第29話 その優しさに、溺れてしまいそう

 焼肉を食べ始めて、改めて思うことがあった。一緒に笑ってくれる人が居る。それもまたこの味を増幅させている、ということである。


「何だか久しぶりにさ、誰かと焼肉食べたかも」

「え?男の子って、お友達とかと行くんじゃないの?」

「あぁ、それはそうかもね。僕はさ、ほらショウタが一番仲良かったから」

「ごめん……また余計なことを」

「こらこら、謝らないでよ」

「いや、でも……そうだ。じゃあ、これからは私が付き合います」


 申し訳なさもあったが、私だって焼肉を食べたい時もある。1人だって構わないが、こうして食べた方がずっと良い。それが成瀬くんだったらいいな、なんて考えるのは、やっぱりいけないことかな。征嗣さんと別れられないくせに。


「本当?そうしたら僕、誘うよ。本当に」

「え?あぁ、うん。いいよ。でも今度はさ、お好み焼きも行かない?あれも一人じゃ行けないから」

「そうだね。お好み焼き食べて、もんじゃも良いね」

「うん」


 彼がここまで関わろうとしてくれなかったら、私は今も征嗣さんに雁字搦めになっていたと思う。そうして生きて来たし、だった。いけないことだと分かっていても、止めてくれる人は誰もいない。自分の道徳心が止めるべきだが、もうその気力すら沸かなかった。征嗣さんが時折来てくれて、私を満たしてくれる。永遠に続きはしないが、私はこのまま老けて行くのだろう、と思っていたのに。そういう諦めを思い出すと、隣で成瀬くんが笑っていることが奇跡だな、と感じられた。


「結構食べたねぇ」

「そうだね。焼肉はこの辺にしておこうか?あまり食べ過ぎたら、飲む気になれなくなっちゃうよ」

「あぁ確かにそうだね。じゃあ、清算してお散歩でもしようか」


 最後に小さなアイスクリームを食べて、微笑み合う時間は本当に幸せだった。普通のお付き合いをしている人は、こんな風にデートをするのかな、なんて思ったりして。一人勝手に、妄想を膨らませた。征嗣さんなら、アイスは食べないだろうな。私が食べているのを呆れた目で見ながら、最後にもう一杯ビールを飲むだろう。


「あぁ……」

「どうした?」

「いや、何でもない」


 幸せな妄想は、どうしても征嗣さんから始まる。もう嫌だ、と消そうとする残像に頭を抱えた。成瀬くんは驚いた顔をしているが、まぁ、理由を言える訳もない。


「ここは僕が払うよ」

「いや、で……うん。分かった。有難う。ご馳走様でした」


 支払いはスマートにした方が良い。ここは大衆店ではなく、少し高級なお店。やはり男の人を立てた方がいいか。夜は私が出すね、と小声で言うと、成瀬くんは小さく頷いてくれた。きっと彼も、私が奢られる気などないことは百も承知なのだろう。

 店を出ると、互いに少し伸びながら、成瀬くんと目が合う。食べ過ぎちゃったね、とふふッと声を出して笑っていた。そこで私は、忘れていた荷物に気付いた。小さな紙袋である。


「あ、そうだ。忘れるところだった。えぇと、あの。これ」


 その中身は、透明な袋に入れられたハンカチと靴下。店員さんが可愛らしく結んでくれたリボンが、上から覗いて見える。


「クリスマス。ほら、いただいただけだったから。私からも、と思って。遅くなっちゃったけど、メリークリスマス」


 成瀬くんは袋を上から覗いて、中身をじっと見ている。少し良い素材のグレーのリブソックスとハンカチ。そんなにじっくり見るような物でもないが、何だか物珍しい物でも見るようにそうし続けていた。


「好みじゃなかった?」

「あ、ううん。そう言うんじゃなくて。何かごめん。気を遣わせちゃって。僕なんて自社製品の寄せ集めだったのに」

「ううん。それは有難く使わせていただいてます。可愛い付箋とか、結構人気だよ。学生に」

「本当?それは良かったけど……大変だったでしょ。仕事帰りに探したりして」


 そんなことないよ、と答えたけれど、確かに大変ではあった。

 メンズギフトと調べてみても、少し高級な文房具が定番で出て来る。成瀬くんの勤務先を考えると、別のメーカーの物をあげるのも、だからと言って彼の会社の物をあげるのもおかしい。そうして文房具を外し、次に考えたのは入浴剤。形に残らない物の方が良いだろうと思ったが、シャワーで済ませる人ならば無意味だ。同じような意味で、コーヒーが消えた。お菓子などのギフトも見たけれど、クリスマスの売れ残り感が否めなくて、渋々却下。そうしてようやく見つけたのが、靴下だった。お休みの日に履くような靴下なら、シンプルで素材の良い物を選べば良い。楽しかったのは、そう決まってからだ。ハンカチは、まぁおまけのようなものである。


