第26話 クリスマスの夜に
「お疲れ様です」
「お疲れ様。気を付けてね」
12月24日。火曜日だと言うのに、若い子達はもう朝からソワソワしていて、今日は定時で帰って行く。勿論今年も、私は彼らを笑顔で送る係。この日の家での時間を減らす為に、かき集めて置いた仕事もある。どうせ征嗣さんは来ない。家でパーティーでもするのだろう。分かっているのに部屋に居ると、もしかしたら、と思ってしまうから。こんなことを何年もしている私。イベントの日の残業など慣れたものだ。それなのに年々、寂しさを感じる部分が大きくなった気がしている。パソコンの画面を見つめながら、溜息が零れた。
かき集めて置いた仕事も、限りがある。そして、それ程急ぎでもない。どうやっても19時まではもたないだろう。そうなれば、帰るしかない。あぁこの間のカレー屋にでも行こうか。結局熱々は食べられなかったし、今日はあの可笑しなイントネーションを聞いたら、薄暗い気持ちも揺るぐかも知れないし。自分の行き先を決めたら、次の心配が顔を出す。それは昌平くんのこと。彼は今日、緋菜ちゃんに会いに行くか悩んでいたのだ。ケーキでも作って持って行ってみたら?と提案をしてみたが、それも彼を悩ませてしまった。今日は仕事だ。そんな時間もないからだろう。
大丈夫かな、と心配をしたとほぼ同時に、携帯が鳴る。そこには、成瀬文人と表示された画面。私は直ぐに出ずに、首を傾げながらそれをじっと見た。一体、何だろう。
「はい?成瀬くん?」
「お疲れ様です、陽さん」
「どうしたの?」
今日は課長も帰ってしまったし、1人だけれど。万が一を考えなければいけない、と酷く小さな声で応じた。
「急に電話してごめんなさい。まだ仕事中ですよね?大丈夫ですか」
「あぁ、うん。若い子たちは帰らせたし、後はのんびりやるだけだから。でも、本当にどうしたの?何かあった?」
「あぁえっと。その、今夜会えませんか」
「今夜?これからってこと?」
何か急用でもあったか。昌平くん達のことだろうか。
「忙しければ良いんです。ただ、どうかなって思って。僕が御茶ノ水まで行くので」
御茶ノ水はダメだ。征嗣さんが来るかも知れない。
「それは……。えぇとそれなら、上野の中央改札に一時間後。どう?」
「分かりました。仕事、慌てないで大丈夫なので」
「うん、じゃあ後でね」
そう告げて、電話を切った。学校で連絡をするのは、最小限でなければいけない。やりかけの仕事。これだけは終わらせよう。慌てて帰る様を見せるのは、得策ではない。それにしても何だろう。今日じゃなければいけなかったのだろうか。先日成瀬くんから連絡を貰って、土曜日にランチに行こう、と話したばかりだ。それ程急用だということか。
急ぎながらも不自然にならぬように、手を付けていた仕事は終わらせた。それから、いつもの通り慌てずに駅へ向かい、いつもと違う電車に乗る。多分、時間ギリギリには着くだろう。時計に目をやってから、小さく溜息を零した。どこの駅でも、幸せそうな恋人達が目に入る。いつもだってこのくらいはいるのかも知れないが、今日はやけに目に付いた。けれど、私が溜息を吐く原因はそれではない。大きなケーキの箱を抱えて家路に着く男の人を見る度に、である。
上野に着いて、大きな溜息を吐いた。成瀬くんに会う前に、携帯を確認しておかなければ。着ていたメッセージは1件。当然、征嗣さんではない。緋菜ちゃんだった。『今日はどうするの?』と書かれている。私が暇だと思うと、ご飯に行こうと言われるだろうか。昌平くんは誘ってみるか悩んでいたし、ここは『まだ仕事なの』と返しておこう。よし、と呟いて、中央改札まで少し急いだ。同じようなコートを着込んだ男の人が沢山いる。成瀬くんを見つけられるだろうか。改札を出て、キョロキョロと見渡す。直ぐに目に入った成瀬くんは、ポケットに手を入れて、寒そうに身を縮めていた。
「成瀬くん。お待たせ。あっやだ、ちょっと遅れちゃったね。ごめんなさい。連絡入れれば良かった」
