第28話 土曜日の恋心
『私、昌平のことが好き、みたい』
返信を打っていたところに、上書きするように送られて来たメッセージ。緋菜ちゃんからだ。自分の中に生まれたモヤモヤする何か。彼女はその正体を知りたがった。恋ではないか、と言っても何度も否定した彼女。そうして、ようやく認められたのだ。
『困った時はいつでも相談して』
『力になれるかは分からないけれど、一緒に考えるよ』
そう送って、ふぅと息を吐いた。きっとこの様子では、これから生まれる感情に緋菜ちゃんは戸惑うのだろう。私に出来ることなど少ないだろうが、あまり難しく考えてはいけない。彼らは思い合っているのだ。
12月28日、土曜日。今日は、成瀬くんとランチに出掛ける日。服がおかしくないかな、なんて考えながら、電車を待っていた数十分前のこと。緋菜ちゃんから急に、モヤモヤする、とメッセージを受け取ったのである。聞けば体のことではなさそうだったので、こうしてやり取りをしながら移動して来た訳だ。答えが出るまでの右往左往は、彼女の戸惑いそのものだった。そのモヤモヤの正体を聞いても、彼女はなかなか答えない。けれど、まさかな……という思いがあった私は、じっと画面を注視した。そして、その正体が『昌平』と返って来た時は、電車の中なのに思わず声を上げていた。そのくらい驚いて、嬉しくて、興奮したのである。
それにしても、認めるまでに時間がかかった。私に連絡をする前から、これは恋かも知れない、と思っても良さそうだが。うぅん、と唸って、1つ閃く。もしかすると、あの子は片想い――自分から誰かを好きになる気持ちを知らないのではないか、と。そんな風に恋愛をして来たとしても、彼女ならおかしくはない。若くて、美人で、明るくて。引く手数多だとしても、納得が出来る。羨ましいというよりも、凄い人生だな、と感服すらしている。
「ふぅ」
大型連休に入った11時過ぎの車内は、楽しそうな声で溢れていた。それに、クリスマスを過ぎたばかりだ。大きなキャリーを持った父母に手を引かれる子供は、真新しい洋服を着ていたり、おもちゃを大事そうに抱き締めていたり。手を繋ぐ男女が、どこか初々しかったりもする。そんな幸せを横目に見ながら、私は大手町駅で電車を降りた。本当は湯島で降りて銀座線まで歩こうと思っていたのに、緋菜ちゃんとのやり取りに夢中になって乗り過ごしてしまったのだ。待ち合わせは、日本橋の商用施設前。多分、15分もかからずに行けるだろう。襟首に入り込む冷たい空気がピリリとするのに、今はそれも気にならない。何だか私まで、幸せな気分だった。
緋菜ちゃんが昌平くんを好きだと認識した。彼が思い切ってしたことは、功を奏したわけだ。あぁ、昌平くんに伝えてあげたい。そんな気持ちを我慢しながら、私は日本橋方面へ急ぐ。待ち合わせまではまだあるけれど、興奮気味のこの自分を落ち着かせなければ。
あぁ私のクリスマスも、思いがけないものだったな。成瀬くんから可愛らしい誘いを受け、あの夜に寂しさを感なかった。それに加えて、征嗣さんも年末で忙しく、連絡が全くない。だからあの夜の余韻が、今でも私の中で保たれていた。
黒のニットワンピースを選んだが、もう少しラフでも良かったか。焼肉を気にした結果真っ黒になって、グレーのブーティでちょっと大人っぽく仕上げた。別にデートではないのに、何だか女を意識しているようで恥ずかしい。少し速まった動悸は、足早に歩いているからではない気がする。こうして明るい内に誰かと堂々と会う。それが成瀬くんでなくても、私には特別なことに様に思えた。友人と一年のご褒美に美味しいお肉を食べる。そんな普通のことも、もう何年もして来なかったのだ。
ある意味、大分遅れて来た青春みたいなもの。
大きな交差点で立ち止まる。待ち合わせは、ここを渡ればもうそこだ。
「あっ陽さん、こっち」
「あぁ、遅くなってごめんなさい」
「いやいや。まだ待ち合わせの15分も前だよ。僕が早く来過ぎたんだ」
「そ、そう?こんにちは」
ぺこりと頭を下げた私に、何故か彼はプププッと声を出して笑った。タートルネックのニット、スリムなパンツ、それからチェスターコート。それは微妙な濃淡の黒系で纏められ、とても彼に似合っている。
「陽さん。やっぱり、焼肉意識した?」
「え?あ、服?」
「そう。色々見たけど、タレが跳ねたら嫌だなって、僕は真っ黒になりました」
「同じようなものだね。洗えて、飛び跳ねが気にならないようにって絞るとね。何だか私たち、焼肉に情熱を燃やし過ぎじゃない?」
「いいじゃん。ほら、一年のご褒美だよ。とにかく食べよう」
