第27話 彼が私にしたこと

『昌平くんって、本当に器用だね。凄いなぁ。一緒に食べてるのかな。仲良くね。素敵なクリスマスを』


 そう緋菜ちゃんに送って、ふぅ、と息を吐き出した。

 彼らはケーキを一緒に食べることになったようだった。昌平くんに、仲良くね、と口添えして暫くして、今度は緋菜ちゃんからも連絡が着た。それには、昌平くんとのことには全く触れず、『お疲れ様。仕事終わった?』と書かれているのだ。首を傾たが、同じ文面が昌平くんから成瀬くんに届いているという。彼らは何かを怪しんで、探っているに違いない。素直に返しても良かったが、何だかそれは成瀬くんに悪い気がして止めた。だから、今仕事が終わったところ、ということにして、私達はやり過ごした。それに返って来たのが、あの立派なブッシュドノエルの写真。食べ掛けを上手く加工した、緋菜ちゃんらしいものだったのだ。


「ちょっと意地悪だったかな?仲良くねって」

「良いんじゃない?」


 私達は僅かに片笑みを浮かべ、ワインの入ったグラスを持ち上げた。

 クリスマスの夜に友人と食事をしている。こんなクリスマスが過ごせるなんて、私は思いもしなかった。そんなもの、もう諦めてしまっていたのだ。そんな私と彼は違う。私は今とても幸せだし、凄く楽しい。成瀬くんは、ケーキが食べたかっただけ。ちょっと悲しい差があるが、それでも私は良いかなと思っている。

 征嗣さんが結婚をしてから、私は自然と色んな物を捨て、諦めた。結婚、出産、友人、それからこうしたイベント事。全ての代わりに、彼と居ることを選んだのである。決して幸せではないが、だからと言って不幸なでもない。そんな罪深い背徳の人生を、わざわざ選んで歩いて来た。分かってる。これは、決して胸は張れることではない。彼の家族に対する申し訳なさは、常日頃思っていること。私が先に付き合ってたはずなのに。そも思っていても、口にも出せない。選ばれなかった私は、日陰でこそこそと歩いて行く他にはないのだ。

 それが事実で、現実。考えれば溜息しか出ない。折角のクリスマスの夜なのに。


「陽さん、もう一杯飲む?どうする?」

「あぁそうだなぁ……」


 携帯を手に取り、時間を確認するフリをした。今日は年に数回ある、征嗣さんが絶対に来ることのない日。それでも、もしかしたら、と思ってしまう。でも、今夜は連絡はない。ふぅ、と吐いたのは溜息だろうか。私はどちらを期待しているのだろう。こんな夜でも、征嗣さんから会いたいと連絡が来ることなのか。それとも、連絡が来ないことに安堵することなのか。


「連絡、待ってるの?」

「え、あぁ……えぇと」


 言い淀んだ私に、彼は冷ややかな目をしていた。「そう言うんじゃないんだけどね。今何時かなって」と言い訳をすれば、彼は直ぐに私の腕時計に目をやる。あぁバレている。


「そっか。ねぇ、あと一杯だけ飲まない?そうしたら帰ろう」


 何か言われるか、と思ったが、成瀬くんはそう言った。それから自然と話題を変えて、微笑むのだ。何なら自然と話題を変えて、微笑むのだ。でも私は見逃してはいない。笑う前に一瞬だけ見せた、凍ったような目の色。彼は間違いなく、私を軽蔑している。


「あぁ、そうねぇ。いや、お酒はこれまでにして、そろそろケーキにしない?クレームブリュレにする?それともケーキ買う?」

「そうだなぁ。今日はね、ケーキが良いの。よし、じゃあコンビニとかに行って買おうよ」

「そうだね。じゃあ残りを大事に飲まないとね」


 フフッと笑い合うのは、いつもの成瀬くんだった。そこに、さっきの冷たい表情はない。不倫という行為を憎んでいる彼。そして、それをしている私。それなのに成瀬くんは、こうして友人として変わらずに居てくれる。とても優しい人だ。だからつい、その優しさに勘違いをしてしまいそうになる。成瀬くんはきっと、『不倫』という行為を止めさせたいだけ。人として、私がそれを止めることを望んでいるだけ。そんなことは十分に分かっているのに。