「好みとか、その何て言うか。私、成瀬くんのこと何も知らなくて。どんなお家かも分からないから、お家に置いておくような物も違うかなって。それで、お休みの日に履く靴下って思ったんだけど……」

「陽さん、下向かないで。僕は嬉しいよ。だって僕の好みとか色々考えて、選んでくれたんでしょう?有難う」

「う、うん」


 色々考えて、か。確かに成瀬くんの生活というものを想像したが、本人にそう言われるのは恥ずかしいだけだ。彼は気になっていないようだけれど、上手く笑えずに、1人で顔を赤らめていた。


「あ、そうだ。大事なこと忘れるところだった。靴下は洗濯機で洗えて、ハンカチはアイロンを掛けなくても良い物にしたので」

「え、それ?大事なことって」

「ん?大事じゃない?」

「いや、大事かもしれないけどさ……多分それってタグに書いてあるよ」

「へ?……あぁ確かに」


 成瀬くんは腹を抱えて立ち止まる。もう、と膨れてみたけれど、結局私も同じように笑った。

 楽しいな、と思っても、決して勘違いしたらいけない。彼の優しさは、友人だから。異性の友人など居なかった私には、その距離感が上手く掴めていないだけだ。何度も、何度も何度も。私は自分に言い聞かせた。そうでもしなければ、その優しさに、私は溺れてしまいそうだった。


 それから私達は、腹ごなしの散歩に出た。くだらない話をしながら並んで歩くが、手は触れない。そう言えばあの日、彼が繋いでいたい、と言ってたのは何だったのだろう。そんなことは新鮮で、ちょっと自惚れるような気もあったけれど、あれはやっぱり寂しかったからか。私の右手のほんの僅かなところにある彼の左手。触れそうで、触れない。この間には、超えてはいけない線が引かれている気がした。

 何の目的もなく、銀座の方へ向かっていた。こういうのは、私の憧れる時間だったりする。目的だけを遂行するようなお出掛けではなく、あぁじゃないこうじゃない言いながら並んで歩く。征嗣さんとは決して出来ないことだからなのだろうか。凄く憧れていたことだった。


「あ、そうだ。万年筆見に行きたい。冬のボーナスで買おうと思ってたの」

「行ってもいいけど……僕と言ったら、自社製品勧めますけど」

「だよね」


 ケラケラ笑いながら、彼に誘われて文具屋を目指す。大晦日の食事の話をしながら、楽しい年末をイメージした。こんなにワクワクする年末、どれくらい振りだろう。いつもの年末は沢山本を借りて、部屋に山積みにしてある。征嗣さんが来ても来なくても、寂しくないように。

 私達は、近くの書店に入る。ここは文具も沢山種類がある、見ていて飽きない店。ついでに文庫本のフロアも、見て行きたいな。万年筆を見たら、寄りたいって言ってみようかな。今の征嗣さんだったら、絶対にそんななど言えないだろう。成瀬くんなら、言えるような気がした。


「さぁ、どちらの商品から見ましょうかね」

「営業するの?」

「いや、どちらかというと偵察だね」


 そう言って別メーカーの物を見始めた成瀬くんの目は、あっという間に真剣な物に変った。あぁ変なスイッチを入れてしまったかな、なんて苦笑いしてしまう。彼が楽しいならそれで良いけれど。その脇に立って、デートみたい、とか思う位は許されるだろうか。何だか胸がポカポカするようで、勝手に照れて目を泳がせた。店の奥の方から、「ママ。パパ。早く」と駆けて来る子供が目に入る。追いかける母親はまだ若く、私よりもずっと下だろう。あんな風に、と来るはずもない未来を想像しては、直ぐに薄い溜息を漏らした。


「ほら、転ぶぞ」


 聞こえて来た太い声に釣られて、私までそちらを見た。目が合った、その子の父親。彼もまた、私を見て固まっている。


「せ……」


 そんな偶然なんてあるものか。緋菜ちゃんの誕生日と言い、東京駅付近には魔物でも住んでいるのか。微笑ましく見ていたはずのヒヨコ色のリュックが、一気に色味を失った。

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