ね、と成瀬くんが笑う。こうして誰かと焼肉を食べる日が来るなんて、と感動していることは内緒だ。征嗣さんと行くわけないし、同僚と行ったとしても居酒屋程度。一人焼肉に行ったこともあるけれど、そこまでして肉を食らう欲もなかった。彼は南の方を指差し、行こう、と誘う。同僚にお勧めされたという店は、ここの近くらしい。彼の少しだけ関節の太い指先を、何となく眺める。弾みそうになる心を感じては、彼は友人、と厳しく自分に投げかけた。成瀬くんは、私に不倫を止めさせたいだけ。勘違いするな。何度も何度も、言い聞かせた。
彼の少しだけ関節の太い指先を、何となく眺める。弾みそうになる心を感じては、彼は友人、と厳しく自分に投げかけた。成瀬くんは、私に不倫を止めさせたいだけ。勘違いするな。何度も何度も、言い聞かせた。
「大手町から来たの?」
「あぁうん。本当は広小路から銀座線に乗ろうと思ってたんだけどね……ちょっと」
「ちょっと?」
「あぁ、いや。考え事してたらね、乗り過ごしちゃってね」
緋菜ちゃんとメッセージやり取りに必死だった、とは言えない。彼は共犯だが、彼女の芽生えたばかりの気持ちを勝手に他人に伝えてはいけない。ふぅん、と深く掘り下げられなかったが、また今日も疑われている気がした。
彼が想像していることは、征嗣さんのことだろう。それも考えなければならないが、好きで思い耽ったりはしない。どちらかというと、別れる方法について思い悩む方である。彼は何だかムスッとしていて、「ねぇねぇ、今日は飲んでいいの?」と呑気なフリをして問い掛ける。
「焼肉でさ……ビール我慢出来ると思う?」
「確かに。でも昼間から飲んだくれる訳にもいかないしなぁ。一杯、せめて二杯くらいだよね」
「じゃあ、食べた後にプラプラ歩いてさ。夜また飲んだって良いんじゃない?」
「あぁ……うぅんと、そうだね」
つい、言葉を濁した。
もう年末年始の休暇だ。征嗣さんも流石に、家族でゆっくりと過ごしているだろう。特に予定は聞いていないが、恐らく今年もいつもと同じ。義理の家族が自宅に来て、私のところへ来た時に愚痴を零す。まぁ連絡はあるかも知れないが、それでもいつもよりは少ないはずだ。今夜少し遅くまで飲んでいても、バレやしないだろう。そこまで考えを巡らせてから、あぁ、と小さな溜息を吐く。こうやって征嗣さんのことを念頭に置いている時点でダメなんだ、と。肩を落として見つめた足元は、枯れ葉がカラカラと舞った。
「教授、今日は来ない?大丈夫?」
「あ、あぁ。うん。大丈夫。もう年末だから、ほら、彼は家族と過ごすんじゃないかな」
表情を緩めてみたけれど、多分困った顔している。ダメだな。10年以上、彼を中心にして生きて来たから、なかなか抜けてはくれない。どうやったら別れられるんだろう。本当に、それすら分からない。もう会わない、と言っても、征嗣さんは私を慰めるように抱き締めた。そうやっていつも誤魔化されて、結局は離れられずに居るのだ。
「そうだ。成瀬くんって、実家はどこ?」
「実家?長野だよ。あ、でも帰らないけど」
「そうなの?年末年始って、親族が集まったりするものじゃないの?」
「あぁ、まぁ確かにそれはあるけどさ。ほら、離婚してからね。帰りにくくなっちゃって。僕の顔を見たら、親もサキの愚痴言いたくなるみたいでね。そうすると、僕もまた反省しなくちゃいけなくなる。悪循環だからさ」
「そ、そうか。何かごめん」
話題の方向転換に、と思ったが、とてもデリケートな所に触れてしまった。気にしないでよ、と言ってはくれるが、成瀬くんは少し寂しそうに微笑んだ。サキ、という元妻は、そろそろ子供が生まれる。新しい、幸せな家庭を築き始めたろうに、彼だけ取り残されている気がする。何だか不公平だ。
「成瀬くん、今夜は飲みませんか。二日酔いになっても、明日も明後日も休みだからね。どうでしょう」
「うん。僕は良いけれど、陽さんは大丈夫なの?その、教授じゃなくって、お母さん。実家に帰ったりしないの?」
「あぁ、うん。まぁ……ね。私はいつも通り、あの家で寂しく過ごしてますよ」
別に隠さず言ったって良かったのに。適当に話題を逸らして、ベェッと舌を出した。それから大きなビルを見上げるふりをして、私は空を見つめる。
私という人間は孤独で、虚しい。征嗣さんとのことに目を瞑って、成瀬くんの優しさに甘えているのだ。クリスマスの夜から、繰り返している自問自答。彼の優しさは、征嗣さんとの関係を止めさせる為に向けられている。何度もそう言い聞かせる一方で、確かに私を救い、支えてくれていることにも気が付いていた。
このままじゃいけない。征嗣さんとの関係は、きちんと清算しよう。征嗣さんは命の恩人。無碍にすることだけはしたくない。覆せない事実を並べて、私は幾度と1人で藻掻いていた。
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