第25話 今夜も、私は
クリスマスまで2週間。淡く光る電飾を横目で見ながら歩く日暮れの街。今日は平日。緋菜ちゃんとは休みを合わせて、彼女の部屋の片付けと簡単な料理をした。あぁ折角なら、緋菜ちゃんとご飯を一緒に作って食べたかったな。簡単な味噌汁の作り方も教えたし、そのままご飯を作ったら楽しかったろうに。あぁ週末ともなれば、ここも賑やかになるのだろう。この綺麗なイルミネーションに浮かれた人達で。
「幸せそう……」
浮かれた人達を想像しながら、気付けばそう虚しい独り言を零していた。そして続けて溢れる溜息。全ての理由は、勿論あの人だった。
最近、やたらと征嗣さんが煩い。どこへ行っていたんだ。誰と会っていたんだ。自分は結婚したくせに、私を監視していたいのだろうか。そのやり取りに辟易して、流石にもう終わりにしようと決心はしている。
どうしたら別れられるんだろう。これまでだって考えて来たし、何なら実行もして来た。何度か征嗣さんに言ったことがあるのだ。まぁ相手にもされなかったが。別れたい。自由になりたい。あの人を陥れたいだとか、不幸にしてやりたいだとか、そんなことは1㎜だって思っていないのだ。素知らぬ顔をして生きていって欲しい。ただ、それだけなのだけれど。
「あぁそうだ」
悶々とし始めた頭の片隅で、ハッと思い出した昌平くんのこと。最近連絡をしても、緋菜ちゃんに無視されてしまうと悩んでいた彼。今日は少し探りを入れるつもりで彼女と話したのだが、そこで私は一つ気付いてしまったのだ。彼女も彼女の方で、色んなことを感じていたということに。
事の発端は、数日前の昌平くんとの電話だったらしい。その終わり、切れかかった電話口から聞こえて来た彼の声。同僚の女の先生の名を呼んでいたそれが、緋菜ちゃんは面白くなかった。だから昌平くんからのメッセージに返せずに居たのだ、と。ヤキモチじゃない?と言った私を、彼女は鼻で笑ったけれど。私にはそう見えなかった。もしかすると、緋菜ちゃんも恋だと自覚する?仕舞い掛けた携帯をタップして、今度は成瀬くんへメッセージを打ち込んだ。
『緋菜ちゃん、少し気持ちが変わって来たのかも。ヤキモチ妬いたみたい』
そう送ったら、少し表情が和らいだ。征嗣さんのこと考えれば、これも瞬時に無くなるだろう。対極にあるようなことを考えていなければ、気は紛れないのである。成瀬くんは何と言うだろう。驚くかな。彼は昌平くんの幸せを願っていたから、喜ぶだろうか。
あれから、私達の距離は縮まったように思う。成瀬くんは1人で過去を抱えて苦しみ、自分の幸せは望まず、友人達を見守って来た。とても優しい子だ。成瀬くんが昌平くんに幸せになって欲しいと願うように、私は彼にそう思っている。きっと彼が幸せそうに笑っていてくれれば、私も満たされる気がするのだ。首元に入り込む風が冷たい。ストールをギュッと巻き付け、家路を急ぐ。今日はもう何かを買って帰ろう。それを食べたら、読み途中の小説を読もう。出来るだけ楽しいことを考えながら、私は突き当りにあったカレー屋の扉を開いた。
初めて入る店だった。インド辺りの顔をした店員がニコニコしながら、「イ、ラッシャイマシー」と迎え入れてくれる。ちょっと惜しいな。少しクスリと頬を緩めて、バターチキンカレーとナンを頼んだ。香辛料の香りが漂う店内。何となくあの辺りの音楽が流れる。待合の席に座って、携帯を手にした。新着メッセージは2件。1件は、昌平くん。有難う、と礼を言ってくれたもの。それからもう1件。成瀬くんかな、とちょっと期待のに、それは征嗣さんからだった。
『今日は何してる』
陽気に聞こえていたはずの音楽が、鳴り止む。疑問形でも何でもない、淡白なこの文面。あの人らしいが、思わず大きな溜息が零れた。
『今上野で、インドカレーをテイクアウトするところです』
可愛らしく書くことはない。私だって、結局いつもこうだ。こんな無機質なやり取りを、私達はもう何年も続けている。そんな誰にも言わずにいた征嗣さんとのことを、私は先日成瀬くんに話した。その時、彼が言ったこと。愛しているのか、と。単純で重たいその言葉に、私は1人、今も苦しんでいる。あの人――征嗣さんは、私の一体何なのだろう。夫でも彼氏でもない。父親でもない。友人かと言われれば、そんなはずもない。説明をしろと言われれば、彼は勤務している大学の教授。そうでなければ、卒論の担当教員。つまり、私は彼の教え子。何だか増して、不純である。