 虚しさの無色の世界で生きている私は、どこかで彼に包まれることを期待している。色を失くした場所に、フッと綺麗な花が咲くような。そんな淡い淡い期待を。


「あ、ねぇねぇ。私良く分からないんだけれど、クリスマスって、今日なの?」


 『あわよくば救い出して欲しい』気持ちをバッサリと捨てるように、ちょっと疑問に思っていたことを聞いてみる。カレンダーには24日はクリスマスイヴと書かれていた。世の中の人は、今日パーティをするのか、明日なのか。それがちょっと分からなかったのだ。


「クリスマスって言うのはね、24日の日没から25日の日没までなんだって」

「そうなんだ。知らなかった」

「陽さんでも知らないことあるんだね」

「あるよ、それは。クリスマスなんて縁がなかったから、尚更」


 言ってしまってから、失言だったと気付く。気不味さに目を伏せた私に、今年は出来て良かったかな?と聞こえて来た。え?と驚きながら見た彼もまた、私の方を見てはいない。グラスを持ったまま、明後日の方向を眺めていた。


「うん。有難う。とっても楽しかったよ。クリスマスの正確な日も知れたし」

「あぁうん。それはね、去年昌平くんが言ってたの。イブは前日じゃなくって、イブニングなんだよぉって」


 昌平くんの言い真似をしながら、成瀬くんの顔が緩んだ。良かった。笑ってくれているだけで、私は確かにホッとしている。


「昌平くんも物知りね」

「何か仕事の関係で、あれこれ調べたみたい。今は結構、保育園も多国籍だからって。仏教徒もいれば、カトリックの子もいる。だからクリスマス会じゃなくって、お楽しみ会なんじゃなかったかな」

「そうなんだ。全く知らない世界だなぁ」


 いつの間にか、日本も多国籍になったな、と思う。留学制度のある大学よりも、そういったことは小さな子の集まる場所の方が顕著に表れるのかも知れないな。

 そんな風に真面目に思っていると、成瀬くんがハッとする。昌平くんからのメッセージを無視したままだった、と。彼は忙しく指を動かした。メッセージを成瀬くんが打ち込んでいるから、私も自然と携帯を見る。征嗣さんからは着ていない。緋菜ちゃんからの2件だけだった。


『何よ、もう。仲良く食べてるよ。凄く美味しいよ』

『陽さんも誰かと、ケーキくらい食べてる?』


 誰かと?その言葉が僅かに引っ掛かった。成瀬くんと居ると疑っているのか。確かに間違ってはないが、彼女には知られない方が良いだろう。多分あの子は、他人の色恋に勝手に口出すことが好きだ。私たちはそういう関係ではない。おもちゃのように振り回されるのは、御免だ。


「ちょっと待って。成瀬くん、返しちゃった?」

「えっ?残業だったから今帰りだよって、送ったけど。どうした?」

「緋菜ちゃんのコレ、見て」

「なになに?あぁ、なるほど。じゃあ、続きは後で返すよ。同僚と飲んでたとかって。何か探られてるのかな、僕たち」

「うん、そうかも知れない。私たちはそう言う関係じゃないのに。何かごめんね」


 丁寧に頭を下げて、成瀬くんに謝る。だって、彼は未来のある人。私とは違う。

 そうやって、つい卑屈になるのは、今日がクリスマスだからかも知れない。もう何年も、1人で過ごすことに慣れていたのに。ここ二、三年は物寂しさが生まれるようになっていた。年齢がそうさせるのだろうと思っていたが、きっと違う。それは少しずつ征嗣さんへの熱が冷めて、周りを羨んで見始めたのだ。不倫をしていることは変わっていない。けれど、私の中はこんなにも変化していた。誰かに胸を張れるような話ではないが、それでも私は別れが近付いたと思っている。


『確かにコンビニに寄って、小さいケーキ買ったけど……1人です』

『何かごめんなさい』


 そう嘘のメッセージを返した。それから、クマが項垂れているような、適当なスタンプ。納得してくれるかは分からないが、これで収束したいところである。それにしても、何故急にそう怪しみ始めたのだろうか。