「いえ。と言うか、陽さん。まだ33分です。気にする程じゃないです。そんなことよりも、僕の方こそ急にお誘いしてすみません」
深々と頭を下げるから、何か深刻な話なのかと緊張する。先ずは呼吸を整えて、真っ直ぐに聞こう。気不味い話だったら、彼は直ぐに場所を指定するだろうから。
「あの、今日はどうしたの?」
「えっと、あの……その。一緒に、クリスマスケーキ、食べたいなって思って……」
「クリスマスケーキ?」
「喫茶店とかでケーキとコーヒーどうかなぁって。その、気分だけでも」
「え?それだけ?」
思わず本音が漏れた。何か凄く大事な急ぎの相談でもあるのだ。そう思って来たから、呆気に取られてしまったのだである。「それだけです……すみません」と彼はシュンと項垂れた。
「あ、いやいや。土曜日に会うのに、急に電話くれたから。何かあったのかと思った。それならそうって言ってくれたら良かったのに」
「クリスマスだからって言ったら、嫌がられるかなって思っちゃって」
「何それ。だってクリスマスじゃない。変なの。もう」
紛れもなくクリスマスイヴと言われる夜である。特におかしなことでもないが、何かを気にしてくれたのだろう。普通に「ケーキを一緒に食べよう」って言ってくれれば、凄く嬉しかったのに。気を遣わせてしまったのかな。
「この時間だし、カフェだとチェーン店かなぁ。それか純喫茶みたいなところか、他はもう……お酒を飲むか、だね。でも、ケーキ置いてあるかなぁ」
「あぁそうか。そうだよね。クリスマスケーキって、買って帰る物だもんね。何かごめん。そこ考えてなかった」
買って帰る物、というのが正解なのかも分からなかった。それなのに謝る成瀬くん。別に変なことは、言ってないと思うけれど。何だか今日は、彼が少し変だ。
「謝らないでよ。良いじゃない。クリスマスなんて暫くなかったから、嬉しかったよ。有難うね」
素直にそう言った。本当に久しぶりだった。誰かとクリスマスを過ごすなんて、私の人生ではもう無いと思っていたから。だから、今は嬉しい。こうして誘ってくれる友人が居ることが、とても。
「陽さん。ちょっとだけ、飲まない?」
「ん、いいよ。ちょっとだけなら」
「うん。あ、じゃあ僕の家の近くなんだけど、イタリアンがあるんだ。結構穴場でね。そこでもいい?」
うん、と頷くと、ホッとしたようだった。仕事や緋菜ちゃん達のこと、色々話しながら並んで歩く。自然に出来ているのかな。男の人と並んで歩くことが、私はあまり経験がない。学生の頃に征嗣さんとそうしたけれど、それもまた、今の彼の記憶で塗り替えられてしまったようなものだ。悲しいけれど。
緋菜ちゃんのことは、彼もヤキモチだろうと言う。そうなれば、昌平くんは押すものなのか。いや、引くべきか。恋の駆け引きなど疾うに忘れてしまった、と苦笑した私。彼も同じだと言うから、顔を見合わせて噴き出してしまった。友人が居るって、楽しい。男友達というものに、私はそもそも縁がなかったけれど、案外女友達と変わらないのだな。異性だと意識さえしなければ、こうして腹を抱えて笑っていられるのだから。
「陽さん、ここ」
「へぇ、こっちの方ってあまり来ないなぁ」
彼の指した場所は、春日通りと不忍池の間。確かに穴場かも知れないな、と思った。酒を飲みたけりゃ、アメ横の方へ行くだろうし。デートに、というには心許無い。そんなところだった。通された店内はそれなりに混み合っていたが、待つこともなく奥の方の席に通される。それぞれのクリスマスを過ごす人を見ながら、成瀬くんと向かい合う。そして直ぐに、私はメニューへ手を伸ばした。心配だったのだ。彼の望むようなクリスマスケーキがここにあるのだろうか、と。あぁやっぱり。ワインの種類は沢山あるのに、デザートにそれらしきものはない。クレームブリュレがまぁ一番近いか。
「ねぇ。クレームブリュレ食べても、クリスマスケーキになる?スイーツがそれしかない。どうしよう。これだと、どちらかというとプリンよね?」
折角、クリスマスケーキを一緒にと言ってくれたのに。その目的の物がない。どこかで調達する?そんな場所、あるかしら。