表情を失くしていた時、笑顔の店員が顔を出した。さっきまで聞こえなかった音楽も急に流れる。会計を済ませ、それを受け取ると今度は、「アリガトーゴザ、マシター」とまた不自然な日本語で彼は微笑んだ。また堪え切れずに、クスッと笑った。味が好みだったら、今度は店内で他の物を食べよう。そんなことを考えながら、動物園通りを歩いた。ここはよく歩くところだが、最近は何だか、いつも成瀬くんが居る気がする。もう少し行ったら、元奥さんに会ってしまった場所。今度、また彼を誘ってここへ来よう。嫌な思い出の場所にしない為に。
そんな時に電話が鳴る。緩んでいた顔は、直ぐに元に戻った。征嗣さんかも知れない。カレーを零さないように、そっと携帯を探り出した。恐る恐る見る画面には、成瀬文人――今思っていた彼の名が表示されていた。
「もしもし、こんばんは。成瀬です」
「こんばんは。お仕事?お疲れ様」
「あれ?陽さん、休み?あぁだから緋菜ちゃん」
「あぁそう」
カレーに気を付けながら、また歩き始める。今日の緋菜ちゃんのことと、それから昌平くんの様子も伝えて。結構良い感じだよね、とコソコソと話しをした。
「そっかぁ。あれ、陽さん。外に居る?」
「あ、うん。不忍池の辺りを帰ってるところ」
「今から、会える?どこかで飲まない?僕が行くから」
「あぁ、えぇと……」
「今日も来るの?」
言い淀んだ私に、彼が冷たくそう言った。
今日も来るのか。それは、征嗣さんが、という意味だ。その言い方が、何だかちょっと癇に障った。もう止めておけ、と言いたい気持ちは分かる。冷ややかな目線を送られるのも仕方ない。けれども、そんな風に言われる間柄なのか。友人だと思っているけれど、まだ浅い関係だ。私を軽蔑してまで友人でいてくれなくたって良い。そう思ってしまう自分も確かに居た。私は、歪んでいるのか。
「ごめん。僕がそんな風に言うのはおかしいね」
黙り込んだ私。彼は落ち込んだように、そう声のトーンを下げた。あぁそうだ。彼はまた、誰にも言えなかったであろうことを私に話したところだ。しかも、会いたくなかったであろう元妻と元親友に会ってしまった。私よりもずっと、心は平穏でないだろう。
「いや、ごめんね。テイクアウトでカレー買っちゃって。今零さないように、そぉっと歩いてたところで」
「あぁそうなんだ。ごめんね」
成瀬くんは、何だかシュンとしたまま。大丈夫かしら、と心配になってしまう。「じゃあ今度ランチに行こうよ。どう?」と思わず言ってしまった。でも昼間なら、征嗣さんに振り回されることはないはずだ。
「いや、何か気を遣わせてごめん」
「ヤダ、そんなに謝らないでよ」
やっぱり、元気はない。あの夫婦を目の当たりにしたことは、彼にとってどれくらいショックだったのだろう。幸せの象徴のような大きなお腹。あの事実は、彼に複雑な衝撃を与えたのかも知れない。
「うん。そうだね。じゃあお店探してみるよ。折角だから、美味しいの食べに行こう」
「そうだね。お任せしても良いの?」
「うん。あ、でも。ご希望があれば早めにお願いしますね」
分かりました、とちょっと笑った私が見たもの。マンションに向かっている男の人の後ろ姿。見たことのある、いや、見慣れた後ろ姿。あれは……あの襟足の癖毛。大きな丸い肩。征嗣さんだ。見間違えるはずがない。でも、どうして?来るなんて言ってなかったのに。
「陽さん?大丈夫?」
「あ、うん。じゃあ……またね」
「うん。じゃあね」
立ち止まったままだった。成瀬くんに小声で別れを告げ、慌てて電話を切る。何度も繰り返す深呼吸。平静を取り戻さねば。何かを疑われてしまったら、後々厄介なことになるのは間違いない。インターホンの前で止まった彼を、一度追い越す。こんばんは、と小さくお辞儀をして。私が部屋へ入り、一呼吸置けば、彼からインターホンが鳴るだろう。疚しいことを続けている私達の、いつの間にか出来上がった習慣だ。