 グラスに残ったワインを飲み干して、私達は店を出る。ほろ酔い、まではいかないが、体は温かくなった。コンビニでケーキを買って、不忍池の畔へ向かって歩く。真正面から吹いて来る真冬の風。一気に冷えるようだったが、ホットコーヒーを両手で握り締めながら、遊歩道の植栽の縁に腰掛けた。彼はチョコレート、私はチーズ。いただきます、とちゃんと口にした成瀬くんに微笑んで、私もそれに続いた。頬張るケーキは、思っていたよりも甘い。あまり甘味を食べない私。今日のケーキはいつもよりも甘い気がして、思わずブラックコーヒーを流し込む。隣には、美味しそうに食べる成瀬くん。あぁ誰かと食べているからかも知れない。何だかいつもよりも味がはっきりしている気がする。店が違うのだから当然だろうが、それでもいつもよりも美味しかった。


「あ、そろそろ昌平くんに返そうかな。まだ一緒に居るのかな」

「あぁどうだろう。私のところには、昌平くんから着てないから。一緒かも知れないね」


 コンビニの小さなプラスティックスプーンを口に咥えた彼は、ササッと携帯タッチする。上手くいってるかなぁ、と彼が笑い掛けてくれる度に、膝に乗せたケーキが転がってしまわないかとヒヤヒヤしてしまう。心配して手をそちらに出して見るが、触れてしまいそうになって引っ込めた。

 目の前を通り過ぎたカップルは、幸せそうに手を握っている。そうか。あんな風に幸せな人たちは過ごしているんだな。こんな日は、1人で居たって、私を前を向いて歩かせてはくれない。見えているようで見えていない。そんな風にして歩いて来たのだろう。


「そうだ、成瀬くん。土曜日どうしようか」


 今年はこうしてケーキを食べられたが、世間を羨む気持ちが全く無い訳ではない。話題を見つけ、どうにか現実から目を逸らそうとしていた。


「え、あ。土曜日……」

「あ、予定入っちゃった?大丈夫だよ、それなら。気にしないで」


 成瀬くんは何だか驚いたように、私を見て、何度も瞬きをした。彼に気を遣わせてはいけない。予定があるのなら、そちらを優先させるべきだ。私なんかに、今日――クリスマスの夜をくれたのだから。


「本当に大丈夫だよ。気にしないで」


 もう一度そう言うと、成瀬くんは慌て始める。いや違うんだ、と慌てて右手をパタパタさるから、今度は私が不思議に思って彼を見つめた。


「今日誘っちゃったから、土曜日は会ってもらえないかと思ってた」

「え?何で」

「いや……今日火曜日だし。土曜日なんて直ぐに来るし。僕とそんなに会う理由もないだろうし……」


 何を言っているのだろう。彼の言うことの意味が良く分からない。僕と会う理由って……と、つい鸚鵡返ししていた。別に友人なら、また明日ね、と言ったって構わないはず。今日はケーキを食べたかったから、暇そうな私を誘っただけ。一体、何を気にしているのだろうか。


「あ、征嗣さんのこと気にしてる?昼間は絶対に来ないし、大丈夫だよ」

「征嗣さん?……あぁ、教授。いや、それは全く気にしてなかったです」

「そう?じゃあ土曜日は土曜日で良いんじゃないの?」

「そう、だよね。うん。そうだ」


 普通に征嗣さんの話をする自分に驚きながらも、うん、と頷く。可笑しな子だな。成瀬くんはようやくニッコリと笑う。何も元々予定していたのだから、気にすることないのに。もしかして、そう思う方が変なのだろうか。


「陽さんは、何か食べたいものある?」

「そうだなぁ。何だろう。カフェランチして、お買い物とかする?それとも、昼から肉とビール、みたいなことする?」

「それって、陽さんの意見じゃないじゃん。もう、僕が聞いてるのに」


 成瀬くんは大きく息を吐いてから、そうだなぁ、と上を見上げる。長い睫毛が、ゆっくりと揺れた。

 こんな風に会話をするようになったのは、いつ頃からだったろう。質問を質問で返してしまうのは、自分の意思がないからではないんだ。意見を言うことを抑制されてきた結果、私は何でも大丈夫ですよ、という意思表示をしている。まぁこんなこと、征嗣さん以外に伝わるはずがない。