「何でも大丈夫だよ。僕が……」
「ん……え?ごめん、何て言った?」
「いいんだって。ほら、コンビニで買って食べたって良いんだし。ここは美味しいの食べようよ」
「そ、そう?」
僕が何とか、と言ったけれど、後ろの席の女子会が盛り上がっていて、良く聞こえなかった。成瀬くんはやっぱり優しい。食べたかったケーキがなくても、苛立ったりはしない。普通はそうなのかな。征嗣さんなら、直ぐに怒りだして帰ってしまいそうだ。まぁそうやってデートをすることすら、もう無いけれど。
「私ねぇ、キッシュとキャロットラペが食べたいです。成瀬くんは?」
「そうだなぁ。ソーセージの盛り合わせとポテトサラダかな。お酒は何にしよう」
「ワインも良いけど、今の感じならクラフトビールも良さそうだね」
「確かに。じゃあ、ビール飲もうよ」
そんなことを言いながら、食べたい物ばかりをチョイスした。一応、クリスマスプレート、と書かれたオードブルセットなんかもあったけれど、私も彼も全く頼もうとしなかった。成瀬くんは、クリスマスだからと言うよりは、ケーキが食べたかったのかな。男の子が1人じゃ、買ったりするのも恥ずかしいのかも知れない。それには気付かないフリをして、仕事は忙しいの?なんて話始める。私も彼も、良い大人だ。友人といったって、相手を気遣って、深く掘り下げるようなことはしない。
「お疲れ様ってことで。乾杯」
「お疲れ様でした……ん、どうしたの?」
「どうしたの?」
「あっ、いや。何でも、ないよ」
「そう?何か今日は成瀬くん変ねぇ」
妙に気不味そうな顔をして、1人でハッとしている。何かあったのか。聞いても、何でもない、としか答えない。私が出来ることなど何もないのかも知れないが、笑っていてくれたら良いなぁ、と思った。彼は、私の大事な友人だから。
「あ、成瀬くん。そう言えばさ」
「えっ?え?」
「どうしたの?緋菜ちゃん達どうしてるかなって言おうとしたんだけど」
「あぁ昌平くん達ね」
何だか酷く驚かれてしまった。心ここに在らず、とまではいかないが、何かが彼を悩ませているようには見えた。
「さっき、緋菜ちゃんが連絡くれたんだけどね。陽さんは今日どうするの?って言うから、仕事って返しただけで終わっちゃったの。その後何も送って来ないって、珍しいよね」
そうだ。もしかしたら昌平くんが、誘ったかも知れない。ケーキでも作って行ってみたら、と提案はしてみたが、その後はまだ分からない。何か連絡着てるかな、と呟いて、確認しようと携帯に手を伸ばした。
「何も……ん?昌平くんからだ。ちょっと待って。え?えぇっ」
「何、どうしたの?」
昌平くんから着ていたメッセージには、『悩んだけれど、今から緋菜のところに行って来る』と書かれている。それから、添えられた美しいブッシュドノエルの写真。成瀬くんにも見せて、2人で絶句している。平日だから難しいよね、なんて話したが、まさかこんなに完璧な物を作り上げるとは思わなかった。仕事を終えてデコレーションだけするように、前日から調整したのだろうか。その努力の背景を考えると、緋菜ちゃんへの気持ちは本物。それだけは間違いないだろう。
「これは相当な展開ですね。頑張って、とかって入れればいいかな」
「う、うん。きっとそう。ちょっと驚き過ぎて、何て言って良いのか分からないや」
「だよね。本当にお菓子作りが得意なんだね。私も驚いた」
それは想像していた以上だった。『ケーキ美味しそう。頑張って』と短く打ち込んで、携帯をテーブルに置く。上手く渡せるだろうか。成瀬くんも身を乗り出して、彼らの結果を気にしている。
クリスマスなんて言ったって、特別なことをしなければならない訳ではない。いつものように、友人と酒を飲むだけだって良いじゃないか。誰に後ろ指さされている訳でもないのに、心の中の私がそう主張していた。
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