「ふぅ」
持っていたカレーをキッチンに置くと、直ぐにインターホンが鳴った。どうぞ、と彼を招き入れる。彼がここへ上がって来るまでに、もう一度呼吸を整え直さなければ。大きくて、長い息を吐き出す。そうして、玄関の戸を開けた。
「おぉ、丁度帰りだったか」
「うん。来るんだったら言ってくれたら良かったのに。カレー、征嗣さんの分買ってないよ」
少し頬を膨らませて言ってしまうのは、もはや悲しい性でしかない。靴を脱いで、いつものように部屋に入って行く征嗣さん。私はその後ろで成瀬くんを思い出して、ギュッと瞑って残像を消した。征嗣さんがここに来たのは金曜の夜。一週間も経たないうちに、他の男が部屋に入ったなんて知られたらいけない。家中を綺麗に掃除をしたが、粗がないかと不安になる。一瞬でも挙動が不審になれば、征嗣さんは絶対に気が付くだろう。彼はそう言う人だ。
「あぁ、いいよ。飯は家で食うって言ってあるし、直ぐ帰るから」
「そう、なんだ」
じゃあ何で来たのよ。そう思うのに、私は適当に笑って誤魔化すだけ。実際にそう言うことは出来ない。だって未だ、思ってしまうのだ。時間がないのに会いに来てくれた、と。そして、それが嬉しいと思える感情が、今も何処かにある。だから私は、別れることが出来ないままなんだ。
「そうだ。見て、ナン大きいでしょう?家じゃこんな風に焼けないし、楽しみ。新しいお店だからね、美味しいのかは分からないんだけど」
直ぐに帰るって言ったって、コーヒーくらいは飲むのだろう。湯を沸かし始め、そんなことを言ってみる。征嗣さんがそれに興味のないことは分かっているが。コーヒー豆の瓶に手を伸ばすと、そっと征嗣さんの手が重なった。私を包み込むように抱き締めると、髪の匂いを嗅いでいる?疚しいことがないか、の確認だろうか。
「陽。何か隠してることでも、あるのかい?」
「何もないわよ。どうしたの?」
「君がそんなに色々喋るなんてこと、いつもはしないだろ」
「そんなこと、ないでしょう?私だってお喋りをすることくらい、あるわ」
本当は、鼓動が早い。征嗣さんの手に伝わっているのではないか。お友達と会っていた、と正直に言えばいいのは分かっている。嫌味が一つや二つ付くだろうが、それは事実なのだから。ただ、心配なのはさっきの電話のこと。聞こえてはいなかっただろうが、あれこそバレたらどうなるか。しかも、相手のことを征嗣さんも知っている。面倒なことになるのは目に見えているのだ。出来るだけ細く、静かに息を吐いた。
「あ、ねぇ。征嗣さんって、いつもどの豆買ってる?グアテマラ?」
「豆かぁ。最近は、マンデリンが多いかなぁ」
「インドネシアのか。これは、ケニアのなんだけど合うかなぁ。ちょっとフルーティなの。グアテマラ終わったから買ってみたんだけど」
豆の話をして誤魔化してみる。こんなことでやり過ごせるのか、と不安は拭えないが仕方ない。
飲み終わったグアテマラ。最後は、成瀬くんと並んで飲んだ。あの時の彼の死んだような目。今もここから小上がりを見ると思い出してしまう。重ねた唇。彼はきっと覚えてないだろうけれど、私は毎日思い出していた。そうなっても仕方がない。ここに呼び入れたのは私。ふぅ、と小さな息を吐いて、母の写真を全部倒した。
「今日は俺が淹れようか」
「本当?やったぁ。征嗣さんみたいに上手に淹れられないんだよね。いっつも、ちゃんと見てるんだけどなぁ」
「年季が違うからな」
良かった。ちょっと嬉しそうな顔をして、征嗣さんが腕捲りを始めた。あぁ、どうして私じゃない人と結婚をしたんだろう。奥様は、偉い教授の娘。それだから私じゃなくて、彼女を選んだ。それは分かってるんだけれど。こうやって2人でコーヒーを淹れたりして、きっと楽しく過ごして行けたのに。いつもそう思ってしまう。本当に馬鹿な女。
「陽。クリスマスはどうするの?」
「どうするって?だって、征嗣さんはお家でパーティでしょ。ちゃんとプレゼント買った?」
「おぉ。嫁のは買ったよ。娘のは一緒に買いに行くけどな」
「そう、なんだ。へぇ」