「よし、じゃあね。こうしない?美味しい焼肉を食べて、それからプラプラお買い物とかする。どう?」


 得意気に成瀬くんが言った。私の話を一つに纏めただけだけれど。それがあまりに子供っぽくて、つい、ふふっと声が漏れた。成瀬くんは不満気に、わざと拗ねて見せる。あぁ彼も彼で、楽しんでいるのかも知れない。そう感じられれば少しだけ『今夜を私にくれたという罪悪感』が、やんわりと薄れるような気がした。


「決まりね。店はさ、幾つか見つけて連絡するよ。そこはちゃんと選んでね」

「分かりました」


 いつの間にか最後の一口になったケーキを、彼はパクリと頬張った。味わっていたと思うけれど、何だかいつ食べたのか分からない。私も最後の一口を食べて、少しだけ微笑んだ。きっと話をしたり、目の前を通って行く人を羨んだり。自分で気が付かないうちに、心は忙しかったのだろう。


「そうだ、えっとね。陽さん」

「何?」


 成瀬くんは鞄を覗き込むと、小さな紙袋を私に差し出した。メリークリスマス、と言い添えて。


「えっ、ヤダ。えっ。私、何も用意してないです」

「あぁ、良いんだよ。僕が急に誘っただけだし。それに、大したものじゃないんだ。本当に。だから気軽に、受け取ってください」

「えぇと……有難う。開けても良い?」

「うん。でも本当に大したものじゃないんだよ」


 受け取ったのは、小さな紙袋。可愛らしいサンタのシールが貼られている。どうぞ、とジェスチャーをする彼は、何だか恥ずかしそうだった。


「え?ふっ、可愛い」

「良かったぁ。悩んだんだけどね。これが一番失敗ないって気が付いたんだ」

「確かに、そうだね」


 袋の中から出て来たのは、彼の会社の製品たち。少しだけ良いボールペンと綺麗な色のペン。それから、可愛らしいイラストの付箋とシール。きっと彼が、何かしら携わった商品なのだろう。自信を持って世に出した物ならば、確かに間違いがない。


「有難う。とっても嬉しいです」


 私はそれをギュッと抱き締め、嬉しい、とまた呟いた。プレゼントの中身など、きっと何だって良くて。私にしてみれば、高い物でなくても、それが特別じゃなくても良かった。私なんかを気に掛けて、選んで来てくれた。その事実があまりに嬉しくて、泣いてしまいそうになる。珍しく征嗣さんも、今年は欲しものを聞いて来た。けれどあれは、こういう気遣いではない。恐らくあれは、懺悔だ。あの人は、謝りたくても、素直にそう出来ないから。成瀬くんがくれたこれとは、重みが違う。私はそれに気が付いていた。


「良かった。実はちょっとね、緊張したよ」

「本当?」

「だって、プレゼントって言う程の物じゃないしさ。しかも自社製品だもん」

「でも、自信を持って世に出した物でしょう?そんなに卑下しないでよ」

「うん。色とかそう言うのは、ちゃんと陽さんに合うものをチョイスしたからね。僕が出来ることは、それくらいしかなかったんだけど」


 彼は恥ずかしそうに言った。例え色や絵柄だけだったとしても、私のことを考えて選んでくれたことが嬉しい。でも、それは伝わらないかな。征嗣さんにはないこと、と結局比べているのだから。あの人は、欲しい物はあるか?と直球で聞いて来る人。私を思って、想像して、何かを選ぶなんてことは、決してしない。成瀬くんはこんなに優しいのに。成瀬くんなら……

 そして私は、今日何度目かの勘違いを起こしそうになる。彼は友人だ。哀れな私に慰みの手を差し伸べて、クリスマスという日を一緒に過ごしてくれているだけ。それを忘れてはいけない。この優しさは、同情に過ぎないのだ、と。


 今日彼が、私にしてくれたこと。世間が幸せそうな夜に見つけてくれて、更にこんな温かいものをくれる。私は今日、成瀬くんから沢山の物を貰った気がしている。少なからず、征嗣さんを思って泣くようなことはない。心の中がようやく溶け始めたような、そんな気もしていた。

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