第30話 見てはいけないモノ
「陽、くんじゃないか」
「せ、先生、こんにちは」
「あら、あなたお知り合い?」
「あぁえっと私、小山田先生のゼミで、もう大分昔お世話になりました」
「そうでしたか。偶然でしたね」
見間違えるはずのない男――征嗣さんが、そう話し掛けた。一気に血の気が引く。初めて見た彼の奥さん。私に勝って、その座を射止めた人だ。引き攣りながら、何とか笑みを作る。今ここに居る全ての人に、《《後ろめたい何か》に気付かれる訳にはいかない。
「彼女は、小川陽くん。昔から優秀な子でね。今は、うちの大学の就職課に居るんだよ。仕事も出来る子でね。教え子の評判が良いと鼻が高くて有難いんだ」
良くもまぁそんな風に私を紹介出来るものだ。それでもあの顔は焦っている。流石に彼もそんな反応をするのか。
「あら。それはそれは。小川さん。主人がいつもお世話になっております」
「いっ、いえ。こちらこそ。お世話になっております」
若い奥さんが、私にそう微笑み掛ける。別に対抗しようだなんて思わない。あの席は、もう彼女のものだ。不純な私の席を返還しなければならないだけで。
「小川さんも、ご夫婦で万年筆を?」
「夫婦?あぁっ、いえ。彼は友人なんです。残念ながら。私たちはそういう関係じゃないです」
「あれ?君は、確か」
征嗣さんが、成瀬くんに気付いた。どうしよう。何と説明したら分かってくれるだろう。今は良い。彼の妻子が居る。でも、今後は?絶対に穏便には済まないだろう。
「成瀬です。先日は大変お世話になりました。お陰様で、開発も順調に進んでいます。また後日、サンプルが出来ましたら、ご相談に伺えればと思っています」
「おぉ、そうか。では、連絡待っているね。あ、あぁ。やっぱり君たちは知り合いだったのかな」
「違うんです。たまたま、ここでお会いして」
あの目は、疑っている。というよりも、その先。もう何か関係があるだろうと思い始めている。奥さんが気付いていないことだけが救いだ。今直ぐにここを離れなければ。
「あの、教授……少しよろしいですか」
「ん、何かな」
成瀬くんが急に、征嗣さんを少し離れた所に連れて行く。お願い。余計なことは言わないで。上手く呼吸が出来ているのかも分からない程、私はパニックになった。でも、奥さんに気付かれてはいけない。
「可愛らしいリュックねぇ」
奥さんと話すことなど思いつかず、娘が背負っていたリュックに目をやった。ヒヨコ色の可愛いリュックである。彼女はニコニコしながら、私の前でクルッと一周回って見せた。
「主人が、さっき買ってくれたんです。遅くなっちゃったけれどクリスマスにって」
「あぁ……そう、良かったね。とっても似合ってる」
彼女ははにかんで、母の後ろに隠れてしまった。ごめんね。私は、あなたのお父さんを……心苦しい思いは、ずっと私を締め付けている。
「ちょっと前にお誕生日でしたよね。ゼミの子達が、ちゃんとプレゼント用意したのかって話してましたよ」
「あら。皆に心配されちゃって。でも彼、そんな風にお仕事してるんですね。そういう話も聞いたことがないから、新鮮です」
「あ、いえ……」
その時、奥さんの耳に光るピアスに気付いてしまった。あれは、ハイブランドの新作。同僚が、可愛いんだけど高いんだよ、と騒いでいた一品である。きっと、クリスマスプレゼントだ。あの時私に言った、妻にはもう用意した、というプレゼント。征嗣さんは、そんな物も買うようになったんだ。本当に遠くに行ってしまったな。教授じゃなかったあの頃は、お金もなくて、あんな店にすら行けなかったのに。あぁどうしよう。涙が出そう。成瀬くん、用事は済んだ?こっちへ向きかけた彼を、征嗣さんが呼び止める。何かまだ話をして、成瀬くんの背に手をやった。
「すみません。折角お会い出来たので、仕事の話をしてしまいました」
「あぁ、私たちは良いんですよ。お気になさらずに」
帰って来た成瀬くんが、奥さんに頭を下げる。そして、彼女のこの返しよう。余裕があって、それから愛を疑っていない。パパ来たよ、と娘に目をやって、荒れ狂う自分の心から目を逸らす。彼女には勝てない。そう突き付けられた現実と、簡単に逃れられない苦しみ。征嗣さんはいつもの嫌な目をして、私を見ていた。
「小川さん。今度は違うお店行きませんか」
「え?」
急にキリッとした顔をして、成瀬くんが私にそう言った。ここは別に出た方が良い。そうでなければ、私はこの後どうなってしまうのか。
「小川くん、折角だからいいんじゃない?」
「え?せっ、先生何を」
「成瀬くんはプロだろう?折角だから色々説明して貰うと良いよ。僕も聞いてみたいけれど、もう買う物が決まっているし。きっと、君は迷っているんだろう?プロの説明は、なかなか聞けないぞ」
あ、この目は酷く怒っている。張り詰めたような冷たい目。「あ……はい」と絞り出して、私は固まった。
「じゃあ、小川さん。行きましょう」
「……はい」
直ぐに動き出せなかった私に、成瀬くんはもう一度「行こう」と言った。私はまだ、あの蛇のような目が怖くて動けない。
「それでは、お休みのところすみませんでした。今後とも宜しくお願いします」
「うん。成瀬くん、君は素直で良い子だね。また何かあったら、連絡しておいで」
「有難うございます」
「うんうん。二人共、楽しい休暇をね」
笑っていない目。何が楽しい休暇を、なの?私もそう過ごして、許してくれるの?急に腹が立った。でも、彼は心から言っている訳では無いことくらい、分かっている。
「せっ……先生。あの……このことは誰にも言わないでいただけますか」
「分かった、分かった。ほら、行っておいで」
「は、はい。奥様、お邪魔してすみませんでした。皆さま、良いお年をお迎えください」
どうでも良い口止めをして、奥さんへ頭を下げた。もう終わりにします。そう口に出来ない思いを込めて。成瀬くんの誘導に乗って、その場を後にした。振り返ってはいけない。見てはいけないモノを見てしまった恐怖は、私の心をぐちゃぐちゃにしている。その場を離れた瞬間に、私の中の何かが壊れた。無理矢理に笑っていた顔は血の気が引き、頬が少しも上がらない。勝手にズンズンと進む私に、「陽さん。陽さん。ちょっと」と成瀬くんが呼び止める。
「成瀬くん、征嗣さんに何言った?」
「え?」
「何か言ったでしょう。あんなに怒った目……どうしよう」
目の前がチカチカする。征嗣さんの痛みが残る腕をグッと掴んで、何とか現実に留まろうとした。涙など出ない。恐怖と不安とパニック。私は今、生きてる?
「行こう」
成瀬くんはそれだけを言って、私の手を取った。愛だとか、恋だとか、そんな物はない。ただどこかに落ちて行かないように、繋いでくれている。それを握り返せないまま、私達はどこかへ向けて歩き始めた。
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