妻の分のプレゼントを買った、と私に言う心理はなんだ。ヤキモチでも妬かせたいのか。そんなもの……
「私はクリスマスも仕事。それ以外の予定はないわよ。知ってるじゃない」
「まぁな。でも陽、何か欲しいなら言ってごらん?」
「え?征嗣さんが何かくれるの?」
「そうだよ。だから聞いてるんだろうが」
征嗣さんが私に何かくれたことなど、今まであったか。付き合っていた頃に、ハンカチをくれたくらいではないか。コーヒー豆を買って来たとか、そう言ったことはあったが、基本この人にプレゼントを贈る習慣はない。急に欲しい物はないかって言われたって、思い付く物がない。征嗣さんの時間が欲しい、とは口が裂けても言えないし。……あぁダメだ。別れるんだ。何を考えている。これまで長い年月をかけて刷り込まれた感覚が、こうやって何度も私の決心を鈍らせた。
「大丈夫。有難う」
「そうか。クリスマスは仕事だけか?」
「そうだってば。あぁでも、年越しはお友達と過ごすことにしたよ」
「友達?」
「そう。私より若くて……緋菜ちゃんっていくつだっけ。えぇとね。お仏壇屋さんで働いてるの。可愛らしい子よ」
「仏壇屋?ふぅん」
ワザと緋菜ちゃんと言ってみる。少しでも現実味があった方が良いかな、と思っただけだが。それでも、彼女がここに来るのは事実だ。昌平くんと成瀬くんも来るけれど、それは言う必要はないか。そうだ。成瀬くんも、またここに来るんだな。ここに来たら、何かを思い出してしまわないだろうか。
「本当に友達いたんだな」
「征嗣さん。私にだって、一緒にお食事に行ったり、飲みに行ったり、お家に行ったりするお友達がいるのよ。もう」
「へぇ……」
緋菜ちゃんと仲良くなれて、本当に良かったと思う。今までの私なら、ここまで言い返すことはなかった。何だか、ちゃんと別れられそうな気がする。そう希望を持っても、征嗣さんの目はまだ私を疑っている。直ぐに帰ると言ったこの人が、本当にその通りにするのか分からない。奥様は呑気なお嬢様で、「仕事でトラブルが」とでも言えば簡単に受け入れるらしい。つまり、私がこのねちっこい視線から逃れるには、きっとまた苦しむ必要があるのだろう。
「陽、やっぱり何かあったな?」
「……え?」
征嗣さんはコーヒーを落としながら、そう呟いた。私の方は見ない。何かボロを出した?今間違ったことは言ってないはず。
「何もないって。今日は、緋菜ちゃんっていう子のお家に行ったけれど」
「けれど?陽。正直に言いなさい」
振り向いた彼の視線が、また私を探っている。あの蛇のような獲物を逃がさない目。静かにそれを外し、彼はコーヒーをカップに注ぐ。正直に言ってるよ、とようやく答える私の声が緊張していた。
「ほら」
「あ、有難う」
その後の会話が続かない。征嗣さんは笑顔を作って、私をじっと見ている。カフェテーブルには香ばしい湯気の立つカップが2つ。それに伸ばそうとした手が、微かに震えた。落ち着け、落ち着け。
「陽。誰に抱かれたか?」
「え?何それ。そんなこと、してない」
「そんなことはしてないけど?ヒナちゃんっていう子、以外の誰かと会ってるんだな。この間の男か?」
「そんなこと、私言ってないじゃない」
体が急に強張っていく。笑うことも、泣くこともない。ただ、叱られる子供のように委縮して、怯えているのだ。
「陽、何年お前を見てると思ってるんだ。言い方、表情で大体分かる」
「征嗣さん、本当に違うの」
「何が違うんだよ。いいか、俺は全部知ってるんだ。お前の性格も、何もかも。どこが一番感じるか、もな」
意地悪なことを言う征嗣さんは、もう何も聞いてはくれないだろう。押し倒され、逸らせない視線が、私の全てを読み取っていくようで怖い。彼は表情を何一つ変えないまま。私の服の中に入り込んだ手が、肌を辿る。ビクン、と体が跳ねると、徐々に全身から血の気が引いていく。
私はどうしたいの?別れたいんじゃないの?そう思っていたはずなのに。私は、この視線からいつも逃れられない。あぁ、写真を倒しておいて良かった。そう思いながら今夜も、私はただ強く目を瞑った。
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