしても、あの子には関係がない。恥ずかしそうに、クルッと回って見せてくれたヒヨコ色のリュック。あれを汚してはいけない。


「あ、ここ」


 考えてばかりいたら、弁天門広場に着いた。あぁここはもう少し楽しい時に来たかった。成瀬くんにとって、幸せな思い出の場所に塗り替えてあげたかったのに。


「そう言えばね、この間気になって調べたんだけどね。駅伝、23区間だったみたいだよ」

「駅伝……あ、駅伝」

「そうそう、駅伝。関東と関西で戦ったんだって」


 この間来た時に、そこにある駅伝の碑の話をした。彼はそれを覚えていたんだ。あの日のこと全てを、忘れてしまったかと思っていた。


「どっちが……どっちが勝ったの?」

「ん?関東みたい。でねアンカーがさ、20代の関東に対して関西は50代だったんだって。凄いチョイスだよね」


 そうだね、と少し笑えた。区間距離だとか、そういうのは分からないが、20代と50代は無理がある。征嗣さんと昌平くんが競っているようなものだ。フッと小さく零して、今日ね、と口を開いた。成瀬くんに、今の気持ちを聞いて欲しい。そう思ったのだ。


「あの子が背負ってた可愛らしいリュック。パパに今日買って貰ったんだって。征嗣さんも、そうやってきちんと父親をしてるんだなぁって思ったんだ。奥様は娘さんに優しそうに微笑み掛けてて」

「うん」

「私ね。私の方が先に付き合ってたのにって、意地があったんだと思う。馬鹿みたいよね。選ばれなかったのに。今となっては、始まりなんて関係ないじゃない?私はもう、加害者でしかないんだなって思っちゃった」


 バカみたい。涙が溢れて来る。戦いの場に呼んでも貰えず、一方的に負けた私。今日分かったじゃない。彼女がしていたピアス。あんなものを征嗣さんが自ら準備をした。それはもう、私以上に彼女が愛されている証拠なんだ。


「……どうしたら終わりに出来るんだろう」


 酷く情けない声だった。小さくて、擦れて、消えてしまいそうな声だった。


「陽さんは、教授が居ないと寂しい?」


 成瀬くんがそうぶつけて来る。居ないと寂しい、か。彼が居なければ、私は一人ぼっちになってしまうから……小さく頷いた。


「それは……さ。僕じゃ代わりにならない?」

「え……何で?」

「僕ね。教授に言ったんだ。彼女のことが気になっる、って。だから」

「いや、いや。ちょっと……ちょっと待って」


 落ち着いていた感情が、また一瞬で激しくブレた。そんなことを征嗣さんに言って、大丈夫なはずがない。この間は、昌平くんと居る所を見て大変だった。今回は、それ以上ではないか。


「何でそんなこと言ったの?成瀬くんが優しくしてくれるのは嬉しいけれど、それは違うでしょ。あなたと私は、ただの友人。そんな風にしてくれなくていい」


 思い切り、彼の手を振り解いた。余計なことはされたくなかった。一体、どういうつもりで……そして彼を睨んだ。


「いや、優しさじゃないんだ」

「じゃあ、何?同情?そんなの要らない。確かに私のしていることは、倫理的に問題だし、ふしだらなことよ。批判されても仕方ない。だけれど、勝手に……勝手にそんなことしないで」


 同情なんて要らない。一緒に居てくれるのは、別れさせたいからだと思っていた。違うの?可哀相な女、だと?腕に残った征嗣さんのあの痛み。これ以上?


「陽さん……ごめん」

「成瀬くん、征嗣さんに何言ったの」

「待ち合わせてご飯を食べてたって、知られたら行けないんだろうなって思ったんだ。だから……前に万年筆のオフ会で出会ってたんだけれど、彼女には忘れられてたって。それで今日は偶然に会ったんだって」

「そんな嘘……あの人に通じるはずがない」


 通じるはずが、ないんだ。征嗣さんは、許してくれない。許せないなら消えてくれればいいのに、それもしてはくれない。私は捉えられまま籠の中で生きるしかない。そんなのは、嫌だったのに。


「どうしよう……どうしよう。どうしよう……何されるか」

「え?」

「今日は帰るね」


 成瀬くんに、これだけは知られてはいけない。絶対に、他人に見られてはいけない。だからダメだったんだ。お友達なんて作ったらいけなかった。征嗣さんの言う通り、私は籠の中で……


「ごめんなさい。今日は有難う」


 勢いに任せて、頭を下げた。もう二度と会わないかも知れない。その彼に。


「ちょっと、陽さん」


 呼び止めようとしてくれるが、止まる訳にはいかない。征嗣さんはきっと、連絡を寄越すだろう。その時には家に居なければ。何か聞かれて不自然なことが無いように、順立てて計画しておかないと。そうじゃなければ私、何をされるか分からない。

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